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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第2章 それでも君は、取りもどすの
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猫のミラリス

 窓の外はまだ暗かった。


 着替えを済ませ、今日の講義の準備を整える。

 それでもまだ、部屋を出るには早い時刻だった。


「どうしよっか、ねえミラリス」


 声をかけた先に、答えはなかった。


 セレナは視線を落とす。

 さっきまで足元にいたはずの白銀の影が、消えていた。


 扉が、細く開いている。

 いつの間に。


 廊下に出ると、ミラリスの後ろ姿が角を曲がるところだった。

 セレナは慌てて追いかける。


 階段を降り、居住小塔の入口から抜け出る。

 急いで出てきたので上着を羽織るのを忘れていた。

 朝ぼらけの肌寒さをふいに感じて肩を抱く。

 ミラリスは優雅な足取りで進んでゆく。

 ひとりと一匹は、そのまま連なって主塔を西側から回る。

 猫は足を止めない。

 セレナは直感する。

 この子は、どこかに私を連れていきたいんだ。


 猫はリウレンたち寝泊まりをする男性用の居住小塔の入り口を通過する。

 夜間こそ異性の訪問は禁止されているが、それ以外なら出入りは自由だ。


 まだ人の少ない居住塔の中をミラリスは一度も振り返らずに歩いた。


 やがてミラリスが足を止めたのは、三階の教師居住区。

 ――リウレンの私室の前。


 扉は開いていた。


 だがセレナが踏み込もうとした瞬間、ミラリスがその場でじっと立ち止まる。

 まるで、自分の役割はここまでだと言うように。


 セレナは扉の向こうを覗く。

 中に、リウレンはいない。

 かわりに、窓際に立つ人影がひとつ。


 女性にしてはかなり高い身長。

 隙のない立ち姿。

 塔主シェラン・ナージュが振り向く。

 縁のない眼鏡をかけたその顔に、セレナははじめて、塔主の疲れを見た。


「入れ」


 短い一言だった。

 何も聞かない。

 シェランもまた、セレナの訪問を予期していたのかもしれない。

 セレナはミラリスを抱き上げ、部屋の中に足を踏み入れる。


「昨夜、ゼル・イルナフが塔を出た。

 リウレンに依頼されていたある遺物を返却せずに」


 シェランは窓の外を向いたまま言う。

 曇天の下、塔の裏門へと続く道が伸びている。

 道は裏手の林に紛れて細くなり、ここからではその先は見通せない。


「逃亡だ。

 塔の管理部はそう判断した。

 今朝がた、その幇助の疑いで、リウレン・ルゼリアが獄室に収監された」


 セレナは息を呑む。

 言葉が出てこない。


「リウレンは否定している。

 だが、証拠がない。

 ……私は塔主だ。

 しかし独裁的な権利があるわけではなく、管理部全体の判断を覆すには、状況が不利だ」


 シェランがようやく振り向く。


「すまない。

 庇いきれなかった」


 塔主は深く頭を下げる。


「これは私の責任でもある。

 リウレンは、疑いについては否定しているものの、昨夜の出来事については淡々と、むしろ積極的に供述してくれている。

 だがリウレンの言葉を待たずとも、ゼルの過去を、私はある筋から聞いていた。

 何かが決壊して、悲劇として結ぶ未来図を――私はどこかで、ずっと思い描いていた気すらする。

 あの出会いが二人を良い方向へ導けばよいと、願っていたんだが」


 シェランは窓の外に目を戻す。

 そこに何を見ようとしているのか、セレナには分からない。


 セレナは首を振る。

 昨日、去りゆく二人の背中に感じた不安が現実のものとなったのだ。


「シェランさんのせいじゃありません」


 声が震えないように気をつけながら、言葉を続ける。


「みんなも分かってくれるはずです。

 リウレン先生が――この塔を裏切るようなことをする方じゃないって。

 それにイルナフ先生だって……

 きっと、何かわけがあるんです。

 誰にも言うことのできない。

 いいえ――人に打ち明けるには、あまりにも辛すぎる、残酷な事情が」


 そこで、足元から声がした。


「にゃぁ」


 シェランがはじめて気づいたように、視線を落とす。

 ミラリスが、塔主を見上げていた。

 ただじっと、何かを問いかけるように。


「セレナ、この猫は?」


「かわいいですよね!ふわふわしてて、なでるとすべすべで!」


 沈黙が落ちた。


 セレナははっと我に返り、場違いなことを言ったかと顔を赤くした。


「す、すみません。

 ……今朝起きたら、私の布団で一緒に寝てたんですよ、この子。

 それから、この子がここに私を連れてきてくれて……

 ね、ミラリス」


「ミラリス?」


 シェランは眉間を寄せる。


「それが、この猫の名か」


「はい……って言っても、私がさっき付けたんですけど。

 なんとなく、その名前が思い浮かんで。

 夢のせいかもしれないです」


「どんな夢だった?

 覚えていれば、教えてほしい」


「それが……忘れちゃったんですよ。

 とても悲しくて、でも、大切な何かを見た気がするんですけど」


「ふむ」


 シェランは顎に指をあてる。

 部屋の中に、しばらく思案の間が満ちた。


「ミラリス。

 それはアノジェア前期王朝、最後の王の名前だ。

 知っていて、その名を選んだのか」


「えっと……私、歴史に詳しくなくて……はじめて聞きました」


 しゅんとしたセレナに、シェランは首を振る。


「いや、気にすることはない。

 なぜなら、ミラリス、彼女は――」


 前期王朝最後の、女王。

 王族の責務を果たさず失踪し、偽貨戦争の原因を作った張本人として、ある意味では歴史の表に出てこない名前だった。

 塔の学者であれば誰もが知っているが、ありていにいえば、評判は良くない。


 目の前の少女が、何か他意を持ってその名を付けたとは、シェランにはとても思えなかった。


「まあいいだろう。

 私はもういちど、塔の管理部に掛け合ってくる。

 もしかしたら、セレナ、君にも何か証言を頼むことがあるかもしれない。

 その時は頼む」


「は、はい!

 私なんかでよければ!」


 セレナが力んで返事をした、そのとき。


 鋭い笛の音が響き渡る。


 その場にいた二人と一匹の全員が不意を突かれ、反射的に音の出所を探した。


 長く、澄んだ一声。

 それは王宮や、それに類する権力機関からの使者が塔の正門を訪ねたとき、鳴らされる音程だった。

 その音程が何を意味するか、塔の住人なら誰でも知っていた。


 大変な一日になる――


 二人は同時にそう直感し、そしてそれは正しかった。


   *   *   *


 シェランはセレナにあとでまた会話をしたい旨を伝え、再会の場所を主塔一階の支柱裏と定めた。


 言い残し、リウレンの私室を後にする。

 階段を下り、居住小塔を出る。

 そして正門へ駆ける。

 正門に辿り着くと待たせた謝罪を使者に入れることもなく、手渡された書簡をその場で開く。


 その内容に、さしものシェランも己の目を疑った。


 レフネイアの森が、燃えている。

 それが王宮からの急報だった。


 王軍も手を尽くしたが火勢は衰えず、ついに王みずからが塔への救援を命じたという。

 そしてその勅命には、不可解な一文が添えられていた。


 救援者として、リウレン・ルゼリアを指名する。


 読むなり、シェランは目を細めた。


 入塔した者の名簿や、彼らの後の生き様を記録した経歴書は定期的に王宮に提出している。

 若手の最優秀たるリウレンを派遣すること自体は、理屈としておかしくはない。


 だがこの時機に、よりにもよってその名が王宮から出てくるとは。


 何かが噛み合わない。

 ……逆だ。

 噛み合い過ぎている。

 引っ掛かりは鉤のようにシェランの思考に食い込んだが、立ち止まっている余裕はなかった。

 使える札は使う。

 そう腹を括った。


 シェランが足を向けたのは、主塔高層の塔主執務室ではなかった。

 一階の事務局――そこに緊急の卓を開き、管理部の中でも訪問対応と外壁警護を担当する部隊の長、レプカ・アルハイトを呼ぶ。

 リウレンの罪科を咎める派閥の中で、もっとも強固に酌量の余地のない厳罰を主張するのが、この男だった。


「この男の忠誠を見る、良い機会だ」


 シェランは王宮や魔法院との窓口となり、癖のある学者たちを束ねる塔主に着任して久しい。

 老獪な政治家として、いかようにも己の外面を取り繕うことはできる。


「――もちろん、今回の件は私の監督不行き届きでもある。

 私みずからこの男の監視役となって、森へ赴こう」


 レプカは、しばらく黙っていた。


 やがて、取引そのものは受け入れた。

 ただし条件がひとつ。

 自分もその旅に加わる、と。


 シェランはレプカの眼の奥を読もうとした。

 だが陰鬱な面の下に何が蠢いているのか、容易には掴めなかった。


 承諾するほかはない。


   *   *   *


 シェランとレプカは並んで主塔を出た。


 あれからやや日は昇ったはずだが、依然空は重たく塞がれている。

 実験小塔の裏手に回り、地下への階段を降りる。


 獄室の空気は冷たく、湿っていた。


 二人の足音を聞いても、石の床に座り込んだリウレンは顔を上げなかった。


 レプカが口を開いた。

 陰気な、抑揚の乏しい声だった。


「王より勅命が下った。

 レフネイアの森を覆う大火の鎮圧にあたり、救援者として貴様が指名されている」


 応えはない。


「遺物の紛失という事件と、国難たる大火が重なった。

 ゆえに例外的な措置として、貴様の塔外への出立を許可する」


 リウレンは動かなかった。


 森の大火を鎮めるとなれば、大きな魔法を行使せねばならない。

 その先に落花が待っている可能性を、この場の誰もが知っていた。


 だが、これは勅命である。

 拒否という選択肢は、はじめから存在しない。


「何か必要なものがあれば、ここで言え」


 レプカ・アルハイト。

 小柄だが隙なく筋肉の詰まった体躯。

 標的を定めたが最後、決して離さないその追及ぶりから「鎖のレプカ」の仇名を持つ陰鬱な男。

 その男の前で、リウレンはしばしの沈黙のあと、ようやく唇を動かした。


「……筆と、手帳を」


 昨日までとは別の人間のような、陰を帯びた声だった。


   *   *   *


 レプカとリウレンには、準備が整い次第、主塔の南東にある「ヤタナギの巣」と呼ばれる区画へ来るよう指示を出した。


 そしてシェランは、セレナを待たせていた一階北東の支柱の裏へと足を向けた。


 歩きながら、先刻のセレナとの会話が頭をよぎる。

 あの娘の言葉のどこかが、妙に棘のように引っ掛かっている。


 シェランとて博学である。

 ミラリスの名も、もちろん知っていた。


 だが世の学者たちほど、王女の罪科を信じてはいなかった。

 むしろ歴史を精査すればするほど、あの失踪には不自然な影が濃い。


 そして――猫だ。

 とりわけあの猫の振る舞いにひとつ、腑に落ちない点がある。


 セレナは言った。

 ミラリスが自分をリウレンの私室に連れてきた、と。


 だが猫は通常、人と同じ道を歩かない。

 猫たちには「朝餉のしっぽ道」と呼ばれる独自の交通網がある。

 崩れた壁の先にある隙間、壁と壁のあいだの細道、屋根裏の梁伝い――猫だけが見分けられるその路を使って、彼らは人間社会を渡り歩く。


 人の廊下を、人のそばを、わざわざ歩いて案内するなど、猫の流儀ではない。


 だからこそミルレクス――猫たちとの交わり方を定めた法――に、追影律なんてものがある。

 曰く、猫の足跡を辿ってはならない。


 これは純粋に猫の神秘を暴露することへの警告の側面もあるが、単純に危険なのだ。

 たいていは子どもたちになるが、隙間から出てこれなくなったり、屋根から滑り落ちたりといった事故が後を絶たない。


 思考は自然と、猫の社会そのものへ流れていった。


 実例は少ないが、猫種と人語で対話した記録は残されている。

 神話や伝承、あいまいな夢の手記等にも、彼らの生活や思想を偲ばせる痕跡が、いくつも見つかっている。


 それらの知見から推測される猫の社会構造は、四つの階級に分かれるとされていた。

 ただしそれは人の社会とは異なり、富の多寡も出自の貴賤も意味しない。

 思考の深さ、ただそれだけで決まる。


 高位の猫ほど寡黙であり、遠い未来への憂慮を抱え、その対策のために一生の大半を費やす。

 下位の猫は気楽に人間との共存を楽しみ、中には人語を操る者もいる。


 セリェル――最上階の猫。完全なる沈黙。一つの瞬きのあいだに、人の数年分の思考を手繰り寄せるという。

 ハリィク――高位猫。その言葉を聞いた人間は、二度とこれまでと同じようには世界を見ることができない。

 カリィル――中位猫。地域ごとのまとめ役であり、首に鈴をつけている。

 ノリュネ――下位猫。人間が日常で目にするのは基本的にこの種であり、人語を話す個体も比較的多い。


 かつて学んだ知識の断片が、次々と浮かんでは沈んでいく。


 だがまだ、一本の線にはならなかった。


 シェランは猫についての考察をいったん手放した。

 今はまだ、足りない。


 代わりに、別のことを考えた。

 リウレンとセレナの仲の良さ。

 あれを逆に使えないか。


 ――人質だ。


 セレナをリウレンへの楔として、森への旅に同行させる。

 リウレンが逃亡すれば、即座にセレナの命を奪う。

 そういう体裁にする。


 同行を申し出たレプカに対して、自分がリウレン側の味方などではなく、塔主として厳正な判断を下す用意がある、と示すための一手だった。

 あの男は危険だ、と本能がレプカに対して警鐘を鳴らしていた。


 鎖は手足を縛り付けるだけのものではない。

 背後から首に掛ければ、数瞬で命を葬り去る。


 同時に、長年の経験と勘が、理由のつかない強さでシェランに囁いていた。


 この娘を連れていけ、と。


 その策を打ち明けると、セレナは一瞬だけ目を瞠った。

 そしてすぐに、喜んで協力すると言った。


 セレナは腕に抱いていたミラリスの額に顔を寄せる。


「お留守番、よろしくね」


 だがミラリスはいやいやをするように首を振った。

 にゃぁお、と短く鳴いてシェランの足元に飛び降りると、その外套の裾からよじ登ろうとする。


「……いいだろう」


 シェランは猫を見下ろした。


「リウレンを守り切れなかった、私からのささやかな詫びだ」


 シェランの瞳に、金色の揺らぎが浮かぶ。


「このものに、見知らぬ路地の先、黄昏の空き地の静寂を――ニレイエル」


 シェランらしい武骨な詠唱に、ミラリスの全身がびくんと跳ねた。


 それから目をぱちぱちと瞬かせ、何か鳴き声を上げようとする仕草を見せた。

 だがその声は、セレナの耳には届かなかった。


「これで、荷物入れにでも隠して連れていくがいい」


 シェランはセレナに向き直り、短く言った。


「くれぐれも、バレぬようにな」

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