最終話
キティグはジブリールを見た。ジブリールはとても優しげな目をしていた。キティグの背筋がゾワっとした。気持ち悪かった。それに不気味だった。
そもそもなぜこの場にジブリールが現れたのか、キティグにはさっぱり分からなかったのだ。キティグの考えでは、戦争に負けた以上ジブリールはひたすら身を隠すべきであるし、そうすることが最も長く生き延びる方法といえた。
そういう意味でジブリールの行動は不合理そのものだった。ただ命を短くする間違った選択といえた。だが、ジブリールの不気味さを際立たせる理由は他にもあった。今しがた城門付近には沢山の民兵がいたはずなのだ。それが貴族の格好をするジブリールを取り逃がすとも思えなかった。つまり、ジブリールがこの場にいること自体が不可能とも思える現象なのだ。
命を短くする選択をし、現れるはずのない場所に現れる。
不合理で不可能を超越する不可解なジブリールをキティグは量る事ができない。目を見ても何を考えているかさっぱり分からない。勝った筈なのに、心が不安でざわついた。
ジブリールはこちらを見て微笑んだ。ジブリールの発する得体のしれないおぞましさに、キティグをはじめとする、周りにいる20名ほどの民兵も動けなかった。
すると、なにがおかしいのか、突然ジブリールは大声で笑い始めた。
「はははははははは」
不気味だった。あまりにも不気味すぎて、この場でジブリールを殺す考えがキティグの頭をよぎった。その時だった。笑い終ったジブリールは“こう”いったのだ。
「すまないキティグ、僕の勝ちだ」
その直後であった。開いたままの城門から30騎ほどの騎兵が飛び出し、こちらに向かって走ってきた。これを見るや否やキティグのまわりを取り囲んでいた20人ほどの民兵は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
キティグは口をあけ、手を伸ばし、待て――、と言いかけるも、次の瞬間、突風が顔面に吹きつけ、思わず腕で顔を覆った。キティグの頭の中には巨大な疑問符が垂れ下がっていた。民兵が城門から突入した直後に、同じ城門から敵が出てくる事などあるわけがないのだ。理論上、そんな馬鹿なことがあるわけがない。意味が分からなかった。本当に意味が分からなかった。キティグは強風の中、それでも逃げなければと思い、踵を返し、腕で顔を覆ったまま走り始めた。視界が効かない。土埃がそこらじゅうに舞い上がっていた。すると、目の前に鎧をつけた馬が現れた。驚き、方向を変えるも、そこにも馬がいた。
――クソ! ちくしょう!
風がおだやかになり土埃がおさまった。キティグは腕を顔から外し、ぐるっと360度見回した。完全に騎兵に囲まれていた。馬にまたがる騎士たちは、皆こちらを見ていた。心臓を打つ音が早くなった。どこにも逃げ道などなかった。
――負けたのか?
現実感がなかった。たった今、勝った筈だった。城門が開き、そこから民兵が王都になだれ込み、勝利をおさめたばかりなのだ。なのに、なぜ、とキティグは思った。
脂汗が頬をつたった。いや、頬だけではない。足の裏、太ももの裏、首筋、ほとんど全身から脂汗が流れていた。キティグの息は荒くなり、背中を見せ走り去る民兵に向かって叫んだ。
「ふざけるなぁあああ! もどってこぉい!」
民兵達の足は止まらなかった。そして彼等はこちらを振り返りもしなかった。
キティグは、城壁の内部にいるはずの民兵に向けても叫んだ。「何をしている! このキティグ王の命が狙われているのだぞ! 早く助けに来い! 早くしろおおお! 戻れええええ!」
キティグが叫び終ると、あとに残ったのは、長い長い沈黙だけだった。開いたままの城門からは一人たりとも民兵は帰って来なかった。頭の中がグチャグチャだった。勝ったのだ、確かに勝った筈なのに……どうして……。キティグは膝と手を地面につき四つん這いの形になった。
ゆっくり歩いてこちらに近づいてきたジブリールがつぶやくようにいった。
「キティグ……、君の負けだ」
うつむくキティグの眉間にしわがよった。納得がいかなかった。あの城門から王都に踏み込んだ民兵がまるで魔法で全て消えてしまったかのような出来事であった。普通ならありえないのだ。こんな負け方は、絶対にありえないのだ。ありえるはずが――
――まさか。
キティグは顔を上げ、立ちつくすジブリールの顔を見つめた。同じ顔だった。声も、恰好も、なにもかも全て同じ。その瞬間、全てが分かった。
「俺に……、なりすましたのか」
このキティグの言葉にジブリールはゆっくり頷いた。
そうなのだ。王都に押し寄せた民兵に指示を下したのはジブリールだったのだ。ジブリールは城門をあげさせ、王都に突入した民兵に対し、キティグに成り済まし、告げた。既にバルバレア王は降伏し、我等の軍門に下った、と。そして、王都に住まいがある者については、そこで待機するように、地方の民兵に関しては、王宮の大広間と庭で待機するよう命じた。民兵達は喜び命令に従った。
この民兵達の唯一の指揮官はキティグだった。キティグの命令だけは絶対だった。そう絶対だったのだ。同じ黄金の鎧を身にまとい、同じ顔と声をもつジブリールとキティグの見分けなど、民兵達につくわけがなく、彼等はあっさりとジブリールを信じた。その後、ジブリールはあらかじめ用意していた30騎ほどの騎兵と王都の外で待つキティグに対し強襲を仕掛けたのだ。
全ての魔法の正体が分かった瞬間であった。そして、それと同時にキティグの体中を悪寒が走り抜けた。皮膚、血、細胞、その全てが実感をもったのだ、負けたのだ、と。キティグは震える全身を止められない。敗北したのだ。あれだけの戦力をもって、敗北してしまったのだ。キティグの体を圧倒的な絶望感が襲った。そう絶望だ。自分の未来が見えたのだ。死の未来が……。かつてない濃厚な死から逃れる為にキティグの頭が回転をはじめる。
ジブリールはキティグに語りかけた。
「キティグ。君はあまりにも多くの人を殺してしまった。死罪以外に道はない。君の死のみが死んでいった者達の魂に報いる為の唯一の方法だろう」
キティグの脳はどんな細かいことも見逃さないように回転していた。どこかに生きるヒントがある筈だと自分に言い聞かせ、必死に考えた。考えたのだが……、何も浮かばなかった。こんなことはじめてであった。いつも何かが浮かぶのだ。そう絶対、何かしらのアイデアが……。もうキティグの頭の中には何もなかった。虚しくなるぐらい、その頭の中は空っぽだった。すると、熱い感情が胸からこみあげてきた。この目の前の男よりも自分の方が王に相応しいという感情だ。
キティグは周りを取り囲んでいる騎兵たちに告げた。
「選べ! お前が目にしているこの俺という人物は、ミッドランド史上稀に見る偉大な王であるぞ。この能なしに――」といってキティグはジブリールを指さした。「こんな能なしにこれからのミッドランドを任せるのか? 任せていいのか? 俺ならばこのミッドランドをもっと強い国に変える事ができる。あのウォーラでさえ俺ならば征服できる。なぜならばこの俺が偉大な王であるからだ。今まで誰ができた? たった一人で考え、12領主達を葬り去った。こんなこと誰ができた? バルバレアの先王ユリアスの時代には、12領主達を屈服させるのに30年以上の時を要したぞ? この俺は、それを一瞬で成し遂げた。知恵もあり度胸もある。そして何よりいつだってこの世の真理を重んじている。そんな俺こそが王に相応しいはずだ。俺以上の人間なんていない筈だ。違うか?」
馬にまたがった騎士たちの目は冷たかった。キティグは騎士の1人を指さし尚も続ける。
「そうだ、お前。お前は伯爵にしてやろう。どうせ、たいした貴族じゃないんだろ? ここでジブリールを殺せば絶対にお前を伯爵にしてやる。そうだ! 隣のお前は子爵にしてやろう! この場にいる者は全員この俺が大貴族にしてやる! 約束だ。絶対に約束する。誓う。神に誓う。だから早くこのガキを殺せ! ジブリールを殺せえええええ!!」
騎士たちの表情はまったく変わらなかった。そして醒めた目でキティグを見つめてくるのだ。
ジブリールはいった。
「もしも、君が王になったとしても良い王にはなれない」
――あ?
どの口がいっている、とキティグは思った。
ジブリールは続ける。
「君の中にあるのは、自分だけだ。君は自分が優れた存在になる、ということに関してはこのミッドランドで一番の人物かもしれない。だが、自分以外の人間を慈しまない。王とはそういうものではない。王は競争の中に加わってはならないのだ。公正で公平なルールを作ることこそが王の役目なのだ。わかるか? 王は強くなってはならないのだ。王に許されたことは民を慈しむことだけなのだ」
「違う!」とキティグは叫んだ。「強くなければ上にはいけない」
ジブリールは凛とした声でキティグに尋ねた。
「では聞こう。君は僕と入れ換わる前、しがない金貸しであった。強い者の下で生活しなければならなかった。君はその時、幸せを感じていたか?」
キティグの中に絶対に逆らえなかったタリスマンの顔が蘇る。幸せなわけがない、と思った。ジブリールはキティグの顔をみていった。
「顔を見ればわかる。力のなかった君は幸せではなかった。だから力を願った。そうすれば誰よりも幸福であるはずだ、と思ったからだ」
――そうだ。その通りだ。頂点に立つことは最も幸せであるはずだ。
ジブリールの口が動き続ける。
「だが、それではダメなのだ。頂点に立つことを至上の喜びと考える者は王の資質を持つ者とはいえない。王の資質を持つ者とは自分以外の誰かを幸せにすることに喜びを感じなければならない。自分だけが幸せだと“不幸せだ”と感じなければならない。良い王とはそういう不合理な人間をいう。偉大な王とはそういう不可解な人間をいう。だから決して君は偉大な王にはなれない」
それはキティグの目指す王とは真逆の姿であった。動物や虫の群れにボスはいても、王はいない。もし、いたとしてもそれは絶対的な強者とそれにかしづく弱者の関係にすぎない。弱者は強者に仕え続けなければならない。もしもそれが嫌ならば強者になって、今までの強者を追い落とさなければならない。そういうものだと思って生きていた。それのみがキティグの真理であった。いや、タリスマンがそう教え込んできたのだ。だからタリスマンは弱者に容赦がなかった。強い自分は搾取をして当然であるし、弱者は自分に忠誠を誓って当然なのである。それが強者の権利なのである。強者はいつだって正義で、弱者はいつだって悪であった。キティグはそんな教えを子供の頃から受け続けてきた。教えは絶対であり、真実であった。
ジブリールがいった。
「君は孤児であったそうだな」
キティグがうなずいた。ジブリールが苦い顔をした。
「それは、祖父と父上の責任だ。彼等は良い王ではなかった。王座には良い王が座らねば民は不幸になる。君が不幸だったのは、君が弱いからではない。王が無能であったためだ。だが安心してくれ。父上はもう王ではない。今はこの僕がミッドランドの王だ」
キティグは驚きの目でジブリールをみた。だがジブリールの瞳はそれが真実だと告げていた。おおよそバルバレアは敗戦の責任を負わないためにジブリールに王座を譲ったのだろう。どこまでも汚い野郎だとキティグは思った。そして、そのあとジブリールを睨んだ。
「あのクズが王じゃないというのは朗報だな。だがな、お前が、俺よりも良い王だという証がどこにある!」
ジブリールはしばらく目をつぶった。そしてはっきりといった。
「ない! そんなものは、どこにもない。だが、そうありたい、と思う……。そして、それを君に決めてもらおうと思った」
周りを囲む騎士がうろたえるなか、ジブリールは懐からナイフを差し出し、キティグに渡した。キティグは驚いてジブリールを見た。ジブリールはいった。
「先ほどもいったように、君を死罪にする。だが、今の君を生み出しのも僕の責任。ならば僕を生かすも殺すも君に任せる。君はその権利だけは有している」
騎士たちは「陛下なりません! 何卒お考え直しを!」と一斉に叫んだ。ジブリールは片手をふりあげ、騎士たちを静まらせた。キティグは自分の手に握ったナイフを見つめた。そして次に、こちらを向くジブリールの瞳をみつめた。本気の目であった。奇妙な状況だとキティグは思った。既に死は決まっている。だが、一国の君主を殺す機会を得たのだ。
ならば殺してやる、とキティグは思った。そもそも、人攫いのように連れて来られ、王子の身代わりをさせられた事が全てのはじまりなのだ。キティグはナイフを強く握った。こいつにはその責任をとってもらう、とキティグは激しく思った。
ジブリールは目をつぶり跪いた。キティグは立ち上がり、ジブリールに一歩近づいた。ジャリ、という砂粒を踏む音が足に残った。キティグは更に一歩近づいた。
――殺してやる。俺の人生を狂わせたこいつを!
更にキティグは一歩近づいた。もうジブリールは手の届くところにいた。キティグはナイフを振りかぶった。周りを囲む騎士達が目をつぶる。そしてキティグはナイフを振り下ろそうと一歩踏み込んだ――その時だった。誰かが弱々しい力でズボンのたるんだ部分を後ろに引っ張った。誰だ、と思い後ろを振り返ると、そこにいたのは4才の頃の自分であった。4才の自分の瞳がキティグを見つめていた。瞳がキティグに語りかける。
《本当に、いいの? この人を殺して本当にいいの? だって僕等は僕等を救ってくれる人をずっと待ってたんだよ。こんな世界から救ってくれる人を……ずっと……》
キティグは、4才の自分をみつめた。
――だが俺達は死ぬんだぜ? こいつのチンケな我がままに付き合わされてな。許せるか?
《許せないよ。でもさ。僕等の名前を考えて》
――え?
《僕等の名前は太陽の光が輝いてるんだ。冷たい石畳も太陽に照らされれば暖かくなる。きっと僕等はそんな存在になれるよ。彼の体を介してね。そうして僕等は、救えなかった何万人の僕等を救うんだ。僕等は敗者としてこの世に記憶されるんじゃない。この世で最も偉大な王としてその名前を残すんだ。ねぇキティグ、君はそうありたいと願わないかい? 彼にはそれができると思わないかい?》
キティグはまた前を向きジブリールを眺めた。キティグの知るジブリールは情けない奴だった。取り立てを行うなら一番簡単なタイプで、すぐに音を上げ、嫌なことから逃げ出す。キティグはまた後ろを向き4才の自分をみた。だが4才の自分はいうのだ。
《ねぇ彼を信じてみようよ。それに、とっくに答えは出てるんだろ? その君の答えが僕を生み出したんだ。ねぇキティグ。もっと自分の判断を信じようよ。彼はきっと良い王になる。なにせこれからは僕等の名前がつくんだ》
キティグは口角の片方を少しだけあげた。そして改めてジブリールの方を向いた。
「ジブリール。いくつか条件がある。それをお前が約束するなら生かしてやる」
ジブリールが頷いた。そしてキティグは声を張り上げた。
「一つ! お前は今後キティグとして生きる。反旗を翻した王子がキティグという名を名乗り、この王都を奪い取った。このストーリーは変えない!」
ジブリールは頷いた。
「一つ! お前のいう偉大な王に必ずなる、とこの俺に誓え! もしもここで偽りを言ったなら。その時は地の底より蘇り必ずお前を殺しにいく」
ジブリールは覚悟した目つきで一言「誓う」といった。
「そして最後の一つは……。イリーナを幸せにしてやってくれ……、あんな女でも……俺が唯一愛した女なんだ……」
ジブリールはこれにも頷いた。それと気づいたようにジブリールはいった。
「イリーナは君を裏切ってはいなかった。君の正体を確かめたが……、誰にも言わなかったそうだ……」
キティグはこれに微笑んだ。そして涙を流した。愛していたのは自分だけじゃなかったのだ、と思った。声はすでに嗚咽混じりになっていた。
「そうか……よかった……」
そういって、何もかもから解放された面持ちをしたキティグは、自分の首にナイフを突き立てた。喉から血が噴き出した。誰にも殺させたくなかった。死ぬならば自分で死にたかった。それが最も誇りのある死に思えたからだ。ジブリールもその意思を汲み取ったのか、死にゆくキティグを黙って見守ってくれた。今まで出会った様々な人の顔がキティグの頭を駆け巡った。マリゼフ、ハーディン、バルムーク、ザグゼイン、ジーン、タリスマン、イリーナ、スソ、そして自分の顔と同じ男ジブリール。意識が遠ざかる中で、最後にキティグは思った。
――できるなら、次は王子として生まれ変わり、良い王になってみたい。そして許されるならまたイリーナと出会い、今度は普通に……、普通に……
……
数十年後、そこにはミッドランドで善政をしくキティグ王の姿があった。古代ミッドランド語で太陽の光とつけられたその名前は、ミッドランド史にその名を刻む民を慈しむ比類なき王として語り継がれることとなった。
イリーナ=バルムークはキティグ=ミッドランドの妻としてその生涯を終えた。王位は彼女が18才の時に産んだ子が継ぎ、ミッドランド家はその後も続いてゆくこととなる。
リリ=バークリーはキティグ王の絶大な信任を得、キティグ王の個人的な相談役となった。彼女の身分からすると異例の出世といえた。
ハーディン=オルトランは60歳ごろまで王子直属部隊の隊長の任についた。後に彼は“キティグ王の一生”という本を書き、それがキティグという人物を知るうえでの第一級の歴史資料とされ後世の研究者に少なからず影響を与えた。
バルバレア=ミッドランドは、退位したあと二度と表舞台に現れる事はなかった。
キティグ=ミッドランド……、いやかつての名前をジブリール=ミッドランドと名乗った比類なき王は、貧困を改革する数多くの政策を実施し、惜しまれつつも70年でその生涯に幕を閉じた。彼の墓はその遺言により王都に隣接するライアナラの瀧近くに葬られた。彼の墓の隣には、キティグ=ミッドランドが自ら掘った友人の墓があるという。その墓には“こう”刻まれていた。
もう一人の僕、と。
記録によると、そんな友人がキティグ王の人生においていた形跡はない。またこの墓が誰を指したものなのかも未だに分かっていない。ただ分かっているのはキティグ王にそう言わしめた誰かがいた、ということだけである。




