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今回はジブリールの婚約者イリーナ視点です。この物語の視点人物は3人です。キティグ、ジブリール、そしてイリーナの3人です。
ジブリールの婚約者であるイリーナ=バルムークは自分の部屋の窓の額縁に肘をのせ、そこからそっと空を眺めていた。空には巨大な入道雲が王者のように佇み、その一部が風に流され、しっぽが生えたみたいな形をしていた。それが、どことなくおたまじゃくしに似ていた。
未熟なあの人を思い浮かべたからだろうか。そんなことをイリーナは思った。
次にイリーナの視線は下へと移ってゆく。イリーナの部屋は王宮の2階部分にあったので、ちょうど馬術場と弓の稽古場を見渡すことができた。イリーナはここからジブリール(おたまじゃくし)の稽古の様子を眺めるのがいつしか日課になっていたのだが、今日はいつになっても稽古が始まる様子がない。
――今日は、稽古がないのかしら。
そう思ったイリーナは、傍らでベッドメイキングをしている侍女のソニアに尋ねた。
「ジブリール殿は、今日はいずこにおられる」
ソニアは少し笑いながら「気になりますか姫様」と言ってきた。このソニアは多少無礼な口をきく。それも仕方がなかった。ソニアはバルムークで暮らしてきた幼い時からの侍女でイリーナの全てを知りつくしている女だった。歳はイリーナよりも10も上なのだが、生まれた時から知っているせいもあり、妙な信頼関係があった。イリーナは口を尖らせた。
「いいえ、ちっとも気にならないわ」
「そうですか。では私はこれで失礼します姫様」と、ベッドメイキングがちょうど終わったソニアは言い、部屋から引き揚げようとした。イリーナは「ちょっと」というと、ソニアは立ち止まった。ソニアは笑みを浮かべていた。イリーナは大きく溜息をついた。
「まったく、ソニアは意地悪ね」
「姫様こそ素直になればよろしいのです」
「素直……ねぇ……」
イリーナは自分が分からなかった。
ジブリールの事が好きか嫌いか、そこが分からないのだ。嫌いではない、とは思う。だが、好きであるとは到底思えなかった。
2才年下の婚約者は、如何にも男性らしさに欠けた男だった。猛々しいわけでも、冷静なわけでも、女性をリードする優しさも持ち合わせていなかった。半年近くこの王宮で暮らしたが、ジブリールが自分に対し感情を揺さぶるほどの何かをしただろうか、と思った。すると、驚くほど何もされていないことに気付いた。会うと、どことなくヘラヘラ媚びへつらうような笑いを見せるだけで、何かを話したという記憶がない。
そういえば、一度バルバレア陛下からの勧めもあり、庭をジブリールとグルグルと何周も周った事があった。
あの時唯一した会話がバルバレア様に対する話題と小鳥のチークの可愛らしさに関する話題だけだった。それはこの場に相応しい話題なのだろうか、と庭を回りながら何度も思った。
食事中も陛下が一方的に話されるだけで二人の会話がない。
だから、この稽古場が見える場所でほとんど一方的に婚約者の姿を眺めることだけがイリーナが唯一行える愛を育む行為だった。こうしていれば少しは自分の中に愛のかけらでも生まれるだろうかと思っていたが、あまり効果はないようだ。ここから眺めるジブリールの醜態に愛が育まれるどころか、むしろ醒めてゆくのを感じた。
弓が的に当たらず、馬に何度も振り落とされる男を見て一体誰が恋などするだろう。
イリーナは、まるで精一杯酒をかっくらう人と同じであるような気がした。彼等も酔いたいのだろうし、イリーナも恋に酔ってみたかった。ソニアが口をあけた。
「毎回、毎回見ているだけですか姫様。ピーター様は心配されていますよ」
「お父様の名前を出さないでソニア。それに元々この縁談はお父様が王家と結びつきたいがために行われた縁談。ならばお父様がジブリール殿に私の事を見てくれるよう頼んでくれてもよいでしょうに、そうすればジブリール殿が愛を囁く男になるかもしれない」
――そうすれば私の心だって動くかもしれない。
一拍おいた後ソニアは口を開いた。
「しかし、姫様。周りが騒ぎたてると殿下は嫌がるかもしれませんよ?」
「何を言う。私は既にジブリール殿に嫌われている。近頃では、食事以外で顔を合わせることもなくなってきた」とイリーナは言い、溜息をついた。「そんなに私の何が気に入らない、というのか」
「姫様が無口でシャイだからです。もっと私に話す様にお話になられたらよいのに」
それができたらどんなによいか、とイリーナは思った。
鉄仮面。これが最愛の婚約者からつけられたイリーナのあだ名だった。
イリーナは基本的に無駄口をたたかない。必要と思った時しか口を開かず、さらにその口も開いているのか閉じているのかわからないほどしか開かない。
その間の表情は常に一緒で、薄目をあけたまま他の顔の筋肉も微動だにしないのである。この崩れない表情を見てジブリールは何かお面をつけたまま喋っている劇を思い出したようで、イリーナは鉄仮面とあだ名されるようになった。
噂によると、このあだ名は王宮の外まで轟いているらしく、イリーナの心を大いに傷つけていた。しかし、イリーナの父であるピーター=バルムーク伯爵は娘が傷つくことなどどうでもよいらしく、如何にジブリール殿下に気に入られるか、ということだけをイリーナに説いた。イリーナは自分が父親の野心を満たす為の操り人形である自覚はあった。だが、その人形にも意思はある。イリーナは、もういっそ婚約など破談になれば良いのに、と思い始めていた。
イリーナは恋をしたことがなかった。だから、思い切り誰かに恋焦がれてみたかった。そして、それが今の相手で叶わないというのなら……、それならばいっそ……。
イリーナの瞳を見ていたソニアは溜息混じりでいった。
「また変な考えが頭をよぎったのですか姫様……。もう18才になるのですよ。いい加減変な幻想に捉われる事はおやめください。王族と結婚する機会があるのにそれをみすみす逃すおつもりですか? 私が思うにジブリール殿下は少々男としての魅力に欠ける御方かもしれません。しかし、あの方が善良であることに私はなんの疑いもありません。結婚をするならば、善良にまさる徳はありません」
「しかし、私は燃え上がる様な恋を――」と言いかけて、人差し指をソニアに突きつけられた。廊下を誰かが歩く足音が聞えた。もしも、こんな話がバルバレア陛下の耳にでも入ったら……。この話はすぐに破談になるに違いない。足音が過ぎ去るとソニアは人差し指をイリーナの口もとから離した。
「いいですか。このような話はもっと静かな声で」
イリーナはゆっくり一度首を縦に振った。そして続けるようにソニアは言った。「姫様はお気づきかもしれませんが、最近のジブリール殿下はどことなくかっこよくなられた気がします」
――え?
という顔をイリーナがすると、ソニアは続けた。
「分かりませんか? なんとなくですがね。こうキリッとなされたというか。そんな気がいたします」
――……そうであろうか?
ソニアはそこまで言うと、一礼してその場を去っていった。部屋にはイリーナだけが取り残された。そういえばイリーナは、最近ジブリールの姿をじっくり見ていない気がした。雲を眺めるようにボーっとしか眺めていない事に気がついた。今日稽古がないのなら、明日の稽古でも見てみよう。そんなことを思い、その日は終わった。
次の日はいつも通り稽古があった。イリーナはいつも通り、額縁に肘をつき、稽古場の様子を眺めていた。
驚いた。
馬に乗ったジブリールが盛んに手綱を引っ張り上げ、強引に馬を支配しようとしていた。イリーナはその姿に惹きこまれた。
馬は前足をあげ、ジブリールを振り落とそうと精一杯抗っていた。だが、ジブリールは腰を浮かせ鐙に素早く体重を移動させ、馬の抵抗を抑えつけた。やがて、そのしつこさに根負けしたのか、馬は徐々に穏やかになり、ジブリールを上に乗せる事に同意したようだった。
ジブリールは微笑み、馬の腹を蹴った。すると、それを合図とするように馬は走り始めた。一連のそれは、まるで猛獣同士が上下を決める戦いのようであった。ジブリールの馬術の師匠であるトッドの声がここまで聞えた。
「殿下お見事です!」
その時であった。馬を従わせたジブリールが、イリーナの視線に気付き、こちらを見た。野生的な瞳がイリーナの心を貫いた気がした。ジブリールはいつものようにヘラヘラした笑いを見せず、一礼すると、また手綱を返し、馬と共にトッドの所に戻っていった。もう馬は手足のようであった。イリーナは自分の心臓のあたりを握った。ソニアの言った事は本当かもしれない、と思った。




