藤が丘の高架下と、アポ電の影
名古屋市名東区、藤が丘。
地下鉄東山線の終着駅であり、日本唯一の磁気浮上式鉄道『リニモ』の始発駅でもあるこの街は、新興の美しいベッドタウンとして知られている。
夕暮れ時ともなれば、お洒落な街頭に明かりが灯り、買い物袋を下げた主婦や、スマートフォンを眺めながら家路を急ぐ大学生たちの波が、賑やかに駅の改札へと吸い込まれていく。
だが、その平和を絵に描いたような日常の裏側で、目に見えないどす黒い網の目が、静かにこの街の高齢者たちを捕らえようとしていた。
「……なぁ、凛ちゃん。お前さんが今回引き受けてきたこの『オーダー』、かなりタチが悪いぜ」
駅の北側を通る高架下の薄暗いバイパス沿い。ハゲのユタカ(ゆたカ)さんが運転する古い個人タクシーの車内。
ハンドルを握るユタカさんは、いつも通りの安煙草をきつく吹かしながら、助手席の私に鋭い目を向けてきた。そのハゲ上がった頭には、夕方の渋滞に巻き込まれた周囲のテールランプの赤い光が、禍々しく反射している。「分かっているよ、ユタカさん。……でも、放っておけないでしょ」
私はマウンテンパーカーの上から羽織ったおじさんの大きすぎるトレンチコートの裾を気にしながら、膝の上で一通の薄汚れた「依頼書」の紙片を見つめていた。
依頼主は、藤が丘周辺の大学に通う地元の女子大生。内容は、一人暮らしをしている彼女の祖母が、悪質な『アポ電強盗・詐欺グループ』の標的にされ、すでに数百万円の老後の資金を騙し取られたというものだった。
犯人グループはそれだけに留まらず、今度は物理的な強盗を仕掛けるために、資産家である彼女の祖母の家を特定し、強行突入の準備を進めているという。
警察の主力は、犯人たちがネット上にバラ撒いた偽のダミーデータに翻弄され、未だに名駅周辺の無差別捜査にリソースを割いていた。
この藤が丘の最前線は、完全に情報の「空白地帯」と化している。
「おじさんの手帳にはね、この藤が丘に、二つの強い『絆』が残されているの」
私はポケットから、おじさんが遺したボロボロのシステム手帳を開いた。
ページを捲り、藤が丘の欄を見つめる。
そこには、歪んだおじさんの筆跡で、こう書き残されていた。
『リニモ藤が丘駅・保線員のチカシ。高架下のバイク便の若者たち。報酬:スターバックス藤が丘effe店のバニラクリームフラペチーノ。甘すぎて頭が痛い。二度と頼むか』
「……ククク、懐かしいな。豊の奴、数年前、リニモの保線員であるチカシの弟が、半グレの闇バイトに引っかかって大麻の運び屋にされかけた時、命がけでバイク便の若者たちと連携して、その包囲網から連れ戻してやったんだ」
ユタカさんが煙草の灰を窓の外の小雨の中に弾き、シブい声を絞り出した。
「豊があの日――警察から逃げるために、リニモの運行システムを一瞬だけハッキングして緊急停止させられたのは、チカシたちが裏でマニュアルを無視して、お節介の恩返しとしてシステムを開けたからさ。……街の『盾』は、今でも生きてるぜ、二代目」
ユタカさんの言葉に、私はおじさんのコートの襟をぎゅっと握り締めた。
毎朝七時、上海の地で冷めきったブラックコーヒーを啜りながら、孤独な心中へと向かっていくおじさんの物語(シーズン1)が更新される、その裏側で。
おじさんが過去に撒いていった泥臭いお節介の種は、こうして数年後の現在、私の手の中で、最高に熱くて頼もしい武器として、完璧に息づいているのだ。
「豊のおじさん、大須の半グレから押収した情報ルートから、無線を傍受したアル!」
耳の奥のインカムから、ざらついた独特の日本語の音声が飛び込んできた。
後部座席に陣取っていた、上海から密航して居着いたマフィアの娘――メイリン(梅鈴)だ。
彼女はお団子頭を激しく揺らしながら、手にしたスマホの画面をタップしている。
口の周りには、さっき買ったスタバのスコーンの粉をいっぱいつけたままだ。
「犯人の受け子どもの連絡場所、駅前の商業施設『effe』のスタバのテラス席ネ! モバイルオーダーのシリアルコードを悪用して、次のターゲットのおばあちゃんの資産家データを共有する手筈アル! 殺しはしないけど、いつでも怪力でスタバののぼり旗ごとブン抜いて、悪党の脳天を不調和音にしてあげるネ!」
「だから、破壊はナシだって言ってるでしょ」
私は苦笑いしながらも、シートから立ち上がった。
おじさんの残したネットワーク(人情)を使い、今度は私が、この街の日常を守るための能動的な正義の注文を通す。
十九時三十分。
私はおじさんの大きなコートの裾を雨風に激しく翻しながら、メイリンを引き連れて、藤が丘駅前の華やかなイルミネーションが輝くロータリーへと、音もなく滑り込んでいった。
新米探偵の、二度目の知的なハメ手の秒針が、激しく火花を散らしながら動き出そうとしていた。




