エレナと逆さま博士 ◆ 8 ◆
◇ ◇ ◇
エレナは聞きなれず怪訝な顔をする。ファウストは、それとは関係なしにひょいっとエレナをさらに引っ張る。次の瞬間、エレナは米袋のように彼に横抱きにされていた。エレナは驚きつつも、はじめて逆さまじゃないファウストの顔を見て、へぇ人間の見た目で言うと10歳……いや15歳は年上ね、などと考えもした。彼はエレナを抱えて速度をあげて、華麗にタコの追撃を避けながら、得意げに口を開く。
「人間界で悪魔は、その魔力の大きさに従ってアレルギーを発症するのです。魔界からやってきて人間界でピンピンしていられるのは、眷属のうち私のような人間か貴女のような魔力ナシなんですよ」
ボディーガードに適任でしょう、と付け加え、口の端をあげるファウスト。
「貴女の命を狙う悪魔は今後、相性のいい生物に憑依して現れるでしょう」
エレナは風になびく髪を押さえて、追ってくるタコを見据える。
「あんなモンスターにこれから……」
「なに、タコ程度に馴染むのに手こずって、今やっと正気になっているような下等な悪魔ですよ。体の方に意識を乗っ取られて無駄に暴れた挙句、貴女を仕留められずこのザマです」
「じゃあもっと強い悪魔が現れたら……」
眼下の惨状を眺め、不安げな表情を浮かべたエレナを盗み見て、ファウストは密かにほくそ笑んだ。そのままギュンと急上昇して……トン、と着地したのは、今朝ミヒャエルが見ていた時計台の上だった。展望のために側面の壁を取り払ったようになっている最上階の空間で、エレナは着地とともに手放され、久しぶりの地面の感覚につんのめってズザーっと転がっていった。
「あばばば」
いてて、と体を起こすエレナを、ファウストは天井を作っている上部の枠にゆったりと腰かけながら、楽しそうに見やった。
「エレナ君」
まただ。彼はまたイヤに優しい笑みを浮かべている。
「提案なのですが……」
いつもは鈍いエレナだが、肌で何かを感じ取ったのか緊張した面持ちで彼の言葉を待った。
「スシ留学は終わりにして魔界に帰りましょう」
エレナの口が何か言いたげにわずかに動いた。が、それを遮るようにファウストは続けた。
「お父上の庇護下に入れば、襲撃に怯えるより安心ですよ」
魔界に帰る。父の庇護下。それらの言葉はエレナに思い出させた――冷たい光に照らされた簡素な部屋、静けさで耳鳴りがしそうな中、小さな窓から外の様子を窺うだけだった魔界での日々のことを。
「……留学じゃない」
エレナは俯いたままだ。
「あたしは家を出たの。戻る気なんてない。ダディに伝えて」
言い切って前を向いたエレナをファウストの逆さまの目が射貫く。彼の何を考えているのかわからない泰然とした態度はエレナを不安にさせた。
何か言って説得しないと、とエレナは無理やり笑顔を作って言葉をひねり出した。
「そ、それに今帰ったら寿司アカデミーで学んだことが無駄になっちゃう。あたしなりに勉強頑張ってきたの。ファウストさんもドクターだったら気持ちわかるでしょ」
説得の言い分を並べながら、エレナはファウストの元に歩み寄る。高い時計台のフチから見える眼下の景色は、ついさっきの巨大タコとのチェイスが夢ではなかったとエレナに思わせた。タコの姿は幸いまだ遠くにあるが、時計台に迫るまでそう時間はないだろう。
エレナはひと呼吸おいてファウストの目をまっすぐに見つめ返した。
「あなたがあたしを、みんなを助けてくれるなら、あたしは人間界でスシ・マスターになって夢を叶えたい」
ファウストは、仕方がないと言うように、ふーっと長い息を吐くと、枠の上で立ちあがった。
「……わかりました」
エレナは彼が提案を引っ込めてくれるのだと安堵した。
「……お父上にそっくりのその顔を見ているせいでしょうか」
がしっ。突然、ファウストがエレナの両頬を片手で掴んだ。
「虫唾が走る」