六十日の設計書
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朝が来た。基地の内部時計が〇六〇〇を示した。
颯はシートから起き上がった。首が少し張っていた。コンソールの数値を確認した。エンジンは切れたまま。錆鉄丸の全計器が安定していた。
「イグニスさんは三十分前から技術室にいます」とアルテが言った。
「先に来ていたか」
「昨夜から作業していた可能性があります。端末のアクセスログに断続的な記録があります」
颯は立ち上がった。水を一口飲んで、上着を着た。
技術室は通路の突き当たりにあった。扉を開けると、イグニスが大きな作業台の前にいた。紙の束と電子端末が並んでいた。紙の方が多かった。手書きの書き込みが至るところにあった。
「来た」とイグニスは言った。振り返らなかった。
颯は作業台の横に立った。紙の一枚を見た。断面図と数値が細かく書き込まれていた。字が小さかった。
「昨夜から計算していたか」
「眠れなかった」とイグニスは言った。初めて振り返った。顔に疲れはなかった。「アルテが出してくれた目録を全部見た。四十七件のうち、水の再生フィルターに直接使えそうなものが六件ある」
「アルテ、その六件を出してくれ」
「了解しました」とアルテが応じた。技術室のディスプレイに設計書が並んだ。「水再生システム関連の設計書です。製造年代順に並べています。最も新しいものが旧連邦末期の規格です」
イグニスがディスプレイの前に立った。しばらく無言だった。颯も黙って横に立った。
「これは」とイグニスが言った。特定の図面を指した。「第三再生ユニットの膜構造だ。現在稼働しているフィルターと同じ世代の設計書だ」
「今のと同じ構造か」
「設計が同じということは、修繕に使えるということだ。既存の設備に合わせた改修が可能になる」とイグニスは言った。「問題は材料だ」
颯はアルテを見た。
「材料リストを抽出してくれ」
「はい」とアルテが言った。「設計書に記載された材料リストを確認します。少し待ってください」
その間、イグニスが別の設計書を広げた。手が速かった。
「これは環境制御の主幹ラインだ」と彼は言った。「フィルターだけ直しても、主炉の出力が戻らなければ六十日は縮まるだけで延びない。根本は炉だ」
「炉の問題は何だ」
「冷却系の効率低下だ。六年かけて少しずつ詰まった。洗浄できれば出力は戻る。問題は洗浄剤だ。旧連邦規格の洗浄剤は現在どこも製造していない。代替品を使えば炉の内壁が傷む。使わなければ詰まりが進む」
「設計書の中に洗浄剤の合成方法はあるか」とアルテが割り込んだ。
イグニスが止まった。
「あるのか」
「確認します」とアルテが言った。
颯は作業台の端に腰を下ろした。イグニスは立ったまま画面を見ていた。天井の照明が昨夜より少し明るかった。係が点灯を調整したか、気のせいかどうか分からなかった。
「材料リストの確認が終わりました」とアルテが言った。「フィルター修繕に必要な材料のうち、七割はアステル基地の倉庫に在庫があります。残り三割は外部からの調達が必要です。ただし、調達先の候補を調べると、フィーエル基地に在庫がある可能性が高いものが半数以上あります」
「半数以上は近い」と颯は言った。
「フィーエルとの往復は」とイグニスが言った。
「錆鉄丸で片道三日だ。フィーエルの在庫確認が必要だが、向こうにセイがいる。連絡すれば調べてくれる」
「三日で往復できるなら」とイグニスは言った。計算しているような間があった。「六十日のうち十日使えば往復と積み込みができる。残り五十日あれば修繕は試みられる」
「洗浄剤の方はどうだ。アルテ」
「炉の洗浄剤に関連する設計書が二件あります」とアルテが言った。「一件は合成プロセスの記述があります。ただし、合成には専用の設備が必要です。アステル基地に同等の設備があるかどうかは確認が必要です」
イグニスが颯を見た。
「見に行くか」と颯は言った。
炉室は基地の最深部にあった。イグニスが先を歩いた。通路が下に傾いていた。照明がさらに少なくなった。足元に非常灯だけが続いていた。
扉が重かった。イグニスが両手でレバーを引いた。颯も片側を引いた。
中は広かった。天井が高かった。中央に巨大な炉心ユニットが拠えられていた。周囲に配管が走り、壁際に制御盤が並んでいた。制御盤の半分以上がランプを消していた。
「ここが主炉だ」とイグニスは言った。
颯は中央のユニットを見た。外装のパネルに錆が出ていた。配管の継ぎ目に白い析出物があった。六年分の積み重ねが表面に出ていた。
「アルテ、設計書と照合してくれ」
「はい」とアルテが応じた。颯の携帯端末に画像が出た。「冷却ライン第二系統に析出物の蓄積が見えます。洗浄が最も効果的な箇所です」
「合成設備のことを確認してくれと言ったな」
「この炉室の奥に実験設備区画があれば、合成設備の設置が可能なはずです。設計書には標準的な設置要件が記載されています」
イグニスが壁際を指した。
「奥に実験区画がある。ただし、三年前から封鎖している。人員が減って管理できなくなった」
「見られるか」
「鍵は持っている」
実験区画の扉は小さかった。イグニスが鍵を開けた。中は真っ暗だった。非常灯も切れていた。イグニスが手持ちのライトを点けた。
内部に設備が残っていた。台が三つ。棚がいくつか。長期の放置で埃が積もっていたが、設備そのものは形を保っていた。
「使えそうか」と颯は聞いた。
「電源が生きているか確認する必要がある。掃除も必要だ」とイグニスは言った。ライトで棚を照らした。「設備の型番を確認すればアルテが照合できるか」
「できます」とアルテが言った。「型番を読んでください」
イグニスが棚の前に立って数字を読み上げた。旧連邦規格の型番だった。長かった。
「照合しました」とアルテが言った。「この設備は洗浄剤合成に必要な基本スペックを満たしています。電源と排気が確保できれば稼働可能です」
「電源はある」とイグニスは言った。颯を見た。「排気は改修が必要だが、ダクトを一本引けば足りる。それなら俺一人でできる」
「一人でやるか」
「人員が足りない。ここは俺がやる。お前は材料の調達を考えてくれ」
颯は黙って頷いた。
技術室に戻ったのは昼近かった。
マリエが入り口で待っていた。
「二十七名に改善が出ています」と彼女は言った。
颯は止まった。
「昨日の十名からか」
「昨夜の段階で十名全員に反応がありました。今朝から追加の二十名に治療を開始しました。七名は既に自力での食事摂取を確認しています」
「副作用は」
「二名に軽度の発熱がありましたが、プロトコル通りの処置で収まっています。橋本先生のデータが正確でした」とマリエは言った。表情が動かなかった。動かないが硬くもなかった。「七十名の重症患者への治療継続のために、機器の追加が必要です」
「今持っているのは二十台だ。フィーエルに連絡すれば追加を手配できる」
「橋本先生に確認します」
「セイに言えばいい。部品在庫も一緒に聞いてくれ」
マリエは頷いて廊下に戻った。
颯はイグニスを見た。
「材料リストをアルテに整理させる。フィーエルに確認を取る。三日以内に返事が来る」
「分かった」とイグニスは言った。「俺は今日から実験区画の電源を復旧させる。明後日には動かせる」
「並行で進める」
「ああ」
昼過ぎ、颯は錆鉄丸に戻ってコンソールを開いた。
「アルテ、フィーエルへの通信を繋いでくれ」
「接続します」
セイが応答したのは三秒後だった。
「着いてすぐ切ったくせに何だ」
「材料の確認を頼みたい。リストを送る。在庫があるかどうかだけ教えてくれ」
「送れ」
アルテが整理した材料リストを転送した。画面の向こうでセイが端末を操作する音がした。しばらく間があった。
「半分くらいはある。残りは他の場所から持ってこないといけない。フィーエル周辺の廃棄物処理場に眠っているものがあると思う。二日あれば調べられる」
「二日待つ」と颯は言った。
「機器の追加はどうだ」
「七十台追加できるか」
「今すぐは無理だ。二十台なら用意できる。残りは生産ラインを回す必要がある」
「二十台でいい。三日後に取りに行く」
「来る時に返事をくれ。飯を用意する」
通信が切れた。
颯はシートにもたれた。三日後にフィーエルへ向かう。材料を持ち帰り、イグニスの実験区画が動けば洗浄剤の合成が始められる。フィルターの修繕と炉の洗浄が並行で進む。六十日の制限は変わらないが、どこに手を打つかが見えてきた。
「アルテ」
「はい」
「今の状況を整理してくれ。何日で何ができる」
「整理します」とアルテが言った。「フィーエルへの往復に六日。材料持ち帰り後、フィルター修繕に着手できるまで三日。イグニスさんが実験区画を稼働させるのに二日。洗浄剤の合成に一週間。全て順調に進んだ場合、炉の洗浄が始まるまでに約二週間かかります」
「六十日のうち二週間使う」
「はい。残り四十日で炉の出力回復とフィルター修繕を進めることになります。余裕はありますが、どれかの工程が遅れると圧迫されます」
「想定外の遅延をどこに置く」
「部品の形状不一致が最もリスクが高いです。設計書の寸法と実際の部品に誤差がある場合、加工が必要になります。アステル基地に旋盤設備があるかどうかを確認してください」
「イグニスに聞く」
夕方、颯は再び技術室に顔を出した。
イグニスは実験区画から戻っていた。作業着に汚れが付いていた。電源の復旧作業をしていたらしかった。
「旋盤はあるか」と颯は聞いた。
「製造区画に二台ある。動く」
「加工ができるなら、部品の不一致があっても対応できる」
「腕のある奴が二人いる」とイグニスは言った。「昔、採掘機の部品を全部手作りしていた頃の奴らだ。今は機器の維持に使っているが、精密加工の経験がある」
「動かせるか」
「話す」
颯は頷いた。
「明後日、フィーエルへ向かう。六日で戻る。戻った時に材料を渡せる体制でいてくれ」
「分かった」とイグニスは言った。作業台の上の紙を重ねた。「颯」
「何だ」
「お前は、何でこんなことをしている」
颯は少し間を置いた。
「設計書が手元にあった。使える場所があった」
「それだけか」
「それ以外に何がある」
イグニスは颯を見た。値踏みする目ではなかった。確認するような目だった。
「そうか」と彼は言った。「俺が昨夜眠れなかったのは、四十七件という数字が頭から消えなかったからだ。六年間ずっと、どこかにあるはずだと思って探していたものが、突然目の前に来た。処理が追いつかなかった」
「使えばいい」
「使う」とイグニスは言った。「全部使う」
夜になって、颯は医療区画を一度通った。
昼間より人の動きがあった。スタッフが三人、患者の間を歩いていた。一人の患者が壁に手をついて立っていた。立てる状態ではなかったはずの患者だと、颯には判断できなかったが、マリエが横にいて何かを言っていた。患者が何かを言い返した。声は聞き取れなかった。
颯は立ち止まらなかった。
錆鉄丸に戻って、エンジンの点検を一通りやった。三日後に出発する。フィーエルまでの航路に問題はなかった。燃料は補充が必要だった。イグニスに頼めば手配できるはずだった。
「アルテ、燃料補充をイグニスに頼むメモを残してくれ。明日の朝に話す」
「了解しました」
颯はシートに戻った。
六十日、という数字がある。それが四十日になり、三十日になり、二週間になれば形が変わってくる。今は全体の線が引けただけで、実際の作業はこれからだった。フィーエルへの往復。材料の積み込み。実験区画の稼働。加工班との調整。治療の継続と機器の追加。それぞれが独立していて、それぞれが他に影響する。
「アルテ」
「はい」
「イグニスに渡す作業リストを作ってくれ。優先順位をつけて。俺がいない間も進められるものと、俺が戻ってから一緒にやるものを分けて」
「作成します。確認できる時間はいつにしますか」
「明朝でいい。イグニスに見せる前に俺が確認する」
「了解しました」
外は岩盤だった。昨日も同じだった。変わっていないが、昨日より中身が変わっていた。六十日が、手を打てば対応できる数字に変わっていた。
颯は目を閉じた。
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