第一話 吉田賢治
俺の名前は、吉田賢治。
二十六歳、会社員。
独身。
ごく普通の会社員だと思う。
仕事はそれなりに真面目にやっているし、遅刻もほとんどしない。
人付き合いも、特別苦手というわけではない。
彼女はいない。
まあ、二十六歳にもなれば珍しくもないだろう。
休日は友達と遊んだり、買い物をしたり、家でゲームをしたり。
あとは……人並みに、大人の動画を見たりしている。
うん。
人並みだ。
決して、俺だけが特別スケベというわけではない。
たぶん。
俺は自分のことを、紳士だと思っている。
女性に無理強いなんてしない。
勝手に触ったりもしない。
女性が嫌がることはしない。
だから俺は、紳士だ。
……まあ、女性の裸を見るのは好きだけど。
それくらいは普通だろう。
少なくとも、俺はそう思っている。
その日も、いつも通り仕事を終えた俺は、コンビニで弁当を買って帰っていた。
時間は夜の八時過ぎ。
明日は休みだ。
家に帰って、飯を食って、風呂に入って……。
まあ、あとはいつも通りだ。
そんなことを考えながら歩いていると、前を一人の女性が歩いていた。
俺より少し前。
長い髪。
そして、膝丈くらいのスカート。
別に、じろじろ見ていたわけじゃない。
たまたま視界に入っていただけだ。
女性が角を曲がる。
その瞬間――
風が吹いた。
スカートが、ひらりと舞う。
あ。
見えそう。
そう思った瞬間だった。
視界いっぱいに、トラックがあった。
――え?
次の瞬間、俺の意識は途切れた。
――そして、目が覚めた。
「……ん?」
最初に感じたのは、背中に伝わる冷たい感触だった。
目を開ける。
空が見えた。
青い空。
白い雲。
そして、すぐ横には川が流れている。
「……どこだ、ここ」
ゆっくりと身体を起こす。
川辺だった。
見渡してみても、見覚えのある建物はない。
道路もない。
電柱もない。
ただ、川と草原が広がっている。
「……確か俺は……」
記憶を辿る。
仕事帰り。
コンビニ弁当。
前を歩く女性。
角を曲がって――
スカートが、ひらり。
「あ」
そうだ。
「見えそう……」
その直後。
トラック。
「…………」
俺はしばらく黙った。
そして、恐る恐る口にする。
「俺……死んだ?」
返事はない。
当然だ。
周囲には誰もいない。
「……マジか」
もう一度、辺りを見渡す。
どう考えても日本ではない。
ということは――
「俺、死んだのか?」
そして、その原因は。
俺はしばらく川辺で落ち込んでいた。
よりによって、最後に見ようとしたものがあれか。
いや、見えたわけじゃない。
見えそうだっただけだ。
……それでも最悪だ。
だが、いつまでも落ち込んでいても仕方がない。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「……で、ここはどこなんだ?」
改めて周囲を見渡す。
何もない。
道路もない。
建物もない。
電柱もない。
見渡す限り、草と木と川だけだ。
「……」
どう考えても、日本ではない。
俺は川の水面を覗き込んだ。
「……誰だ、これ」
そこに映っていたのは、見覚えのない男の顔だった。
外国人……なのか?
少なくとも、日本でよく見る顔ではない。
「……」
頬に手を当てる。
水面の男も頬に手を当てた。
耳を触る。
鼻を触る。
髪を掴む。
全部、同じように動く。
「……俺?」
顔をぺたぺたと触る。
間違いない。
俺の顔だ。
いや、俺の顔なのだろう。
だが、鏡で毎日見ていた顔とは明らかに違う。
「……まさか」
頭の中に、一つの言葉が浮かんだ。
そんな馬鹿な。
そんなこと、あるわけがない。
でも。
この何もない場所。
見たことのない景色。
そして、この知らない顔。
「俺……異世界転移した?!」
思わず声が出た。
返事をする者は、当然いなかった。
俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……異世界転移?」
口に出してみても、現実感はまるでない。
だが、どう考えてもここは日本ではない。
ならば――。
異世界転移。
その可能性しかない。
「……」
そして、異世界転移といえば。
俺は少しだけ期待を込めて、右手を前に突き出した。
「ステータスオープン!!」
…………。
何も起きない。
「…………」
もう一度。
「ステータスオープン!」
何も起きない。
「……」
俺は拳を握った。
「ちくしょう!」
思い切り地面を殴る。
ゴンッ。
「痛っ!」
拳が痛い。
当たり前だ。
地面は何も悪くない。
「……痛ぇ……」
拳を見る。
少し擦りむいて、血が滲んでいる。
「…………」
涙が出てきた。
何なんだよ。
死んだと思ったら、知らない場所にいる。
異世界転移したと思ったら、ステータスも出ない。
そして地面を殴ったら普通に怪我をする。
「……俺、これからどうすればいいんだよ……」
川のせせらぎだけが、静かに聞こえていた。
俺は左手で、さっき地面を殴って怪我をした右手をさする。
「……ん?」
ふと、違和感に気づいた。
痛くない。
さっきまで確かに痛かったはずなのに。
俺は右手を見た。
「……え?」
傷がない。
血も出ていない。
擦りむいたはずの皮膚も、完全に元通りになっている。
「……治ってる?」
恐る恐る右手を握ったり開いたりする。
痛くない。
何の問題もない。
「……まさか」
俺は自分の手をじっと見つめた。
そして――
「これ、聖女的なアレじゃないか?」
思わず声が出た。
異世界。
謎の身体。
そして、自然に治った怪我。
「治癒魔法……?」
胸が高鳴る。
もしかして。
もしかすると俺には――
「チート能力があるのか!?」
さっきまで泣いていたことも忘れて、俺は立ち上がった。




