第七話 乙女Ⅱ シフル
月に照らされた瑠璃色が夜空に馴染む。
木の建物の上、悠然と立つその男は、焦りも怒りも見せない冷たい目をしていた。
スピカは男を見上げて舌を打った。
「デト……」
デトが静かに飛び降り、音もなく地に足をつけた。
蛇に睨まれたような感覚。スピカは鳥肌を立てた。
「そいつを殺されると困るな……」
スピカは口角を上げたが、引き攣っていた。
「あら、少し冷たいんじゃない? 俺の弟子に手を出すなぐらい言ったら?」
肩の力が抜けない。
脅威だとは思わない。だが、全身に巡る血が騒いでいる。
デトはゆっくり歩き、リアの傍で止まった。
スピカは後ずさる。
デトは血を流したリアを一瞥し、スピカに眼を戻した。
冷徹な視線を受けてスピカはたじろいだ。
だが、威勢は失わせてはいけない。
「あんたのことも殺さなきゃいけないのよね」
「ああ、そうか」
淡白な返事にスピカは瞼を下げた。
スピカは身体を屈め、前に足を出した。
「おもしろくないわ……ね!」
言葉を言い切るのと同時に動いたスピカは正面から突撃する。
疾風を纏う。
デトが迎撃態勢に入る前に懐に爪を伸ばす。
やれる――そう確信した瞬間、視界がブレた。
腹が抉れる感覚。揺れる脳。全身に伝わる衝撃。
デトの拳がスピカに直撃した。
白目をむく。
身体は弾き飛んでいった。
石畳に跳ね、やがて地に伏せた。
震える身体を起こそうと力を入れるがうまく動かない。
やっとのことで立ち上がり走り出すのは青い光とは真逆の方向。
理性が本能に追いつく。
勝てない。
飛膜を広げた。
「逃がすかよ」
その一言だけが聞こえた。
振り返れば青い閃光が迫りくる。
デトの貫手が空気を裂く。
「ッ……」
軌道に合わせ身体を開き、間一髪で避けた。
だがスピカの目に映ったのは、デトの腕に並び、遅れて追う水の槍。
その槍は
――水響魔奏・双冥槍――
直線を貫いた。
音が消えた。
静かな風が左胸を吹き抜ける。
痛みはすでに感じない。全身の力が抜けていく。
支えることもできず、身体が宙に放り出された。
スピカの視界はゆっくりと空を映した。
やがて石に背が付けば、力が地に奪われていく。
浅い呼吸のまま、星空を見上げた。
***
路地裏を駆け抜ける。建物や地面の一部が血に汚れている。リアの血ではないことをただ祈りながら走る。
ベルは呼吸を乱しながら叫ぶ。
「こっちで合ってんのよね!」
「ええ、おそらく。デトさんが降りたのは噴水広場のはずです」
並走するオゼロが告げた。
路地裏の出口へと向かう。
視界が開けた。その先でデトは、仰向けで倒れている黒髪の女を見下ろしながら立ち尽くしていた。
ベルとオゼロは立ち止まり、状況を観察した。
「終わったようですね」
オゼロが呟いた。
デトの後方にはもう一人。血だらけで転がる金髪の少女、リアがいた。
「リア!!」
走って駆け寄り、口元に手を当てた。
「……生きてる」
ベルはリアの手から刀を外し、仰向けにそっと身体を直した。リアの安静を確保した後、スピカの方へ目をやった。
オゼロはデトの横に並び、スピカの心臓の位置に風穴があることを確認した。
「殺したのですか」
「ああ、もうじき死ぬ」
デトの声は驚くほど冷静であった。
オゼロは目をつむり、静かに頷いた。
「……致し方ありませんね」
天を見上げるスピカの目は虚ろである。吐血した口は青く、すでに生気を感じられない。
スピカの目に映るのは満月の輝く夜空。
手が動く。震わせながら、ゆっくりと空に手を伸ばした。
「……やっぱり……遠い……なあ」
小さく、か細い声は冷たい夜に消えていく。
一粒の涙が流れた。
デトは死にゆく女をただ眺めている。
目を細めた。
スピカの腕の震えがピタリと止まった。
星に伸ばす腕が、這い上がるように変色していった。
「おい……」
スピカの腕が灰色に、石になっていく。腕だけではない、胸元から首へ、首から頭へ、その異変は止まらない。
「ぁ……ぁ……」
やがて全身が石化し、頬から首に亀裂が入る。
そして――
パン
軽い破裂音とともに、スピカの全身が粉々になった。
空気中に舞う石破片は月光により星のように煌めいている。
ベルがつぶやいた。
「まだ、終わりじゃないようね」
満月の夜。空気が肺を冷たくした。
***
目を覚ました。目に映るのは……よく見ていた天井。リアはアルバの宿で眠っていた。だが、流れ込む記憶と現在の状況とで辻褄が合わない。
彼女の最後の記憶はスピカに刀を振るったその瞬間。けれども、届かなかった事実。
視界の端、デトが見えた。
「起きたか」
いつもの顔をするデトはリアの側で椅子に腰をかけていた。
リアは理解した。また彼に助けられたのだと。
上半身を起こした。背中を走る痛み。それが最小限になるよう、ゆっくりと動かした。
デトの後頭部は陽光に照らされ、青い光を反射していた。
「デトさん……スピカさんはどうなりました?」
「殺したよ」
リアは唇を噛んだ。目を固く瞑り、被さっていた布団を強く握った。
デトは目だけを向けてじっと見つめていた。
リアは静かに口を開いた。
「また……負けました」
声は小さかった。
それでも言葉を絞り出す。
「私は弱い」
涙がこぼれ落ちそうだった。けれど、ここで泣いてしまえば、自分にも負けてしまう気がした。
「……そうだな」
「っ……」
デトの肯定はリアの胸に深く突き刺さった。しかし、不思議と気持ちが軽くなった。
彼はしばらく黙っていたが、リアから目を離さなかった。
デトは鼻息を鳴らしてリアに問いかけた。
「今回の戦いで何か掴んだんじゃないか」
そう言われてハッとする。
自分の未熟さを痛感したあの時、このまま死ぬわけにはいかないと身体を動かした。
「……身体が熱くなりました。全身の血管が広がった気がします。今までにないくらい速く動けて……力が湧いた」
目線を落としたまま語った。
「だけど、限界が来て……それで。あれが一体何だったのか……」
「〝シフル〟」
デトが突然発したその単語に聞き覚えはなかった。何を言われたのかわからず、リアは続きを待った。
「魔力のない人間を、そう呼ぶ。……昔、とある人間が一つの国を滅ぼした」
デトがリアから目を外し、虚空を見つめた。
「ただの人間。体格もそこらのもんと同じだった。ただ一つ……その男には魔力がなかった」
「え……」
リアは目を丸くした。〝魔力なし〟という障害を抱えながら、国を滅ぼすほどの力を持てるとは到底思えなかった。
「剣だけを振るい、己の肉体のみで前進してきた。そして……その国の王を討ち取った」
デトはどこか遠くを眺めているようだった。
「本来あるべき魔力の分、身体能力が異常に発達した存在。それがシフルだ」
青い虹彩がリアに向けられた。
「確かにお前は、まだ弱い。だが……その身体は」
リアは息を呑む。
「〝王〟に成り得る器だ」
声は真っ直ぐで、その言葉には冷やかしも誇張もないと確信できた。
デトは腰を上げながら言った。
「自分の肉体は自分にしか扱えない。その器を生かせるかはリア……お前次第だ」
デトはベッドを回り、部屋を出ていこうとした。
リアは自分の手のひらを見た。
――魔力のない空っぽな身体だと思っていた。もしも本当に、デトさんの言うような力が宿っているのなら私は……強くなれるのかもしれない。いや……私は
拳を握った。
「ここからです」
ドアノブにかけたデトの手は止まった。
「ここから私は強くなります」
――もう、本当の自分から逃げない
リアの瞳は生気に満ちていた。森に居たころの空虚な少女ではない。
デトは震えるリアをちらっと確認し、何も言わず出ていった。
彼からの言葉はいらない。
ただ、熱くなる胸に決意を刻み込んだ。
***
第七話 乙女 完




