第十二話 沈黙の記憶
> βシリーズ 第17号機 記録欠番
夜の庁舎。
高乃は一人、古いデータを整理していた。
“βシリーズ”――いまでは姿を消した、初期のアンドロイドの系譜。
スクリーンに浮かぶ文字。
> β–17
その刻印を見た瞬間、指先が止まる。
微かな機械音と先刻から降り出した雨の音だけがオフィスに響いている。
ときおり光が走り、白く照らされたガラスに彼の顔が映る。
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「まだ残ってたんだ。」
静かな声。
振り返ると、アトムが傘をたたきながら入ってきた。
「アトム…もう帰ったと思ってた。」
「大河と食事。話が尽きなくてね。」
「機械の身体の2人で何を食ってきたんだ?」
「ひどいな、それ。」
アトムが笑い、濡れたコートを軽く払った。
その笑顔は、何も聞かずにすべてを理解しているようだった。
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アトムはデスクの上のモニターを見つめた。
「……βシリーズの記録?」
「片付けてただけだ。」
「君が“片付けるだけ”で済む話じゃないだろ。」
高乃は何も言わず、マグを手に取った。
冷めたコーヒーの香りが、夜気に混ざる。
アトムはそれ以上は触れず、静かに湯を沸かし始めた。
二つのカップに注がれる湯の音が、雨のリズムと重なる。
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「大河がA203の件を探ってる。警備局が動くかもしれない。」
「知ってる。」
「君が何をしているか、僕は聞かない。……聞かないことにしてる。」
「助かる。」
「でも、危ないことはやめてくれ。
君がいなくなったら、慧兄さんも、僕も困る。
「危ないことか…身に覚えが無いな。」
「僕は本気で言ってるよ。」
高乃が視線を上げた。
アトムはいつもの調子で微笑んでいたが、
その目の奥には、雨よりも深い色があった。
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しばらく沈黙。
雷鳴が遠くで鳴り、窓の外の街灯が揺れる。
「……母さんがいなくなった日も、雨だった。」
アトムは何も言わなかった。
ただ、静かに湯気を見つめていた。
「今でも、この音を聞くと胸がざわつく。
でも、不思議と耳を塞ぐ気にはならない。
――生きてた証拠みたいだから。」
アトムは少しだけ目を伏せた。
「……その感覚、分かる気がするよ」
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雨音の中、アトムがふと口を開いた。
「ポルは元気?」
「元気だ。よく喋る。」
「誰かと一緒に暮らすのは楽しいでしょ?」
「……まあ…可愛いからな、犬だし。」
「じゃあ、僕の選択は正しかったな。」
「アトム…ほんとに勝手だな。」
「そう言いながら、ちゃんと世話してる。」
「……まあ。」
アトムが軽く笑い、立ち上がった。
「君に“声のある生活”が戻って、良かったと思ってる。」
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ドアが閉まり、静寂が戻る。
高乃は引き出しを開け、擦れたメモリチップを手に取った。
> β–17
「……母さん。」
雨が降り続いている。
それは悲しみの音でも、優しさの音でもなかった。
ただ、確かに過去がまだここに在ることを告げていた。
「今度こそ、誰も壊させない。」
誰にも届かない声で、そう呟いた。




