第12話 軍神を人間に戻した男
ついに最終話です!
ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。
軍神と呼ばれ孤独に凍えていた少女と、彼女を救った男の結末をぜひ最後まで見届けてください!
松任城の奥御殿は、息の詰まるような緊張感に包まれていた。
長尾景虎が昏倒してから半刻。神崎陸の的確な救命処置は、寸分の狂いもなく展開されていた。
「頭を絶対に揺らすな! 上半身を三十度起こせ!」
陸の鋭い指示のもと、寝台の布団を重ねて景虎の頭部を高く保持させた。重力によって脳内の静脈血の還流を促し、頭蓋内圧の上昇を抑える基本手技だ。
さらに、手取川の雪解け水で冷やした氷嚢を景虎の頸部と頭部へ当て、脳の代謝熱を強制的に下げる。
「陸殿、お薬を持ってまいりました!」
樋口与六が息を切らせて差し出したのは、陸が春日山城から常備していた血圧降下生薬――釣藤鈎と黄連、葛根を調合した濃縮エキスだった。血管の過剰な痙攣を鎮め、末梢の動脈を拡張させる漢方生薬だ。
意識のない景虎の顎を軽く持ち上げ、気道を確保した上で、微温湯に溶かしたエキスを匙で口腔粘膜へと浸透させていく。
そして陸は、細く鋭い銀針を火で炙って消毒した。
「景虎様、少しチクッとするぞ」
景虎の両手の指先十本の爪の生え際――十宣穴に針を素早く刺し、ぷつりと一滴ずつ血を絞り出した。末梢の静脈圧を急激に減圧し、脳卒中の発作を抑え込む東洋医学の緊急瀉血療法だ。
陸は瞳孔の対光反射を確認し、頸動脈の脈拍の乱れを指先で丹念に探り続けた。
一刻、また一刻と時間が過ぎ去っていく。
やがて、景虎の激しい身体の痙攣が静まり、荒々しかった呼吸が、規則正しい静かな寝息へと変わった。
額に浮き出ていた恐ろしい紫色の血管がすうっと沈み、血圧が安全圏へと降下していく。
「……助かった」
陸が全身の力を抜き、畳の上にへたり込んだ。
脳血管の完全破綻は、紙一重のところで食い止められたのだ。
「景虎様の呼吸が……穏やかになりました……!」
与六が涙を流して畳に突っ伏し、柿崎景家も十文字槍を取り落として「神様、仏様、陸様だ……!」と合掌して号泣した。
その日の深夜。
行灯の淡い光が照らす静かな部屋で、陸は一人、景虎の手を握り続けていた。
「……ん……」
不意に、少女の細い指先が、微かに陸の掌を握り返した。
陸が顔を上げると、白銀の睫毛がゆっくりと持ち上がり、潤んだ紫水晶の瞳が陸を捉えた。
「……陸……?」
「気がついたか、景虎様」
「余は……死んだのか……? 毘沙門天の御前へ……参ったのか……?」
「死んでないよ。あんたは生きてる。俺が、絶対に死なせないと約束しただろ」
陸が微笑みながら、乱れた白銀の髪を優しく撫でた。
景虎は自らの胸に手を当て、力強く脈打つ温かい心臓の鼓動を確かめた。
そして、少女の瞳から大粒の涙がとめどなく零れ落ちた。
「陸……余は、生きておるのだな……。神仏ではなく……血の通った、一人の人間として……」
「そうだ。あんたは神様じゃない。これからは美味い飯を食って、よく笑って、長生きする普通の女の子だ」
「う……ううっ……陸ぅ……!」
景虎は子供のようにしゃくり上げ、陸の胸元へと力一杯抱きついてきた。
神の鎧を脱ぎ捨て、誰かに縋り、甘えることを許された十七歳の少女の素顔が、そこにあった。
半年後。天正六年春。
雪深い越後にも、待ち望んだ暖かな春が訪れていた。
手取川での織田四万の壊滅を受け、織田信長は北陸侵攻を完全に断念。越後は日ノ本一の経済・軍事大国として、諸大名から恐れ敬われる存在となっていた。
春日山城の大広間では、筆頭家老に昇格した樋口与六が、誇らしげに分厚い帳面を読み上げていた。
「陸殿が整備された【高速圧雪橇道】により、冬期物資の輸送損失は皆無! 直江津の北前船団は敦賀と堺を往復し、越後上布の先物取引による純益は年間八万両を超えました! 領内に飢える民は一人もおらず、倉には黄金と米が溢れ返っております!」
「がははッ! 我が柿崎隊も、陸殿の作った栄養飯のおかげで病気知らずだ!」
柿崎が豪快に笑い声を上げる。
かつて史実で上杉家を二分して衰退させた後継者争い【御館の乱】も、陸が築き上げた合議制の官僚制度と公平な分配システムにより、争う理由そのものが未然に消滅していた。
越後上杉家は、誰一人として理不尽に死ぬことのない、真の豊穣の楽土へと生まれ変わったのだ。
うららかな春の昼下がり。
春日山城の本丸庭園には、薄紅色の桜と白梅が満開の花を咲かせていた。
花びらが舞い散る縁側で、陸は庭を眺めながら茶をすすっていた。
「陸」
鈴の鳴るような愛らしい声に振り返ると、陸は思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、長尾景虎だった。
もはや白縮緬の陣羽織も、黒漆の南蛮胴もない。身にまとっているのは、越後上布の極細糸で織り上げられた、桜色の美しい小袖だった。健康的な血色が差した白い頬、結い上げられた白銀の髪に飾られた簪。その姿は、息を呑むほど可憐な絶世の美少女だった。
「どうだ……? 似合うか?」
恥ずかしそうに頬を染める景虎に、陸は心からの笑みを返した。
「ああ。世界で一番綺麗ですよ、景虎」
「も、もう……からかうな……」
景虎は照れ隠しに小さく唇を尖らせると、陸の隣に腰を下ろし、小皿に乗せた桜餅を差し出してきた。
「ほら、陸のために作ったのだ。甘さ控えめで、塩も極微量にしてあるぞ。……あーん、してくれぬか?」
赤面しながら差し出してくる景虎の手から、陸は笑って一口食べた。
「美味いよ。本当に料理が上手くなったな」
「ふふ……そなたの嫁になるための修行だからな。余が陸の体を一生守ってやるのだ」
景虎は満足げに微笑むと、陸の肩へそっと自らの頭を預けてきた。春風に乗って、白檀の甘い香りが陸の鼻腔をくすぐる。
「陸。余の掲げていた『義』とは、一体何であったのか……かつては分からなかった。弱きを救い、毘沙門天に祈れば、それで良いと思うていたのだ」
「今は、どうなんです?」
「今はな……はっきりと分かるぞ」
景虎は陸の厚い手を両手で包み込み、自らの温かい胸へと押し当てた。
布越しに、トクトクと力強く脈打つ少女の心臓の鼓動が、陸の掌へと伝わってくる。
「余の真の義はな、陸……そなたを一人の女として生涯愛し、そなたの創るこの暖かな世界を、共に生きていくことだ」
紫水晶の瞳が、至高の愛と幸福に満ちて陸を見つめた。
「余の命も、心も、この身体のすべてを……生涯、そなたに捧げよう。余の側を、絶対に離れてはならぬぞ」
「離れませんよ。あんたが健康で、ずっと笑顔でいられるように、俺が美味しい飯を作って支え続けます」
「ふふ……約束だぞ。破ったら、毘沙門天の罰を下すからな。……生涯、愛しておるぞ、陸」
景虎は愛おしそうに目を細めると、そっと背伸びをして、陸の唇へと自らの柔らかな唇を重ね合わせた。
二人の唇が重なり、満開の桜の花びらが、寄り添う二人の肩へと優しく降り注ぐ。温かな風が、二人の未来を祝福するように通り抜けていった。
雪国を救ったインフラ技術者と、人間に戻った軍神の愛の軌跡は、春の暖かな光の中で、永遠の幸せとなって咲き誇っていた。
【土木・兵站ミニ解説:インフラがもたらす恒久平和】
戦乱の最大の原因は「飢え」「貧困」「自然災害」です。治水によって田畑を守り、道路と港湾によって交易を活性化させ、適切な栄養管理で民の健康を維持することこそが、刀槍による征服を超えた真の天下泰平をもたらします。
【完結御礼】
本作を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
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