第2章:消えない残像と灰色の日常
目覚まし時計の無機質な電子音が、朝の冷え切った空気を切り裂いた。
重たい瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れたアパートの天井だった。薄汚れたアイボリーの壁紙、規則正しく並ぶ蛍光灯の染み。昨夜の出来事が恐ろしい悪夢であったと信じ込もうとするように、圭は固く強張った自らの指先をじっと見つめた。
だが、冷や汗で湿りきったシーツの感触と、首筋の奥に残る凍てつくような微かな疼きが、あの廃墟で目撃したものが現実であったことを雄弁に物語っていた。
身支度を整え、満員電車の濁流に押し込まれる。
吊り革に掴まる無数のサラリーマンたちの疲弊した横顔、スマートフォンを虚ろな目で見つめる学生たち。かつて自分もその一部であり、当たり前のものとして甘受していた日常の風景が、今朝はまるでひどく色褪せた古い映画のフィルムのように、奇妙な遠さをもって映っていた。
オフィスに到着しても、思考の霧は晴れなかった。
規則正しく並んだデスク、絶え間なく鳴り響く電話のベル、空調の低い唸り声。パソコンのディスプレイに並ぶ膨大な数字や文字列を追おうとしても、視線の焦点が定まらない。キーボードを叩く同僚たちの乾いた打鍵音すら、どこか遠い異国の言語のように耳を素通りしていった。
「高村、この前の企画書の修正、今日中に出せるか?」
上司の事務的な声に、圭はハッと我に返った。
「……あ、はい。夕方までにはまとめます」
自分の声が、他人の喉から出ているかのように空虚に響く。
日々の生活を維持するためだけに消費される時間、誰からも真の意味で求められることのない孤独な労働。これまでの人生でずっと感じていたはずのその空虚感が、昨夜を境に、耐え難いほどの重みとなって胸を圧迫していた。
目を閉じると、暗闇の奥からあの青白い月光が鮮烈に蘇る。
崩れかけた大理石の傍ら、夜の帳を纏うようにして佇んでいた白い人影。
息を呑むほどに整った陶器のような白い肌、静かに揺らめく濡れた黒髪。そして、こちらを射抜いたあの底知れぬ双眸――。
確かにあの瞬間、全身を支配したのは命の危機を感じるほどの絶対的な恐怖だった。しかし、時間が経つにつれて、その恐怖の輪郭は奇妙な変容を遂げていた。
彼女のあの瞳の奥にあったものは、ただの冷酷な死の気配だけだったのだろうか。
何十年もの間、誰一人訪れることのない深い暗闇と瓦礫の底で、たった一人で世界から取り残されていた者の、途方もない孤独の影ではなかったか。
定時を過ぎ、街路樹の並木道を一人歩いて帰路につく。
夕暮れのオフィス街は家路を急ぐ人々の足音で溢れていたが、その賑わいの中に圭の居場所はどこにもなかった。コンビニで買った味気のない弁当をぶら下げ、薄暗いアパートの階段を上る。
鍵を開けて入った六畳間の静寂は、昼間のオフィスの騒音よりもさらに冷たく圭を突き放した。
照明も点けず、ネオンの光がわずかに差し込む窓辺に寄りかかり、圭は遠くの空を見つめた。
街の明かりの先に横たわる、あの漆黒の山並み。
生きている人間たちと交わす虚ろな会話よりも、あの死者の気配に満ちた廃墟の冷気の中にいた一瞬のほうが、よほど自らの魂が強く震えていたのではないか。
恐怖の底に沈んでいたはずの記憶は、静かな夜の闇の中で、甘美な疼きを伴う執着へと姿を変え始めていた。




