第1章:禁忌の廃墟と氷の指先
山あいを縫う舗装の剥げた旧道は、街の明かりを完全に拒絶した深い闇に呑まれていた。
錆びついたガードレールの隙間から伸びる雑草が、車のライトに照らされて不気味に揺れている。エンジンの回転数を落とし、高村圭はハンドルを握る湿った手のひらをスラックスで拭った。
フロントガラスの向こう、鬱蒼とした杉林の稜線を切り裂くようにして、その巨大な影は聳え立っていた。
廃リゾートホテル――『翠嶺閣』。
バブルの崩壊とともに打ち捨てられ、三十年以上の歳月が堆積したその建物は、コンクリートの骨組みを剥き出しにし、まるで森の奥で朽ちゆく巨大な獣の亡骸のようだった。
ネットの掲示板や都市伝説の類いでは、この場所に関する不穏な噂が後を絶たない。肝試しに入った若者がそのまま姿を消した、凄惨な変死体が発見された、足を踏み入れた者は二度と元の日常には戻れない――真偽の定かではない怪談が、何重もの毒のように纏わりついている禁忌の領域。
普段の圭であれば、そんな悪趣味な場所に近づくことなどあり得なかった。
だが、日々の過酷な業務に摩耗し、誰からも顧みられない孤独の中で擦り切れた彼の心は、いつしか「ここではないどこか」への逃避を強く求めていた。生の実感を失い、死の輪郭すらぼやけてしまった男にとって、その廃墟が放つ濃厚な死の匂いは、奇妙な引力を持って神経を惹きつけていたのだ。
車のドアを閉めると、夜の静寂が重たく耳朶を打った。
湿った土と腐葉土の匂いに混ざり、古いコンクリートと黴の冷たい悪臭が風に乗って漂ってくる。懐中電灯の細い光条を頼りに、圭は割れたガラス扉の隙間から、エントランスホールへと足を踏み入れた。
足元で、粉々になったタイルとガラス片がジャリ、と乾いた悲鳴を上げる。
かつて豪奢であったはずのロビーは、剥がれ落ちた壁紙が無数の垂れ幕のように垂れ下がり、天井の鉄骨からは錆びた水滴が不規則に床を叩いていた。外気よりも明らかに数度低い冷気が、足首から這い上がってくる。
(……引き返すべきだ)
本能がそう警告を発していた。
心臓が早鐘を打ち、乾いた喉が張り裂けそうになる。だが、一度踏み出した足は、吸い寄せられるように奥へと進んでいく。吹き抜けの階段を上がり、二階のラウンジへと続く長い廊下へ向かった。
廊下の両脇に並ぶ客室の扉は半ば腐り落ち、暗い口を開けて侵入者を拒絶している。
歩を進めるごとに、周囲の空気が重質さを増していくのが分かった。耳鳴りのような低い静寂。風の音すら途絶え、自分の乱れた呼吸と脈拍だけが、空間を支配していた。
廊下の突き当たり、かつて展望ラウンジだったと思われる広大な空間に出た。
一面のガラス窓は大半が砕け散り、そこから差し込む青白い月光が、荒れ果てたホールの床を銀色に照らし出している。
そして――そこに、いた。
圭の息が、喉の奥で完全に凍りついた。
崩れかけた大理石のカウンターの傍ら、月の光が最も濃く落ちる場所に、白い人影が佇んでいた。
床に触れているのかすら定かではない、透き通るような薄絹の衣を纏った女性。夜の闇をそのまま紡ぎ出したような濡れた黒髪が、風もないのに微かに揺らめいている。
その横顔は、陶器のように白く、この世のいかなる生身の人間にも持ち得ない、息を呑むほどに侵しがたい美しさを湛えていた。
だが、次の瞬間、圭の全身を貫いたのは甘美な感動などではなかった。
女性が、音もなくこちらへと首を巡らせたのだ。
視線が交錯した刹那、絶対零度の冷気がホール全体を吹き抜けた。
瞳の奥に広がる底知れぬ深淵。それは紛れもなく、この世の理から完全に隔絶された「死」そのものの眼差しだった。心臓を氷の指先で直接鷲掴みにされたような強烈な悪寒が背骨を駆け上がり、肺の空気がすべて吐き出される。
「ひっ……!」
喉から掠れた悲鳴が漏れた。
生物としての本能が、逃走を命じて全身の筋肉を痙攣させた。懐中電灯を取り落としそうになりながら、圭は無我夢中で踵を返した。
暗い廊下をがむしゃらに走り抜ける。瓦礫に足を取られ、膝を強く打ちつけながらも、背後を振り返る勇気はなかった。首筋のすぐ後ろに、凍てつくような冷気と、見えない視線がぴったりと張り付いているような恐怖。
エントランスのガラス扉を飛び出し、車へと転がり込むと、震える手でキーを回した。
ヘッドライトが深夜の森を切り裂き、車輪が砂利を激しく蹴立てて急発進する。バックミラーには、闇の中に沈みゆくホテルの黒い輪郭だけが映っていた。
自室のアパートに戻り、鍵を二重に閉めた後も、圭の震えは止まらなかった。
毛布を頭から被り、浅い呼吸を繰り返す。
あの時感じた底知れぬ恐怖――それと同時に、暗闇の中で青白く発光していたあの女性の、この世のものとは思えないほど美しく哀しい横顔が、網膜の裏側に焼き付いて離れなかった。




