第12章:剥がされる慈愛の仮面、捕食者の狂宴
肉体の軛から解き放たれた圭の意識は、重力を失った光の粒のように宙へと漂い出た。
首から吹き荒れる朱い血潮も、胸を貫いた鋼の激痛も、もはや遠い彼方の出来事だった。床に横たわる自らの肉塊を見下ろしながら、圭の魂は歓喜に震えていた。すべてを捨て去り、愛する彼女と同じ純粋な霊の領域へと至ったのだ。これで永遠に、二人を隔てるものは何一つとして存在しない。
「……圭さん」
抱きかかえる彼女の冷たい腕の中で、圭の魂は微笑みかけた。
だが――その視線を受け止めた彼女の顔から、まるで薄氷が融解するように、あの清らかで神聖だった「慈愛」の色彩が音もなく消え去っていった。
静寂の中、ぴき、と陶器が割れるような硬質な音が廃室に響いた。
白磁のように滑らかだった彼女の皮膚に、無数の黒い亀裂が走る。
愁いを帯びていた黒曜石の双眸は、底知れぬ飢餓と悪意に濁り、黄色く濁った節足動物の複眼のようにぎらついた。そして、薄紅色の儚げな唇が、左右の耳元までぐじりと音を立てて裂け広がった。
「ぎ……ッ、ヒ……ヒヒッ、アハハハハハハッ……!」
耳朶を劈くような、金属を擦り合わせたような甲高い嗤い声が、廃墟の梁をビリビリと震わせた。
それは聖母の囁きなどでは断じてなかった。何十年もの間、深い暗闇の底で生き血と魂の腐臭に飢え狂っていた、凶悪な「捕食者」の哄笑だった。
「ご馳走様……圭さん。本当に……とても美味しく、熟してくれたわ」
裂けた大口から、生々しい腐肉の悪臭と、無数の蛆のような黒い触手が溢れ出す。
圭の魂は恐怖に凍りつき、逃れようと藻掻いた。だが、優しく抱きしめていたはずの彼女の細い腕は、鋼の鉤爪となって圭の霊体の四肢を深々と刺し貫き、逃走を許さなかった。
周囲の闇が、蠢き始めた。
崩れ落ちた壁の隙間、床板の暗がりから、ぞろぞろと這い出してきたのは、かつてこの廃墟で「神隠し」に遭ったとされる過去の犠牲者たちの成れの果てだった。
手足を異様な方向にへし折られ、目玉をくり抜かれ、魂の芯を吸い尽くされて皮袋のように萎びた無数の亡者たち。彼らは一様に喉を自ら切り裂いた痕を残し、終わりのない苦痛に顔を歪めながら、圭を取り囲んで無声の叫びを上げていた。
すべては――仕組まれた罠だったのだ。
孤独を装った甘い囁きも、凍える指先の切ない接触も、そして現世で与えられた輝かしい成功の数々すらも。
獲物に希望と全能感を与え、自尊心を限界まで肥大化させ、最後に自らの手で命を絶たせること――自死という至高の絶望と自己陶酔の果てに散る魂こそが、この悪霊にとって最も甘美で濃厚な果実だったのだ。
「ああ……愛しているわ、圭さん。あなたのその、絶望に引き裂かれた魂の味が、たまらなく愛おしいの……!」
彼女の裂けた顎が、圭の霊体の頭部へとかぶりついた。
ばり、ぐちゃり、と魂の輪郭が咀嚼される凄惨な痛みが、死を超越した意識を貫いた。
肉体があった頃のいかなる激痛をも遥かに凌駕する、存在そのものを噛み砕かれ、すり潰される永遠の苦悶。
無数の黒い触手が圭の胸部を抉り、自ら捧げたはずの純愛の記憶を、泥水のように啜り上げていく。
「やめろ……ッ、あ……あああああぁぁぁぁッ――!!」
叫喚は誰の耳にも届かず、冷たい夜気の中に掻き消されていく。
彼女の底なしの暗黒の胎内へと引きずり込まれながら、圭の意識は無数の犠牲者たちの怨嗟と混ざり合い、永遠に消化され続ける地獄の底へと沈んでいった。
夜明け前の青白い光が、血だまりの中に転がる首の折れた圭の骸を、冷酷無比に照らし出していた。
蜘蛛の巣の張る梁の上、獲物を喰らい尽くして静かに佇む白い影の姿は、蜜の香りで羽虫を誘い込み、生きたままその体液を吸い尽くす獰猛な肉食花のように、底知れぬ悪意と静寂を湛えて、次の獲物が訪れる闇の帳をただじっと待ち続けていた。




