第11章:血塗られた儀式、肉体の破壊
特別室を照らす月光は、まるで氷の刃のように冷ややかに冴え渡っていた。
床に敷かれた古びた毛布の上に、圭は静かに膝をついた。対面に座る彼女の白い衣は、青白い光を吸い込んで淡く発光し、その透き通るような瞳には、どこまでも深い慈愛と祈りが湛えられていた。
圭は懐から、手入れの行き届いた一本の出刃包丁を取り出した。鈍く光る鋼の刃が、室内の冷気を反射して銀色にぎらつく。
「圭さん……怖くは、ありませんか?」
彼女がそっと手を伸ばし、圭の震える手を包み込んだ。
氷のように冷たい指先の感触が、圭の皮膚を通して神経の奥底へと染み渡り、恐怖のさざ波を瞬く間に鎮めていく。
「怖くはないよ。これで……やっと、あなたと同じ場所へ行けるのだから」
圭はシャツのボタンをすべて引きちぎり、胸元を大きく開いた。
刃の切っ先を、自らの喉仏のすぐ下――頸動脈が強く脈打つ頸部の皮膚へと押し当てる。鋼の冷たさが触れた瞬間、肉体が反射的に微かな粟立ちを覚えたが、彼女が背後から圭の首筋に冷たい頬を寄せ、甘い吐息を吹きかけた。
「ええ……あなたを、ずっと待っています。私の腕の中で……すべてを解き放って……」
彼女の囁きが耳朶を震わせた刹那、圭は迷いを捨て、刃先を自らの肉の奥深くへと突き立てた。
ぶつり、と筋繊維が断ち切られる鈍い手応え。
皮膚を貫いた鋼は、気管と太い血管を容赦なく引き裂き、そのまま横へと滑り落ちた。
頸部から噴き出した鮮血が、鮮烈な朱色の飛沫となって月光の空間を染め上げる。生々しい鉄錆の匂いが部屋中に立ち込め、破れた傷口からゴボゴボと空気の泡と熱い血潮が溢れ出していった。
激痛が脳髄を灼き尽くす。
しかし、圭の手は止まらなかった。愛する者との境界を完全に壊し尽くすため、彼は血塗れの刃を自らの左胸、肋骨の間へと力任せに突き入れた。
肉を抉り、軟骨を軋ませながら刃が心臓の近くまで達する。
鮮血が滝のように床の毛布を濡らし、崩れた床板の隙間から階下へとボタボタと滴り落ちていく。内臓の奥から熱が奪われ、急速に視界が白んでいく中で、圭は刃を抜き放ち、血飛沫の雨の中に崩れ落ちた。
倒れ込む圭の身体を、彼女の冷たい腕が優しく受け止めた。
彼女の白い胸元が、圭の噴き出す熱い血液で紅く染まっていく。
冷たい霊体と、激痛に痙攣する肉体。
流れ出る大量の血とともに、圭を縛り付けていた現世の重力、名前、記憶、呼吸の苦しみが、ひとつずつ肉体の檻から抜け出していくのを実感していた。
「圭さん……素晴らしいわ……あなたの命が、こんなにも美しい……」
彼女の冷たい唇が、血に濡れた圭の額に、唇に、そして切り裂かれた首の傷口へと重ねられる。
傷口に触れる氷の冷感が、激痛を甘美な痺れへと昇華させていく。
彼女の腕の中で命が散りゆくその瞬間、圭の胸を満たしていたのは、かつてないほどの完全な幸福と、至上の安らぎだった。
薄れゆく意識の底で、圭は彼女の美しい微笑みを見上げていた。
肉体の終わりは、愛の始まり。
二つの魂が完全に溶け合い、永遠の夜へと旅立つその瞬間を確信しながら、圭の瞳は静かに光を失っていった。
血溜まりに染まる廃室の真ん中、冷たい腕に抱かれて息絶えた圭の骸と、それを包み込む白い影の姿は、深紅の絨毯の上に捧げられた至高の供物のように、凄惨でありながら息を呑むほど神聖な静寂を湛えていた。




