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深夜二時、存在しない駅で降りた百人の中で、朝まで残っていたのは俺だけだった

作者: kelpya
掲載日:2026/05/29


 深夜二時十三分。


 俺は、存在しない駅で目を覚ました。


 窓の外は真っ暗だった。


 終電特有の、疲れ切った乗客たちの沈黙。酒と汗と雨に濡れた傘の匂い。蛍光灯の白い光。膝の上で振動しているスマホ。


 そこまでは、いつもの帰り道と同じだった。


 違ったのは、電車が止まっていること。


 そして、車内アナウンスが、聞いたことのない駅名を告げたことだった。


『次は、余白。余白です』


 俺は顔を上げた。


 路線図に、そんな駅はない。


 そもそも、俺が乗っていたのは大阪市内へ向かう終電だったはずだ。仕事で遅くなり、疲れ果てて座席に沈み、そのまま眠ってしまった。


 寝過ごしたにしても、こんな無人の山奥みたいな場所へ着く路線ではない。


 向かいの席に座っていたスーツ姿の男も、同じように目を覚ましていた。


「……どこだ、ここ」


 誰かが呟いた。


 電車のドアが、ゆっくりと開く。


 冷たい空気が車内へ流れ込んできた。


 ホームは、薄い霧に包まれていた。


 古びた木造の屋根。ひび割れた白線。錆びたベンチ。壁に貼られた時刻表は、紙が黄ばんで文字が読めない。


 駅名標には、何も書かれていなかった。


 白い板の上に、黒い枠だけがある。


 まるで、名前を入れる前の看板みたいに。


『お降りのお客様は、お忘れ物のないようご注意ください』


 アナウンスが流れる。


 そこで、車内の乗客たちが一斉に動き出した。


 スーツ姿の会社員、制服の高校生、買い物袋を抱えた老女、眠った子どもを背負った母親、イヤホンをつけた大学生、酔っているらしい中年男性。


 皆、何かに押されるように立ち上がり、ぞろぞろとホームへ降りていく。


「いや、待てよ。ここ、どこやねん」


 俺は座席から立ち上がらず、周囲を見回した。


 誰も答えない。


 それどころか、乗客たちは自分がなぜ降りているのかも分かっていないような顔をしていた。


 俺の隣に座っていた若い女性が、半分眠ったままバッグを抱えて立ち上がる。


「すみません、ここ何駅ですか?」


 俺が尋ねると、彼女はぼんやりとこちらを見た。


「え……降りる駅……ですよね?」


「違うと思います」


「でも、みんな降りてるし……」


 彼女はそう言って、ホームへ出ていった。


 俺の足元に、開いたままの文庫本が落ちている。


 誰かが忘れていったのだろう。


 拾おうと屈んだ瞬間、車内の照明が一つずつ消え始めた。


 先頭車両から順に、ぱちん、ぱちん、と暗闇が迫ってくる。


 背筋が冷えた。


 俺は慌ててホームへ飛び降りた。


 最後の乗客が降りると、ドアが閉まった。


 無人になった電車は、音もなく闇の中へ滑り出す。


「え、ちょっと待って!」


「乗ります! 乗ります!」


 何人かが叫びながら走った。


 だが電車は速度を上げるでもなく、ゆっくりとホームの先へ消えていった。


 テールランプの赤い光が、霧の向こうでふっと消える。


 駅には、百人ほどの乗客だけが残された。


 いや、正確には百人だった。


 俺は、そのときなぜか人数を数えていた。


 仕事柄の癖だった。


 俺は小さな広告代理店で、イベントの来場者管理や受付導線の仕事をしている。人の流れや人数を数える癖が、いつの間にか身についていた。


 ホームに立つ人影を、左から順に目で追う。


 十、二十、三十。


 数え間違いかと思って、もう一度数えた。


 百人。


 ちょうど、百人。


「おい、ここどこや!」


 酔った中年男性が、駅員室らしき小屋の扉を叩いた。


 返事はない。


 改札口はホームの端にあった。


 昔の田舎駅のような、小さな木製の改札だ。その向こうには、黒い霧が壁のように立ち込めている。


 何人かが改札を抜けようとした。


 だが、一歩踏み出した瞬間、見えない壁にぶつかったように弾き返された。


「痛っ!」


「何やこれ、ガラスか?」


「スマホ、圏外やん」


 俺もポケットからスマホを取り出した。


 電波はない。


 時刻は、二時十三分で止まっていた。


 バッテリー表示だけが、妙に明るく光っている。


 そのとき、ホームに古びたスピーカーの雑音が流れた。


 ざ、ざざ。


『お客様にご案内いたします』


 全員が、顔を上げた。


『次の電車は、午前五時ちょうどに参ります』


 古い女の声だった。


 駅員のアナウンスにしては、声が近すぎる。


 耳元で囁かれているようだった。


『ただし、百名様全員でのご乗車は、ご遠慮ください』


 ホームの空気が、凍った。


『電車が重くなります』


 ぷつん。


 放送は途切れた。


 誰もすぐには喋らなかった。


 意味が分からなかったからだ。


「百名様って……俺らのことか?」


「全員で乗ったらあかんって何やねん」


「駅員! おるんやろ! ふざけんな!」


 スーツ姿の男が、駅員室の窓を叩いた。


 薄汚れたガラスの向こうは暗く、誰もいない。


 ホームの端へ向かった高校生たちが悲鳴を上げた。


 線路へ降りようとした一人が、黒い霧に足を触れた瞬間、焼けるような音を立てて引っ込めたのだ。


「熱っ……!」


 靴の先が、半分ほど溶けていた。


 それを見て、誰も線路へ近づかなくなった。


 俺は駅名標の前に立った。


 白い板には、やはり何も書かれていない。


 だが、よく見ると、薄く文字の跡があった。


 以前は何かが書かれていたのだ。


 消されたのか、剥がれたのか。


 指でなぞると、粉のような白い塗料が落ちた。


「余白駅……」


 自分の口から、その名前が漏れた。


 乗っていた電車のアナウンスが、そう言っていた。


 余白。


 何も書かれていない場所。


 俺たちは、そこに降ろされた。


       ◇


 最初の三十分は、怒鳴り声と泣き声で過ぎた。


 何人かは改札の向こうへ出ようとし、見えない壁に弾かれた。


 若い男たちは駅員室の扉を蹴破ろうとしたが、木製に見える扉はびくともしなかった。


 高校生の一人は、ホーム下の霧へ石を投げ込んだ。


 石は音もなく消えた。


「ドッキリやろ、これ」


 誰かが言った。


「テレビの企画ちゃうんか。百人巻き込むとか、炎上するで」


「電波ないのに?」


「だから、そういう演出やって」


 そう思いたい気持ちは分かった。


 俺も、現実感がなかった。


 深夜の終電で眠り、知らない駅へ降ろされ、午前五時の電車を待てと言われる。


 百人全員では乗るな。


 電車が重くなる。


 意味の分からない言葉が、頭の中で繰り返される。


 俺はスマホのメモアプリを開いた。


 圏外でも、メモは使える。


 ――二時十三分。余白駅。百人。


 ――五時に次の電車。


 ――百人全員で乗るな。電車が重くなる。


 書いておかないと、何かを忘れそうな気がした。


 その予感は、正しかった。


 二時四十五分。


 スピーカーから、再び雑音が流れた。


『お客様にご案内いたします』


 ホームのざわめきが止まる。


『一番線に、お忘れ物がございます』


 全員が、一番線を見た。


 ホームの端、ベンチの下に、赤いランドセルが置かれていた。


 さっきまで、そんなものはなかった。


 いや。


 あったのかもしれない。


 俺はホームにいた人々を見回した。


 子どもは何人かいた。母親に抱かれて眠っている幼児。高校生。大学生くらいの若者。


 だが、ランドセルを背負っていた小学生は――。


「なあ、さっき、小学生おらんかった?」


 俺が近くのスーツ姿の男に尋ねると、彼は怪訝な顔をした。


「小学生? こんな時間に?」


「いや、でも……赤いランドセルの子が」


「そんな子、おったら目立つやろ」


 彼はそう言って、すぐに駅員室の方へ歩いていった。


 俺は自分のメモを見た。


 そこには、さっき書いた内容の下に、一行増えていた。


 ――赤いランドセルの女の子。いた気がする。


 俺は、そんな一文を書いた覚えがなかった。


 背筋に、冷たいものが走る。


 俺はもう一度、ホームの人数を数えた。


 九十九人。


 何度数えても、九十九人。


 最初は百人いた。


 間違いない。


 そのうち一人が、消えていた。


 赤いランドセルだけを残して。


 俺は周囲の人々へ声をかけた。


「一人、減ってます!」


 何人かが振り向いた。


「最初、百人いましたよね? 今、九十九人しかいません」


「百人って、誰が数えたんですか」


「俺です」


「数え間違いやろ」


 大学生らしい男が鼻で笑った。


「こんだけ人おったら、間違えるって」


「でも、ランドセルが――」


「子どもが忘れていったんちゃうん」


「だから、その子がいないんです」


「最初からおらんかったんやろ」


 話が通じない。


 彼らは、赤いランドセルの持ち主の存在を覚えていない。


 それどころか、俺自身も、その子の顔を思い出せなかった。


 髪は長かったか。


 服は何色だったか。


 泣いていたか、眠っていたか。


 何も思い出せない。


 ただ、赤いランドセルの子がいた気がする。


 その程度の記憶だけが、指の間からこぼれる砂のように薄れていく。


 俺は慌ててスマホに打ち込んだ。


 ――二時四十五分。赤いランドセル。人数九十九人。みんな忘れている。


 入力している間にも、胸の奥から何かが抜けていく感覚があった。


 メモを見て、かろうじて思い出す。


 赤いランドセル。


 女の子。


 いた。


 たぶん、いた。


「何を書いてるんですか?」


 声をかけられた。


 振り向くと、さっき電車内で隣に座っていた若い女性が立っていた。


 年齢は二十代半ばくらい。ベージュのコートに、黒い肩掛けバッグ。顔色は悪いが、目はしっかりしている。


「忘れないようにメモしています」


「一人、消えましたよね」


 俺は息を呑んだ。


「覚えてるんですか?」


「顔は覚えていません。でも、赤いランドセルの子がいたことは、覚えています」


 彼女は自分の左手首を見せた。


 細いボールペンで、皮膚に文字が書かれていた。


 ――赤いランドセル。


「消える直前に、私の前を通ったんです。そのとき、何となく嫌な感じがして、手に書きました」


「俺は神崎です。神崎悠真」


「三浦奈緒です」


 俺たちは、ホームの端へ移動した。


 他の人たちは、まだ怒鳴ったり泣いたり、スマホを掲げて電波を探したりしている。


 だが、その声の量が、さっきより少しだけ減っているように感じた。


「たぶん、一時間ごと……いや、三十分ごとに何か起きる」


 俺はメモを見ながら言った。


「二時十三分に到着。二時四十五分に一人消えた。次は三時十五分かもしれない」


「五時まで続いたら?」


「三十分ごとなら、あと四回」


 九十九人から、九十八、九十七、九十六、九十五。


 数字だけなら、大した変化ではない。


 けれど、消えた人の記憶まで消されるなら。


 最後には、誰が残っていて、誰が消えたのかも分からなくなる。


 いや。


 本当に消えるのは、一人ずつなのか。


 その疑問が浮かんだ瞬間、ホームの奥で悲鳴が上がった。


 人々がベンチの周りへ集まっている。


 俺と三浦さんは駆け寄った。


 ベンチの上に、黒い革靴が一足、きちんと揃えて置かれていた。


 隣には、畳まれたスーツの上着。


 胸ポケットには、社員証が入っている。


 顔写真つきの社員証。


 名前は、佐伯亮。


 だが、写真の顔を見ても、その男がホームにいた記憶がない。


「また一人……」


 三浦さんが口元を押さえた。


 俺は人数を数えた。


 九十八人。


 さっきのアナウンスから、まだ十五分も経っていない。


 間隔が縮んでいる。


 スピーカーが、ざざ、と鳴った。


『お客様にご案内いたします』


 古い女の声。


『お忘れ物は、持ち主のいないものから順に処分いたします』


 ベンチの上の革靴が、かすかに揺れた。


『お心当たりのある方は、お早めにお申し出ください』


 ぷつん。


 放送が切れる。


 直後、ホームにいた何人かが、泣き出した。


 何を忘れたのか分からないのに、何か大切なものを失ったことだけは分かる。


 そういう泣き方だった。


       ◇


 三時を過ぎる頃には、駅の空気が変わっていた。


 最初は、誰もが外へ出る方法を探していた。


 改札、線路、駅員室、トイレの窓、ホーム端の柵。


 だが、どこにも出口はなかった。


 駅は、薄い木造の無人駅に見えるのに、どこを叩いても、どこを蹴っても、まるで巨大な箱の中に閉じ込められているように動かなかった。


 そして、消えた人たちの持ち物が増えていった。


 赤いランドセル。


 黒い革靴とスーツの上着。


 水色の傘。


 割れたスマホ。


 片方だけのイヤホン。


 子どもの靴下。


 持ち主の顔は、誰も思い出せない。


 ただ、物だけが残る。


 ホームの端に並べられたそれらは、まるで遺品のようだった。


「九十二人」


 俺は小さく呟いた。


 三浦さんが手首へ新しい文字を書き足している。


 ――赤ランドセル、革靴、傘、スマホ、イヤホン、靴下。


 彼女の手首は、文字でいっぱいになっていた。


「神崎さん、メモ見せてください」


「はい」


 俺たちは、互いの記録を照合した。


 不思議なことに、スマホのメモに書いた内容は消えなかった。三浦さんの手首の文字も残っている。


 だが、書かれた人の記憶は、少しずつ薄れていく。


 赤いランドセルの女の子がいた。


 革靴の男がいた。


 水色の傘を持つ誰かがいた。


 それは分かる。


 でも、声も表情も思い出せない。


 文章だけが、記憶の代わりに残っていた。


「五時に来る電車には、何人なら乗れると思いますか?」


 三浦さんが尋ねた。


「分かりません。ただ、百人全員はだめだと言っていました」


「九十九人なら? 九十人なら? 一人だけなら?」


「分かりません」


 分からないことばかりだった。


 ただ一つだけ、分かってきたことがある。


 この駅は、人数を減らそうとしている。


 それも、ただ殺すのではなく、消えた人を“いなかったこと”にしながら。


 ホームの中央では、乗客たちが言い争いを始めていた。


 発端は、五十代くらいの男の一言だった。


「百人全員で乗るな、ということは、誰かが残ればいいんだろう」


 周囲の数人が、男を見る。


「一人か、二人か、十人かは知らん。だが全員で乗れないなら、乗れる人数まで減らすしかない」


「減らすって、どういう意味ですか」


 若い母親が、眠っている子どもを抱き寄せた。


 男は答えなかった。


 答えなかったことが、答えだった。


「ふざけないでください。誰かを置いていくってことですか」


「他に方法があるのか!」


 男が叫んだ。


「このまま何もしなければ、一人ずつ消えていくんだぞ! だったら、せめて自分が乗る側に回るしかないだろう!」


「誰を残すつもりですか」


「決めればいい。老人、子ども、怪我人……動けない者から」


 その瞬間、ホームの空気が最悪の形に変わった。


 誰もが、誰かを見始めた。


 足元のおぼつかない老女。


 子どもを抱いた母親。


 泣き続けている高校生。


 酔ってまともに歩けない中年男性。


 今までは、同じ電車に乗っていただけの他人だった。


 しかし今は、五時の電車へ乗るための“重さ”になった。


「やめましょう」


 三浦さんが一歩前へ出た。


「まだ何人なら乗れるかも分からないのに、そんな話をしても――」


「きれいごとを言うな!」


 男は三浦さんを睨んだ。


「あんたは若くて歩ける。自分が選ばれない側だと思ってるから、そんなことが言えるんだ」


「違います」


「じゃあ、あんたが残れよ」


 誰かが言った。


 誰が言ったのか分からない。


 だが、その一言は静かな水面へ落ちた石のように、波紋を広げた。


「そうだ。止めるなら、自分が残ればいい」


「俺は家族がおるんや」


「私だって帰らないといけない」


「子どもだけは乗せてください。お願いします」


 ホームに、恐怖と自己保身が満ちていく。


 俺は三浦さんの腕を引いて、群れから離れた。


「今は近づかない方がいい」


「でも、このままだと」


「分かっています。でも、説得できる状態じゃない」


 人は、恐怖で簡単に変わる。


 さっきまで一緒に外へ出る方法を探していた者たちが、今は互いを見定めている。


 誰なら残しても、自分の罪悪感が少なくて済むか。


 誰なら消えても、仕方がないと思えるか。


 そんな目だった。


 スピーカーが鳴った。


『お客様にご案内いたします』


 全員が硬直する。


『お荷物の整理にご協力ください』


 女の声は、どこか嬉しそうだった。


『重いお客様から、順にお預かりいたします』


 その直後、さっき「老人から残せ」と叫んでいた男の姿が、ぶれた。


 テレビの映像が乱れるように、体の輪郭が波打つ。


「え……?」


 男は自分の手を見た。


 指が透けている。


「待て。俺は、違う。俺は残る側じゃ――」


 最後まで言えなかった。


 男の体は、内側から白く薄れ、音もなく消えた。


 足元には、使い込まれた革の財布だけが落ちている。


 沈黙。


 誰も、彼の名前を知らなかった。


 さっきまで大声で叫んでいたはずなのに、声も顔も、もう思い出せない。


 ただ、財布だけが残った。


 三浦さんが、震える手で手首に書き足す。


 ――財布の男。老人や子どもをホームに残し、自分たちだけ電車に乗ろうと言った。


 俺は、スマホのメモに同じことを打ち込んだ。


 そのとき、ふと思った。


 この駅は、何を基準に人を消しているのか。


 弱い人からではない。


 子どもからでも、老人からでもない。


 さっき消えた男は、誰かを残そうとした。


 電車を軽くするために。


 “重いお客様”とは、体重の話ではないのかもしれない。


       ◇


 三時半を過ぎると、ホームには誰も大声を出さなくなった。


 声を出せば、何かに見つかる。


 そんな感覚が、全員に広がっていた。


 消えた人の持ち物は、ホーム端に二十個近く並んでいる。


 人数は、八十一人。


 俺のメモがなければ、最初から八十一人だったと思っていただろう。


 記録を見ても、消えた人たちがどんな顔だったかは、もう分からない。


 赤いランドセル。


 革靴。


 傘。


 スマホ。


 靴下。


 財布。


 腕時計。


 コンビニ袋。


 イヤホン。


 社員証。


 物だけが、確かに誰かの存在を主張している。


 ホームの反対側では、若い母親が子どもを抱いて座り込んでいた。


 子どもはまだ眠っている。


 母親は子どもの耳を塞ぐように抱え、ずっと同じ言葉を繰り返していた。


「大丈夫。大丈夫。次の電車に乗ろうね。おうち帰ろうね」


 その声を聞いていると、胸が苦しくなった。


 三浦さんも、同じ方向を見ていた。


「あの子、起きませんね」


「疲れてるんでしょう」


「違う気がします」


 彼女の声は小さかった。


「あの子、最初から一度も目を開けていない」


 俺は母親の腕の中を見る。


 子どもの顔は、母親のコートに隠れてよく見えない。


 ただ、小さな靴だけが見えた。


 黄色い靴。


 俺はスマホのメモを見た。


 ――子どもの靴下。


 さっき残された持ち物の中に、子どもの靴下があった。


 では、あの母親が抱いている子どもは、本当にそこにいるのか。


 考えたくなかった。


 そのとき、駅員室の窓に明かりが灯った。


 全員が一斉に振り返る。


 誰もいなかったはずの駅員室の中に、黒い制服姿の駅員が立っていた。


 制帽を深く被り、顔は見えない。


「駅員さん!」


 何人かが駆け寄った。


「ここどこなんですか!」


「外へ出してください!」


「警察を呼んで!」


 駅員はゆっくりと窓を開けた。


 古い木枠が、ぎい、と音を立てる。


「切符を拝見します」


 しわがれた声だった。


 男とも女とも分からない。


「切符?」


「五時の電車へご乗車のお客様は、切符が必要です」


 駅員は、窓口の下へ小さな木箱を置いた。


 中には、古い硬券切符が何枚も入っている。


 灰色の紙に、黒い文字で何かが印字されていた。


 俺は一枚手に取った。


 そこには、こう書かれていた。


 ――片道 余白より 現世ゆき


 背中に、氷を流し込まれたようだった。


「現世……?」


 駅員は答えない。


「どうすれば、この切符をもらえるんですか」


 スーツ姿の女性が尋ねた。


 駅員は、窓の奥からゆっくりと言った。


「お忘れ物を、お預けください」


「忘れ物って……荷物ですか?」


「お客様が、もう持っていかなくてよいものです」


 意味が分からない。


 だが、駅員室の前にいた一人の青年が、震える手で腕時計を外した。


「これで、切符をくれますか」


 駅員は、首を横に振った。


「まだ、重いです」


 青年の顔が歪む。


「じゃあ、何を出せばいいんだよ!」


「思い出を」


 駅員は言った。


「帰られる方は、ここでの思い出を置いていってください」


 窓口の周りが、ざわついた。


 ここでの思い出。


 この駅で見たこと、聞いたこと、消えた人たちのこと。


 それを忘れれば、切符が手に入る。


 誰かが小さく言った。


「忘れられるなら、その方がいいかもしれない」


 俺は反射的に叫んだ。


「だめです!」


 何十人もの目がこちらを向く。


「忘れたら、消えた人たちが本当に最初からいなかったことになる。何が起きているのかも分からなくなる」


「でも、忘れたら帰れるんやろ?」


 疲れ果てた男が言った。


「覚えてて何になるんや。どうせ助けられへんのやったら、忘れて帰った方がましや」


「忘れて帰ったら、次に同じことが起きても――」


「次なんか知らん!」


 男は怒鳴った。


「俺は今帰りたいんや!」


 その言葉を合図にしたように、何人かが駅員室の窓口へ殺到した。


「切符をください」


「忘れます」


「全部忘れますから、帰してください」


 駅員は一人ずつ、硬券切符を渡していく。


 切符を受け取った人たちの顔から、表情が抜けていった。


 さっきまで泣いていた女性が、急に穏やかな顔になる。


 怒鳴っていた男が、不思議そうに周囲を見回す。


「ここ、どこやろ。電車遅れてるんかな」


 彼らは忘れたのだ。


 赤いランドセルの子も、革靴の男も、財布の男も。


 自分たちが何を失ったのかも。


 三浦さんが、手首を押さえた。


 そこに書かれていた文字が、ゆっくりと薄くなっていく。


「消えてる……」


 俺のスマホを見ると、メモの文字もところどころ欠け始めていた。


 ――赤い□□□セル。


 ――財布の□。人を□□と言った。


「忘れ物を預けるって、記録まで消すのか……」


 俺はスマホを握り締めた。


 忘れれば帰れる。


 覚えていれば、切符はもらえない。


 この駅は、そういう場所だった。


 五時の電車に乗るためには、軽くならなければいけない。


 誰かが消えたことも、自分が誰かを見捨てたことも、ここで恐怖に負けたことも。


 全部忘れて、軽くなる。


 それが、この駅の乗車条件なのだ。


「神崎さん」


 三浦さんが、震える声で言った。


「私、忘れたくないです」


「俺もです」


「でも、忘れなかったら、帰れないかもしれません」


「それでも」


 言いながら、自分でも怖かった。


 正義感ではない。


 忘れてしまうことが怖かった。


 自分が何を見て、誰が消えて、どんな声があったのか。


 それを全部失って、何事もなかったように帰る自分を想像したら、そちらの方が怖かった。


 三浦さんはしばらく俺を見て、それから小さく頷いた。


「じゃあ、覚えていましょう。最後まで」


 俺たちは、消えかける文字を必死に書き直した。


 スマホのメモが壊れるなら、腕に書く。


 腕の文字が消えるなら、ホームの壁に爪で刻む。


 赤いランドセル。


 革靴。


 傘。


 スマホ。


 靴下。


 財布。


 忘れない。


 忘れない。


 忘れない。


       ◇


 四時三十分。


 ホームに残っている人は、四十人を切っていた。


 いや、正確には、切符を受け取った人たちもホームにはいる。


 ただ、彼らはもう別のものになっていた。


 ぼんやりとベンチに座り、五時の電車を待っている。


 自分がなぜここにいるのか、分かっていない。


 消えた人たちの持ち物を見ても、不思議そうに首を傾げるだけだった。


 覚えているのは、俺と三浦さん。


 それから、子どもを抱いた母親だけだった。


 母親は、駅員室へ近づかなかった。


 切符も受け取らなかった。


 ただ、眠っている子どもを抱きしめ、ずっとホームの隅に座っている。


 俺は思い切って、彼女へ近づいた。


「大丈夫ですか」


 母親は、ゆっくり顔を上げた。


 目の下に、深い隈がある。


「この子、寝てるだけですか」


 口にした瞬間、三浦さんが息を呑んだ。


 母親は、何も答えなかった。


 代わりに、抱いていた子どもの顔を少しだけ見せてくれた。


 青白い頬。


 閉じたままの目。


 小さな口元には、呼吸の動きがない。


 俺は言葉を失った。


「事故の日も、こうして抱いていました」


 母親が、静かに言った。


「電車が大きく揺れて、皆が倒れて、気づいたらこの駅にいました。この子は、もう冷たくなっていたのに……私は、まだ降ろせなかった」


「事故の日?」


 三浦さんが震える声で尋ねる。


 母親は、ホームの向こうの闇を見た。


「あなたたちも、思い出していないだけです」


 俺の心臓が、嫌な音を立てた。


「どういう意味ですか」


「ここに来る人は、みんな事故に遭った電車の乗客です。事故で亡くなった人には、五時の電車へ乗るための切符が渡される。まだ現実で息が残っている人には、切符は渡されません」


「でも、現世ゆきって……」


 三浦さんが呟いた。


「死んだ人が、ここでの恐怖や後悔を忘れて、向こう側へ進むための電車です。だから、切符を受け取るには思い出を置いていかなければならない」


「じゃあ、俺たちは……」


 俺は自分の手を見た。


 透けてはいない。


 体温もある。


 心臓も動いている。


 だが、本当に生きているのか。


 ここでは、自分がどちらなのかすら分からない。


 眠っていただけだと思っていた。


 終電で寝過ごしただけだと思っていた。


 でも、最後に覚えている現実は何だった。


 会社を出た。


 雨が降っていた。


 終電へ駆け込んだ。


 座席に座った。


 スマホに母からメッセージが来ていた。


 それから――。


 大きな音。


 金属が潰れる音。


 誰かの悲鳴。


 真横へ傾く車両。


 俺の体が、座席から投げ出される感覚。


 思い出した瞬間、吐き気がした。


「俺たちは、生きているんですか。それとも、もう……」


 母親は、悲しそうに首を横に振った。


「分かりません。自分がどちらなのかは、朝が来るまで誰にも分からないんです」


「朝まで残れば、どうなるんですか」


「生きている人なら、現実へ戻れます。でも、死んでいる人が切符を受け取らずに残れば……私のように、この駅から出られない。次の事故の夜も、またここで目を覚まします」


 母親は、眠った子どもを抱き直した。


「私は、三度目なんです」


「三度目?」


「事故のたびに、ここへ来ます。この子を抱いて。次の電車に乗れば、この子と一緒に行けるのかもしれない。でも、切符を受け取るには、この子が死んだことを忘れなければならない」


 彼女は、子どもの髪を撫でた。


「忘れられないんです。だから、いつもホームに残る。そしてまた、次の事故でここにいる」


 喉が詰まった。


 忘れなければ帰れない。


 忘れられなければ、ここに残る。


 覚えていることが、救いではなく呪いになる。


 それでも、この人は忘れないことを選んでいる。


 スピーカーが鳴った。


『まもなく、五時になります』


 霧の向こうから、かすかなレールの音が聞こえ始めた。


 ごとん、ごとん。


 遠くから、電車が近づいてくる。


『ご乗車のお客様は、切符をお持ちください』


 切符を持つ人たちが、ふらふらと立ち上がった。


 忘れた人たち。


 軽くなった人たち。


 ホームの端に、ヘッドライトが見えた。


 近づいてくる電車は、俺たちが乗ってきた終電と同じ形をしていた。


 だが、窓の向こうは真っ暗で、中に乗客の姿はない。


「神崎さん」


 三浦さんが俺の袖を掴んだ。


「私たちは、どうすれば」


 答えられなかった。


 切符はない。


 忘れていない。


 このままでは、ホームに残される。


 母親は、俺たちを見た。


「生きているなら、乗ってはいけません」


「でも、乗らなければ」


「残ってください」


 母親の声は、初めて少し強くなった。


「朝まで残れた人だけが、戻れます。ただし、覚えたまま戻った人は、次からこの駅を忘れられなくなる」


 電車がホームへ入ってきた。


 ドアが開く。


 切符を持った人たちが、一人ずつ乗り込んでいく。


 誰も振り返らない。


 自分が何を忘れたのかも、誰を置いていくのかも、もう知らない顔だった。


 子どもを抱いた母親は、ドアの前まで行った。


 切符は持っていない。


 それでも、彼女は電車の中を見つめていた。


「乗らないんですか」


 俺が尋ねると、彼女は小さく笑った。


「この子のことを忘れてまで、一緒には行けません」


 ドアの上にある車内表示板が点滅する。


 ――現世ゆき。


 俺は思わず一歩踏み出した。


 その瞬間、車内アナウンスが流れた。


『お客様にお知らせいたします』


 女の声ではない。


 もっと無機質で、冷たい声。


『この電車は、お亡くなりになったお客様専用です』


 足が止まった。


『生きているお客様は、ホームにお残りください』


 ドアが閉まった。


 切符を持った人たちを乗せた電車が、ゆっくりと動き出す。


 窓の向こうに、さっきまで同じホームにいた人たちの顔が並んでいた。


 皆、穏やかな顔をしている。


 その中に、赤いランドセルを背負った女の子がいた。


 黒い革靴の男がいた。


 水色の傘を持つ人がいた。


 財布の男も、スーツの女性も、イヤホンの大学生も。


 俺たちが忘れないように必死に書き留めた人たちが、窓の向こうからこちらを見ていた。


 女の子が、少しだけ手を振った。


 三浦さんが泣き崩れた。


 俺は、声も出せずに見送った。


 電車が霧の中へ消える。


 ホームに残ったのは、俺と三浦さん。


 そして、子どもを抱いた母親だけだった。


 やがて、空が白み始める。


 駅名標の白い板に、朝日が差した。


 何も書かれていなかった板に、薄く文字が浮かび上がる。


 ――余白。


 次の瞬間、駅全体が白く溶けた。


       ◇


 目を覚ますと、俺は病院のベッドにいた。


 天井の白い照明。


 腕に刺さった点滴。


 機械の音。


 母親が泣きながら、俺の手を握っていた。


「悠真……!」


 俺は何か言おうとしたが、喉がうまく動かなかった。


 後から聞いた話では、俺が乗っていた終電は、深夜二時過ぎに脱線事故を起こしたらしい。


 乗客乗員、百名。


 死者、九十九名。


 生存者、一名。


 俺だけが、奇跡的に助かった。


 ニュースでは、そう報じられていた。


 三浦奈緒という女性の名前は、死亡者一覧の中にあった。


 その名前を見た瞬間、母親の言葉の意味がようやく分かった。


 朝までホームに残れば戻れるのは、現実でまだ生きていた者だけだ。


 三浦さんは、事故の時点ですでに亡くなっていた。


 それでも彼女は、消えていった人たちのことを忘れて電車に乗るのではなく、覚えたまま余白駅に残ることを選んだ。


 今もあの駅で、手首へ名前を書き足しながら、子どもを抱いた母親と次の夜を待っているのかもしれない。


 子どもを抱いた母親の名前もあった。


 赤いランドセルの女の子も。


 黒い革靴の男も。


 水色の傘の人も。


 俺がメモに残した持ち物と、死亡者一覧の遺留品が、いくつも一致していた。


 だが、スマホのメモは消えていた。


 事故の衝撃で壊れたらしく、端末は起動しなかった。


 腕にも、文字は残っていない。


 医師は、俺が事故のショックで幻覚を見たのだろうと言った。


 母は、もう何も思い出さなくていいと言った。


 俺も、そう思いたかった。


 余白駅のことなど、忘れてしまいたかった。


 でも、忘れられなかった。


 退院した日の夜、俺は自宅の机に向かい、覚えている限りのことをノートへ書き出した。


 赤いランドセル。


 革靴。


 傘。


 財布。


 子どもの靴下。


 三浦奈緒。


 子どもを抱いた母親。


 五時の電車。


 現世ゆき。


 お亡くなりになったお客様専用。


 生きているお客様は、ホームにお残りください。


 書けば書くほど、涙が出た。


 俺だけが助かった。


 どうして俺だったのかは分からない。


 ただ、俺は覚えている。


 忘れずに帰ってきてしまった。


 その意味を、知らなければならない気がした。


 ノートを書き終えたとき、スマホが震えた。


 修理に出したばかりの、新しい端末だった。


 画面には、非通知のメッセージが表示されている。


 本文は、短かった。


 ――お忘れ物をお預かりしています。


 心臓が止まりそうになった。


 続けて、二通目が届く。


 ――次の電車は、二時十三分に参ります。


 三通目。


 ――百名様そろいましたら、発車いたします。


 俺はスマホを投げ捨てた。


 床で震える画面に、最後のメッセージが浮かぶ。


 ――生きているお客様は、次の駅員をお願いいたします。


 その夜から、俺は電車に乗れなくなった。


 駅のホームに立つと、必ずどこかから古いスピーカーの雑音が聞こえる。


 ざ、ざざ。


『お客様にご案内いたします』


 振り返っても、誰もいない。


 けれど、白い駅名標だけが、いつも一瞬だけ見える。


 何も書かれていない、余白のような看板。


 そして俺は、気づいている。


 あの日から、俺の周りで電車の事故が起きるたび、ニュースの死者数が一人だけ増えることに。


 百人目が、まだ足りないのだ。


 次の余白駅が開くために。


 俺は今日も、電車には乗らない。


 それでも、深夜二時十三分になると、スマホが震える。


 非通知のメッセージは、毎晩同じだ。


 ――まもなく、余白に到着します。


 俺は画面を消し、耳を塞ぐ。


 だが、アナウンスはもう、外からではなく、頭の中で鳴っている。


『お降りのお客様は、お忘れ物のないようご注意ください』


 忘れられなかった俺は、まだあの駅にいる。


 きっと、次の百人がそろうまで。

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