第七話『山の下も、少しずつ馴染んできています!』
神社暮らし、今度は山の下のことも少しずつ覚えていきます!
一巻 鐘が鳴る前の夏
第七話『山の下も、少しずつ馴染んできています!』
——
あかね商店の中は、外より少し暗かったけれど、外よりずっと涼しかった。
硝子戸を閉めた瞬間、古い冷蔵庫の低い振動音と、菓子の袋が擦れるかさりとした音が耳に入ってきた。店は思っていたより広くはなかったが、狭いという感じもしなかった。棚には飲み物、菓子、洗剤、紙石鹸、輪ゴム、蚊取り線香、電池、果ては水遊び用の浮き輪まで、いろんなものが入り混じって並んでいた。まるで正反対のもの同士が、あまりにも自然に同じ場所へ収まっていた。
「いらっしゃい。」
店の奥から声がした。レジの向こうに座っていたのは、少し腰の曲がったおばあちゃんだった。白髪はきちんと結い上げられていて、前掛けのポケットには飴がいくつか入っていそうなふくらみがあった。目は細かったけれど、生きていた。ただ誰が入ってきたかを見るだけじゃなく、誰と誰が来ていて、今どんな気分なのかまで一度で見ているような目だった。
「おばあちゃん、頼んでたもの取りに来たよ。」
小麻里が言うと、おばあちゃんはゆっくり頷いた。
「うん、そうだろうと思ってもう出しといたよ。でもその前に。」
おばあちゃんの視線が月夜に向いた。
「この子が、あの新しく来たっていう子かい?」
新しく来た子。どこか品物の紹介みたいに聞こえて、月夜は少しだけ妙な気持ちになった。それでもすぐに頭を下げた。
「こんにちは……月夜といいます。」
「ほう。いい名前だねえ。」
あかねおばあちゃんはそう言っておきながら、すぐには視線を外さなかった。月夜はなんとなく姿勢を少しだけ正した。その目は妙に長く残って、それから本当に何事もなかったみたいに、ふっと笑う形に細められた。
「挨拶はそれでいいとして、そこ、飲み物の冷蔵庫の前には立たないでおくれ。そこは毎年夏になると子どもらがいちばん長く居座る場所でね、見てるとこっちまで喉が渇くんだよ。」
「そんな基準あるんですか?」
小麻里が、半分ため息みたいな声で言った。
「あるよぉ。冷蔵庫の前で長く悩む顔は、みんなだいたい似たようなもんだからね。」
月夜は思わず冷蔵庫のほうをちらりと見た。中にはサイダー、麦茶、いちご牛乳、コーヒー牛乳、炭酸水、それから夏季限定と書かれた瓶の飲み物が並んでいた。
それを見た瞬間、ほとんど反射みたいにひとりの顔が浮かんだ。赤い着物、金色の目、三本の尻尾。とくに炭酸の瓶なんて、木乃葉が好きそうだった。
「また何。」
小麻里が聞いた。
「いえ。何でもないです。」
「何でもない顔じゃなかったけど。」
あかねおばあちゃんが口を挟んだ。
「もしかして、飴みたいな顔した子でも思い出したかい?」
月夜はその場で少し固まった。
「え?」
「あるだろう。冷蔵庫見て、ふっと浮かぶ顔ってのは。」
おばあちゃんは何でもないみたいに言った。
「好きな子ができると、なおさらねえ。」
その瞬間、横から小麻里の視線が刺さった。月夜はほとんど反射で手を振った。
「ち、違います。そういうんじゃなくて。」
「そういうんじゃなくて、三本尻尾のほうが浮かんだだけでしょ。」
小麻里が無表情のまま言った。
「なんでそんなすぐ言うんですか!」
思っていたよりずっと大きな声が出た。あかねおばあちゃんは、今にも手を叩きそうなくらい楽しそうに笑った。
「ほお、三本尻尾となると、だいぶ絞れるねえ。」
「おばあちゃん。」
小麻里が少し低く呼ぶと、おばあちゃんはわざとらしく知らないふりをした顔になった。
「はいはい。若い子の恋路には、あんまり首突っ込まないでおくよ。」
「恋路でもないですけど。」
「じゃあ、なおさら面白いじゃないか。」
あまりにも軽くて自然な言い方だったせいで、月夜は言い返すタイミングを逃した。小麻里はそんな月夜を見て、微妙に笑いをこらえているような顔をした。こういうときだけ、本当に少し意地が悪い。あかねおばあちゃんはレジの下から紙袋をひとつと、小さな箱を取り出した。
「ほら、頼まれてたのはこれ。味噌、砂糖、天ぷら粉。それから、これはおまけ。」
「おまけですか?」
月夜が聞き返すと、おばあちゃんは箱の中から棒付き飴を二本取り出して、ひらひら振ってみせた。
「また山の上まで戻るんだろう? 一本はあんたの。もう一本は……そうだねえ。」
おばあちゃんは少しだけ考えるふりをしてから、目を細めた。
「三本尻尾の子にやったら、喜びそうだねえ。」
「なんでみんなそんなに早いんですか……」
「だって、全部顔に出てるから。」
小麻里がすぐに言った。
月夜は結局、その飴を一本しっかり手に握らされることになった。包みは透き通った薄い水色で、ソーダ味と書いてあった。あかねおばあちゃんは品物を袋に詰めながらも、おしゃべりをやめなかった。今年はどこの家の胡瓜が妙によく育っているとか、雨が来る前に洗濯物を取り込まなきゃいけないとか、中学校の前の犬がまたパンをくわえて逃げたとか。どれも取るに足らない話なのに、そのひとつひとつの中に、誰かの一日がきゅっと詰まっていた。沢良木村という場所は、道よりも先に、こういう声で記憶される場所なのかもしれなかった。
そのうち、おばあちゃんがふいに尋ねた。
「それで、下りてきてみた感想はどうだい。」
月夜は少し考えた。初めて見る場所なのに、ただ見知らぬだけではなくて、けれど安心ばかりでもない。うまく説明できなかった。
「少し……変なふうに馴染むんです。」
結局、そう答えた。
「でも、それが別に楽ってわけでもなくて。」
あかねおばあちゃんは笑わずに、ほんの少しだけ月夜を見た。本当に短い間だった。その目があまりにも静かで、月夜は何か言い足そうとして、やめた。
けれど、おばあちゃんはすぐにいつもの顔へ戻った。
「そりゃよかった。何もかも完全に初めてみたいに感じるほうが、かえって疲れるもんだからねえ。」
そう言って、何でもないみたいに手をひらひら振った。
「またおいで。ここは下りてきて、つい予定になかったものまでひとつ余計に買ってしまう店なんだから。」
「それ、ただの営業文句じゃないですか。」
小麻里が言った。
「商売ってのも情がなきゃ続かないのさ。」
その言い方がなんだかおかしくて、月夜はとうとう笑ってしまった。飴はまだ手の中にあって、小麻里は袋を持っていて、硝子戸の向こうには夏の光が白く滲んでいた。
***
あかね商店を出てからも、すぐに山へ戻るわけではなかった。
今日は顔を覚えるだけだと小麻里は言っていたけれど、その意味は思っていたより広かった。店の前の道を見て終わりではなく、その脇の細い路地がどこへ曲がるのか、共同井戸がどっちにあるのか、どの家の塀際が雨の日に滑りやすいのか。そういうことまで、ざっくり目に入れておけということらしかった。月夜は紙袋を片腕に抱えたまま、そのあとをついて歩いた。
昼を過ぎた村は、不思議なくらいのんびりしていた。半分だけ開けられた家の戸口からは、扇風機の回る低い音が漏れていて、物干し紐に吊るされたシャツの袖は、風が通るたびに少しずつ揺れていた。路地の端では、猫が一匹、塀の上で眠そうにしていた。神社の静けさとは、また違う種類の静けさだった。
「あっちが共同井戸。」
小麻里が顎で前を示した。
「子どもがそこでスイカ冷やしたりするし、冬は地面凍って危ない。」
「生活情報が急に具体的ですね。」
「大体、一回転ぶとよく覚えるから。」
「私はできれば経験で覚えるタイプにはなりたくないんですけど。」
「もう遅いかもね。」
それがどういう意味なのか聞くより先に、向かいの家の門が開いた。少し腰の曲がったおじいさんが籠を持って出てきて、小麻里を見るなり慣れたように手を上げた。
「おお、神社の子らが下りてきとるなあ。」
「こんにちは。」
小麻里が先に挨拶して、月夜もつられて頭を下げた。
おじいさんの視線が月夜に向いた。驚いたり、何かを聞きたがったりする顔ではなかった。ただ一度見て、もう一度見る目だった。何かを思い出そうとしているみたいな目。けれど結局、その人も何も言わずに籠を持ち直しただけだった。
「山道、気ぃつけな。今日は風がちょっと裏返っとる。」
裏返る。村の人は、みんなそういう言い方をするのだろうか。はっきり説明するかわりに、もともと知っている人同士だけで通じるような言い方を。
路地をひとつ曲がると、小さな川が見えてきた。深くはなくて、陽を受けて浅くきらきらしていた。飛び石の向こうには古い自販機が二台並んでいて、片方は壊れたまま、もう片方だけがまだ生きていた。
月夜はそこでまた立ち止まった。
「何。」
小麻里がすぐに聞いた。
「いえ……」
月夜は自販機の横の空いたベンチを見た。そのベンチが妙に見覚えある気がした。夏に缶の飲み物を持ってそこに座ると、脚がどれくらい熱くなるのかとか、それを冷ましたくてつい足先を川のほうへ伸ばしたくなるとか、そんなことまで知っている気がした。思い出せるわけじゃないのに、ただそうだと思えた。
「またですね。」
今度は月夜のほうが先に言った。
小麻里は答えるかわりに、ベンチを一度見て、それから月夜を見た。
「今度は何が馴染むの。」
「あれです。」
「自販機?」
「その隣のベンチです。座ったことなんてないのに、座ったらどんな感じか先に浮かんで。」
小麻里は少しだけ黙った。代わりに、小銭入れから百円玉をひとつ出して自販機に入れた。がこん、と古い音がして、少ししてから冷えた缶がひとつ転がり落ちてきた。
「座ってみれば。」
「え?」
「せっかく気になるんだから。」
あまりにも淡々と言うから、月夜はかえって素直にベンチへ腰かけた。金属は、日向に置かれていたせいで思っていたより熱かった。本当に、足先を少し前へ投げ出したくなった。膝の上に袋を乗せると、さっき商店でもらった飴の包みが中でかさっと鳴った。
小麻里が缶を差し出してきた。
「どう。」
月夜は冷えた缶を手に持ったまま、少しだけ考えた。
「今、実際に座ってみたら、さっきより変じゃないです。」
「そういうこともある。」
「慰めみたいですね。」
「慰めてるから。」
思いがけない返事で、月夜は少しだけ目を見開いた。小麻里はそんな反応なんて見えていないみたいに、自販機の横の日陰にもたれて立った。
「村は神社より、もっとそういうのあるから。」
小麻里が低く言った。
「ここには、あんたが知らないことがたぶんたくさんある。でも、身体のほうが先に知ってるふりすることもある。だからって、全部合ってるわけじゃないから。変だったら、すぐ言って。」
そのとき、川向こうで自転車のベルが鳴った。制服姿の男子生徒が二人、下り坂を流れるように通り過ぎながらこっちをちらりと見た。そのうちのひとりが、小さな声で
「神社のほうの女の子たちだ……」
とひそひそ言うのが聞こえた。小麻里は気にした様子もなく、月夜も聞こえないふりをした。
もう少し歩くと、共同掲示板があった。落とし物のお知らせ、防疫の案内、夏祭りの準備集会、風呂屋の掃除当番表。どうということのない紙が何枚も貼られているだけなのに、それが妙によかった。人が暮らしている場所というのは、案外こういう細かい紙切れで回っているのかもしれないと、月夜はあらためて思った。
「お祭りもあるんですか?」
そう聞くと、小麻里が掲示板の一角を見た。
「ある。そんなに大きくないけど。」
「花火もですか?」
「昔ほどじゃないけど、少しは。」
その返事を聞いた瞬間、月夜はうまく説明できない胸の揺れを感じた。期待とは少し違った。もっと、遠くも近くもないどこかで何かが揺れたような感じだった。けれど、その揺れも長くは続かなかった。ほんの一瞬、風が吹いただけだったからだ。
掲示板の紙が数枚、ぱたぱたと震えた。川のほうから吹いてくるはずの風が、妙なことに先に山のほうから下りてきた。月夜は反射的に顔を上げた。誰もいないのに、路地の向こうで誰かが今しがた身を隠したみたいな気配がかすめた。あまりにも短くて、気のせいだと言われてもおかしくなかった。
けれど、小麻里も同時にそちらを見ていた。
「今……」
月夜が口を開くより先に、小麻里が言った。
「見た。」
短い返事だった。小麻里は、その路地をもうひと呼吸ぶんだけ見つめてから、何もなかったみたいに身体を戻した。
「帰ろう。」
「見なくていいんですか?」
「昼だから平気。わざわざ追うほどでもない。」
帰り道、月夜は手の中の飴を一度だけ指でなぞった。包みの中の丸いかたちが、指先に小さく触れた。理由もなく、これを木乃葉に放ってやったらどんな顔をするだろう、という想像が先に浮かんだ。きっと尻尾の一本くらいは、真っ先に揺れるだろう。そう思ったら、さっきの気配が残していった薄い冷たさも、ほんの少しだけやわらいだ。
沢良木村はあたたかくて、妙で、どういうわけか少し知っている気がした。だからこそ、もっと長く見ていたくなった。
一昨日は貧血で倒れてしまって体調がよくなくて休載して、昨日はインフルエンザにかかって休載していたのです! インフルエンザはまだちょっとだけ残っているのです! 詳しいことはXのほうを見てもらえると助かるのです!




