第三十八話 『村の外へ買い出しに来ただけなのに、小麻里お姉ちゃんがいろいろとすごいことを言ってしまいました!』
神社暮らし、今日は村の外でちょっと多めに道を間違えました!
朝、目を覚ましたとき、木乃葉はもういなかった。
代わりに、布団の端に淡い色の毛が一本ついていた。
月夜はそれを窓の外へ飛ばした。
月夜が朝食を食べに来たころには、木乃葉はもう味噌汁の葱を選り分けていて、結はその目の前に葱を少し追加した。
「結」
「うん」
「間違えてるよ」
「わざとだよ」
月夜は少し笑ってから、すぐに自分の茶碗を持った。
その日の用事はもう決まっていた。白雲神社で使う白い布と糸、それに生活雑貨をいくつか。そして結が書いてくれた紙の一番下には、少し間を空けて『小豆』と書かれていた。
木乃葉は紙を見るなり言った。
「大事なのは一番下にあるね」
「一番どうでもよさそうですけど」
「信仰は上から読むものじゃないんだよ」
小麻里が買い物籠を持った。
「じゃあ、小豆だけ抜いて買ってくる」
「取り消し。上から読んで」
結局、月夜と小麻里が行くことになった。
村の外へ出るバスは一日に数本しかない。乗り損ねれば、それから何時間か待たなければならないので、小麻里は時刻表を念入りに二度も確認した。
「十分前には下りよう」
「バス、早く来るんですか?」
「私たちが遅れるかもしれないから」
「信用の向きがおかしくないですか?」
「あんた基準」
月夜は口を閉じるしかなかった。
***
山の下の停留所には、屋根の低い小さな待合所と古びたベンチがあった。壁にはバスの時刻表と病院のお知らせ、夏祭りのポスターが重なるように貼られていた。
遠くからエンジン音が聞こえた。
古いバスの扉が開くと、熱い空気と年季の入った座席の匂いが流れ出してきた。
月夜は乗り込みながら、きょろきょろと周りを見た。
「券、取らないんですか?」
「ここは後ろから乗って、整理券を取るの」
小麻里が小さな機械から一枚取ると、月夜もすぐに真似をした。指の二節分よりも小さな紙に数字が印刷されていた。
「これ、なくしたら?」
「一番高い運賃」
月夜はすぐにポケットの奥へしまった。
「急に大切なものになりました」
バスが走り出すと、窓の外を沢良木の低い屋根や田畑、電柱が流れていった。
さらに下っていくと道路が広くなり、看板が増えた。
ガソリンスタンド。
ファミリーレストラン。
小さなビデオレンタル店。
月夜は窓にくっつきそうなくらい外を眺めていた。
「珍しい?」
隣に座った小麻里が尋ねた。
「少し」
「都会でもないけど」
「沢良木より看板が十倍くらいあります」
「数えてたの?」
「だいたいです」
小麻里は窓の外をちらりと見た。
「帰りは寝てなよ」
「もう帰りの話ですか?」
「行きではしゃいだ人は、帰りに絶対眠くなるから」
「経験談ですか?」
「子どものころ」
「木乃葉とも来たんですか?」
小麻里は少し考えるように目を閉じた。
「……たまに」
「結お姉ちゃんも?」
「一緒に来たこともあった」
そのあとはそれ以上聞かず、月夜はまた窓の外へ顔を向けた。
***
バスを降りたのは、小さな駅の前だった。
駅舎は低く、軒下には丸い時計が掛かっていた。広場の端にはタクシーが二台停まっていて、自転車がぎっしり並ぶ駐輪場の向こうには商店街が続いていた。
人が多かった。沢良木とは、基準から違った。
制服姿の学生。買い物袋を提げた主婦。ネクタイを緩めた会社員。電器店のショーウインドウには折りたたみ式の携帯電話とMDプレーヤーが並び、ゲームセンターの入口ではプリクラの見本がきらきら光っていた。
月夜はしばらく周りを眺めてから言った。
「……小麻里お姉ちゃん」
「うん」
「世界が急にうるさくなりました」
「駅前だから」
「沢良木って静かだったんですね」
「今さら気づいたの?」
小麻里が少し笑った。
最初に入ったのは、昔ながらの生地屋だった。引き戸を開けると、布と古い木の匂いがした。奥には白い布や糸巻きが積まれている。
小麻里は持ってきた見本を出して、店主に見せた。
「これに近いもので。あまり薄くないものを」
月夜は横で布を触ってみた。
「これは駄目ですか?」
「滑りすぎる」
「こっちは?」
「厚い」
「これは?」
小麻里が、月夜の手にある布を見た。
「それ、枕カバー」
「用途から違いましたね」
店主が笑った。
結局、小麻里が選んだ布を二束と糸、それから赤い紐を買った。
次は雑貨屋だった。蝋燭。石鹸。布巾。小さな裁縫道具。月夜はレジの横に置かれていた飴をしばらく見ていた。
店を出ながら、小麻里が尋ねた。
「買わないの?」
「見てたんですか?」
「会計待ってる間、ずっと見てたでしょ」
「ただ、色が綺麗だったので」
「食べたいなら買えば」
「木乃葉みたいになりたくないです」
「その程度じゃならない」
そう言われて、結局月夜は飴を一袋買った。
小豆は駅前の食料品店で買った。小麻里は袋を持ちながら言った。
「これでほぼ終わり」
「ほぼ?」
「バスまで四十分」
月夜の目が少し大きくなった。
「じゃあ、見て回ってもいいですか?」
「大通りだけ」
「子ども扱いしてますね」
「道に迷う人扱い」
「そっちのほうが正確なのが嫌です」
小麻里は駅前の書店を指した。
「あそこまで。私は向かいで紐をもう一つ見てくるから」
「はい」
「大通り」
「はい」
「変なところに入らないで」
「私がわざと入ると思います?」
小麻里はしばらく月夜を見た。
「……覚えておく」
***
書店の扉を開けると、冷たいエアコンの風が顔に当たった。
雑誌。文庫本。漫画の単行本。月夜はしばらく新刊台を眺めた。
かなり時間が経ったところで時計を確認し、書店を出た。
大通りへ戻るには右へ行けばいいことは分かっていた。
問題は、右側の路地が二つあったことだった。
月夜は狭いほうを選んだ。最初は、それほどおかしくなかった。
小さな居酒屋。
昼なのに扉が半分閉じているスナック。
赤い文字の看板。
もう少し進むと、看板が急に派手になった。
『キャバクラ』
月夜は何を見たのかと思い、一度読み直した。
その隣には『無料案内所』。もう少し奥には、布面積の少ない下着姿の女性の写真と、時間と料金が貼られていた。
わざわざ細かく見るつもりはなかったが、それらを見たところで月夜はぴたりと止まった。
「……あ」
――変なところに入らないで。
小麻里の言葉が、あまりにも正確なタイミングで蘇った。
「わざとじゃなかったんですけど……」
昼だからか、通りは閑散としていた。そのせいで余計に居心地が悪かった。
閉まったシャッターの間にはネオン看板が並び、建物の入口では黒いスーツの男が煙草を吸っていた。
月夜が静かに引き返そうとした、そのときだった。
「お嬢ちゃん」
しゃがれた男の声だった。
月夜は聞こえなかったふりをした。
「そこの、小柄でワンピース着た銀髪のお嬢ちゃん」
今度は、聞こえなかったふりをするのが難しかった。
隣の店の前にいた中年の男が近づいてきた。シャツのボタンを開けすぎていたので、月夜は顔より先に首の下を見てしまい、慌てて視線を上げた。
「一人?」
「違います」
「でも、今は一人だな」
男が笑うと、酒の匂いが漂った。
昼なのに。
「友達を待ってます」
「……学生じゃないよな?」
「学校には通ってません」
「……ならいい。いいところ、教えてやろうか?」
「結構です」
月夜が横を通り抜けようとすると、男も一緒に動いた。
「ちょっと待てよ。そんな冷たくするなって。顔も可愛いし、こういう店で働く気はない?」
そこでようやく、だいたい何を言われているのか分かった。
けれど月夜が口を開くより先に。
――ひゅっ。
何かが空気を切る音を立て、男の額に正確に命中した。
「ぐっ――」
男はまともに声を上げる暇もなく吹き飛び、店先に積まれていた空の段ボール箱へ突っ込んだ。
月夜は一瞬目を見開き、そのあとも驚いたように何度も瞬きをした。
地面に、下駄が片方落ちていた。
「……あ」
振り返ると、小麻里が立っていた。
片方の足には下駄。
もう片方は裸足。
実際に投げるところを見たわけではなかったが、月夜には十分そう見えた。
表情はいつも通りだった。
「小麻里お姉ちゃん」
「大通り」
月夜はぎくりとして視線を泳がせた。
小麻里はそんな月夜をしばらく見つめていた。
「……ちゃんと言ったよね」
「路地が二つあったんです」
「広いほうに行けばいいでしょ」
「今そこが大事ですか?」
小麻里は裸足のまま歩いてきて、落ちていた下駄を拾った。埃を一度払って、また足に履く。
男が段ボールの間で意識を取り戻し、体を起こした。
「な、なんだよ、あの女……」
小麻里はそちらを見ることもなく、黙って月夜の腰へ腕を回した。
突然体を引き寄せられ、月夜の脇腹が小麻里の体にくっついた。
薄いワンピース越しに腰を掴む手のひらがあまりにもはっきり感じられて、危ない路地よりも先に、そちらが気になってしまった。
「こ、小麻里お姉ちゃん?」
小麻里は男に向かって、とても明るい声で言った。
「悪いんですけど〜」
普段なら絶対に出さない声だった。
「私たち、二人とも相手がいるんで〜」
月夜はそのまま固まった。
男も少し固まり、二人を交互に見た。
「……二人とも?」
「はい〜」
小麻里は月夜をもう一度自分のほうへ引き寄せた。今度は腰だけでなく、肩までぴったりくっついた。
月夜の顔が熱くなった。
「だから、ほか当たってください」
「何言ってんだよ……」
男が一歩出ようとした瞬間、奥の店の扉が開き、黒いシャツを着た男が二人出てきた。
一人は太い金のネックレス。
もう一人は、捲った袖の下から刺青の端が見えていた。
月夜は心の中で思った。
あ。
これは少し危ないかもしれない。
けれど小麻里は動かなかった。
笑っていた口元だけが下がり、月夜の腰を掴んだ手もそのままだった。
小麻里がほんの少し首を傾げた。
「何」
その瞬間、空気が変わった。
以前聞いた霊力や神力のようなものが込められている感じはしなかった。
ただ、人が本気で怒ったときに出る気配にすぎなかった。
それなのに、店から出てきた二人の男が同時に足を止めた。
小麻里が一歩前へ出ると、下駄の底がアスファルトを、かつん、と鳴らした。
「まだ何かある?」
誰も答えられなかった。
短い沈黙。
金のネックレスの男が先に横を向いた。
「……もういい。入れ」
刺青の見えていた男も一度舌打ちすると店の中へ戻り、最初の男まで戸惑いながらそのあとをついていった。
扉が閉じた。
月夜は震えるような目で小麻里を見た。
「こ、小麻里お姉ちゃん……」
「何」
「今、ちょっと怖かったです」
「ごめん」
「私にやったわけじゃないですよね」
「ならいい」
小麻里はそこでようやく月夜の腰から手を離した。
手が離れると、逆にそこだけ妙に寂しく感じた。
月夜は自分の腰を一度見下ろした。
「でも」
「何」
「どうして『二人とも相手がいる』なんて言ったんですか?」
小麻里が止まった。
「今それ聞く?」
「気になるじゃないですか」
「ここで?」
「バスに乗り遅れる前まででいいので」
小麻里はため息をついた。
「とりあえず大通りに出るよ」
***
二人は駅前まで戻った。
人と自転車がまた見えるようになると、月夜はそこでようやく肩の力を抜いた。
小麻里は自動販売機でお茶を二本買い、そのうち一本を月夜へ渡した。
冷たかった。
バス停のベンチに座ると、月夜はまた口を開いた。
「それで?」
「まだ覚えてたの?」
「十分も経ってません」
「そういうのはよく覚えてるね」
「大事ですから」
小麻里は缶を開けた。
「巫女は、もともと神様の妻だっていう話もある」
月夜は瞬きをした。
「妻?」
「神様に仕えて、ほとんど一年中同じ場所にいるから」
「じゃあ、さっき言ってた相手って、木乃葉だったんですか?」
「だいたい」
「私もですか?」
「月夜も今、神社で暮らしてるでしょ」
「私は正式な巫女じゃないですけど」
「あのおじさんに経歴を説明する必要はなかったから」
月夜はお茶を一口飲んで、横を見た。
「じゃあ、小麻里お姉ちゃんは木乃葉のこと愛してるんですか?」
小麻里の手が缶の口元で止まった。
月夜は小麻里の返事だけを待った。
「なんでそうなるの」
「神様の妻なんですよね?」
「そういう言い方があるってだけでしょ」
「でも、夫婦なら普通、愛情もあるじゃないですか」
「必ずしもそうじゃない」
「現実的ですね」
「月夜が聞いたんでしょ」
月夜は少し考えて、もう一度尋ねた。
「それで、愛してるんですか?」
小麻里は今度はすぐに答えなかった。
少ししてから言った。
「……嫌いじゃない」
月夜は小麻里の横顔を見た。
「それ、愛してるかどうかの答えじゃないですよ」
「分かってる」
「避けました?」
「うん」
あまりにも素直に認められて、月夜は言葉を失った。
「長く一緒にいると、好きか嫌いかだけでは終わらないこともある」
「結お姉ちゃんも?」
「なんで結お姉ちゃんまで増えるの」
「ずっと一緒にいたじゃないですか」
小麻里は月夜を一度見た。
「それは本人に直接聞いて」
「みんな、直接聞けって言いますよね」
「じゃあ直接聞けば」
「私だけ忙しくなりますね」
小麻里の口元が少し上がった。
月夜もつられて笑った。
しばらくして、月夜は自分の缶を膝の上で転がした。
「でも、さっきのことなんですけど」
「まだあるの」
「『二人とも相手がいる』って言ったとき」
「うん」
「どうしてわざわざ、私まで一緒にしたんですか?」
小麻里が月夜を見た。
「一緒にしたほうが信じそうだったから」
「言葉の話じゃなくて、体のほうです」
今度は小麻里が少し止まった。
月夜は自分の腰の横を指した。
「ここ」
「引っ張り出しただけ」
「かなり強く」
「早くあそこから出さないといけなかったから」
「じゃあ、いいです」
月夜はすぐに前を向いた。
けれど数秒後。
「……でも、嫌じゃなかったです」
小麻里が顔を向けた。
けれど月夜はもう、お茶を飲んでいた。
「なんで?」
「何でもないです」
「今、顔が――」
「その台詞は木乃葉専用です」
「誰が決めたの」
「私です」
***
帰りのバスの中で、月夜は本当にうとうとしてしまった。
看板が減り、建物が低くなっていくにつれて、田んぼと山がまた近づいてきた。
月夜は何度か頭を落とし、やがて横へ傾いた。そのたび、何か硬くて温かいところにこめかみが触れた。
目を半分だけ開けてそこを見ると、小麻里の肩だった。
「……すみません」
「寝てて」
「重くないですか?」
「重くない」
「……じゃあ、少しだけ」
月夜はまた目を閉じた。
バスが揺れるたび、小麻里の肩もほんの少しずつ動いた。
小麻里は押し退けなかった。
眠りに落ちる直前、月夜は今日見たものを思い浮かべた。
折りたたみ携帯。
MDプレーヤー。
本の匂い。
変な路地。
飛んでいった下駄。
最後の一つのせいで、口元が少し上がった。
***
沢良木の停留所へ降りたころには、午後の陽射しも少し柔らかくなっていた。
山道を上ると、街では埋もれていた草と木の匂いがまた近づいてきた。
月夜が買い物籠の片側を持ち、小麻里がもう片側を持った。
「街、どうだった?」
「楽しかったです」
「あの路地以外」
「あの路地も、記憶には残りそうです」
「忘れて」
「この前は『忘れないで』って言われたんですけど」
「それは忘れていい」
月夜は笑った。
もう少し歩くと、石段の上に白雲神社の鳥居が見えた。
朝にも通った場所なのに、帰ってくると少し違って見えた。
街は明るくて、騒がしくて、見るものが多かった。そしてあの上には、結と木乃葉、それから自分の部屋があった。
月夜は少しだけ足を速めて石段を上った。
鳥居をくぐるとすぐ、木乃葉が縁側のほうから姿を現した。
「帰ってきた?」
「ただいま」
木乃葉の視線がすぐに買い物籠へ落ちた。
「小豆」
「私より先にそれですか?」
「どっちも大事」
結も奥から出てきた。
「暑かった?」
「大丈夫です」
「何かあった?」
月夜と小麻里が同時に止まった。
それを見た木乃葉の耳がぴんと立ち、結は二人の顔を交互に見た。
「……あったんだね」
小麻里が短く言った。
「少し」
月夜が付け加えた。
「小麻里お姉ちゃんが、人に下駄を投げました」
木乃葉の目が輝いた。
「へえ」
「『私たち、二人とも相手がいる』って言いながら」
今度は結が止まった。
小麻里は目を閉じた。
「そこから話さないで」
「一番大事なところじゃないですか?」
木乃葉が、とてもゆっくり小麻里を見た。
「相手?」
「説明しない」
「誰?」
「説明しないって」
月夜は笑いながら履物を脱いだ。
外へ出かけた一日は長かったけれど、履物を揃えて、見慣れた縁側に足を乗せるまでには数秒もかからなかった。
街で見たたくさんの看板よりも、この神社の木の匂いのほうが先に体へ入ってくるような気がした。
そ、その! 助けてください! もちろんホロドリが楽しすぎたせいもあるんですけど! それなりに前の話の大改修も進めて! あの、武侠のほうもずっと初稿を書いてて! いろいろ頑張ってるのです! 今度こそまた真面目に連載するっしゅ!




