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第九話 『夜の痕を消しても、神社はまだ少し怪しかったです!』

神社暮らし、今日は神社の中からもう一度見直していくのです!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第九話『夜の痕を消しても、神社はまだ少し怪しかったです!』


——


朝の光が部屋の中へ差し込んできても、どうにも夜が完全に終わった気がしなかった。


目を覚まして最初に浮かんだのは、月明かりの下で近すぎた木乃葉と、そのすぐあとに聞こえた、薄い金属音だった。その二つを同じ夜の記憶としてまとめてしまっていいのか、自分でもよくわからないのに、きれいにも分かれてはくれなかった。気まずいのは気まずいし、妙なのは妙だった。問題なのは、そのどちらもあまりにはっきり残っていることだった。


布団をどけて身を起こすと、戸の向こうで足音がした。今度は、ちゃんと叩く音から聞こえてきた。


「起きた?」


結の声だった。月夜が慌てて返事をすると、戸が開いた。結はいつも通りきちんとした巫女装束だったが、手には小さな紙切れを何枚かと、赤い糸を持っていた。部屋に入ってきた結は、まず少しだけ月夜を見て、それからごくわずかに眉を寄せた。


「まだ少し残ってるね。」


「匂いですか?」


「うん。強くはないけど、痕みたいに。」


夜に聞いた話を、朝からあらためて確かめられて、月夜はなんとなくうなじを一度撫でた。もう消えているものだと思っていたのに、そうでもなかったらしい。結は部屋の中に腰を下ろすと、手に持っていた紙のうちの一枚を選んだ。小さくて薄い御札だった。表には細い文字がびっしりと書かれていた。


「ちょっとだけ、じっとしてて。」


「何するんですか?」


「匂いを払うの。夜についたものは、夜のうちに落とすのがいちばん楽だから。」


そう言って、結はあまりにも自然に月夜のほうへ手を伸ばした。月夜は反射的に肩をすくめかけて、それからおとなしく瞬きをした。結の指先が額のあたりに触れて、小さな御札がぺたりと貼られた。


冷たくも熱くもなかった。ただ薄い紙が一枚触れただけのはずなのに、皮膚の下で静かな波がひとつ広がるような感覚があった。月夜は目を丸くした。


「なんで額なんですか?」


結は御札の端を指先で軽く押さえながら、何でもないように答えた。


「別にここじゃなくてもいいんだけど。」


「じゃあどこですか?」


「お尻に貼ってあげようか?」


言い方があまりにもあっさりしていて、月夜は一拍遅れて顔が一気に熱くなった。


「なんで急に選択肢がそんなふうになるんですか!」


「貼れれば、どこでもいいって言ったでしょ。」


「どこでもいいにしては、だいぶ変な場所なんですけど。」


言い終わるのとほとんど同時に、脇の戸口にもたれていた木乃葉が、ふふ、と吹き出した。いつから聞いていたのかわからない。三本の尻尾がものすごく素直に揺れていた。月夜は勢いよくそちらを振り向いた。


「いるなら気配くらい出してください。」


「出してたよ。君が結の話聞いてて気づかなかっただけ。」


「出てませんでしたけど。」


「額で終わっちゃって、ちょっと惜しかったね。」


「木乃葉まで何なんですか。」


木乃葉は図々しく肩をすくめた。対して結はまったく動じず、もう一度月夜の額の御札を見た。


「動かないで。まだ終わってないから。」


結の声が少し低くなると、部屋の空気もほんのわずかに沈んだ。さっきまでのふざけたやり取りとは違う、別の静けさだった。月夜は思わず息を止めた。結は御札の上に二本の指をそっと乗せ、ごく短く、聞き取れない言葉を小さく唱えた。その瞬間、御札がごくわずかに熱を帯びて、すぐに静まった。


風が一度だけ通り過ぎた気がした。窓も戸も閉まっている部屋の中で。御札の端がほんの少し揺れて、月夜の鼻先をかすめていたあの異質な匂いが、遠のいていった。完全に消えるというより、濡れた布から水気が抜けていくみたいに、薄くなっていく感じだった。


結が手を離した。


「うん。これなら大丈夫。」


月夜はおそるおそる自分の額に触れた。御札はまだ貼りついていた。外していいのかどうかわからずに戸惑っていると、結が先に言った。


「昼前まではそのままでいて。あとは剥がしても大丈夫。」


「これ貼ったまま歩き回るんですか?」


「嫌なら帯みたいに細く切ることもできるけど。」


木乃葉がすぐに口を挟んだ。


「それもそれでちょっと面白いよね。いかにも邪気払いしてますって人みたいで。」


「邪気って言うにはまだ早いかな。」


結が小さく言った。


「何なのか、まだはっきりしてないから。」


その言葉が落ちた途端、昨夜のあの空気が少しだけ遠くなった。月夜は額に貼られた紙の存在を意識しながら、ゆっくり尋ねた。


「じゃあ、昨日来たものって……本当に神社の中まで来てたんですか?」


「敷居のところまでは。」


今度は木乃葉が答えた。


「中まで入ろうとしたのか、匂いだけ残していったのかは、まだわからない。」


「だから今日は神社の中を見よう。」


結がそのあとを継いだ。


「わざわざ外へ出て確かめる必要はないよ。少なくとも今は。」


月夜は小さく頷いた。朝からまた山の下へ行くのか、それとも別の妙な場所を見るのかと思っていたけれど、今日は逆に中へ留まる日らしかった。けれど不思議と息苦しさはなかった。外でついたものが中までついてきたのだと聞かされてしまえば、むしろ今は神社の内側の空気のほうが気になった。


結は立ち上がりながら戸口のほうを向いた。


「朝ごはんのあと、本殿の前じゃなくて、裏のほうから一緒に見ようか。昨日風が抜けた道も、一度見ておきたいし。」


「裏って、奉納庫のあたりですか?」


「うん。でも、そのもっと奥まではまだ行かない。」


その線引きが妙に大事なものに聞こえて、月夜はそれ以上聞かなかった。


結が先に部屋を出ていって、木乃葉もそのあとを追いかけようとして、ふと振り返った。視線が月夜の額の御札へ向いて、それから口元が少し上がった。


「似合ってるね。」


「全然似合ってませんけど。」


「封印されてるみたい。」


「それ褒めてないですよね?」


「もちろん褒めてないよ。」


そう言って、木乃葉はまた笑った。三本の尻尾が一緒に揺れた。月夜はなんとなくため息をつきかけて、戸をまたぐ直前にもう一度だけ額に触れた。


御札は軽く、匂いは薄くなっていて、夜は終わったように思えた。それなのに、どうしてか今日は、神社の内側が昨日よりもっと深く見えるような気がした。結は今日、本殿の前ではなく、神社の裏手から見ようと言ったのだ。


***


昼の白雲神社は、相変わらず何事もない顔をしていた。庭はきれいに掃き清められていて、本殿の前の空気は静かで、陽の光は木の影をきちんと地面に伏せさせていた。なのに今日は、その何でもない景色の全部が、薄い紙一枚の上にそっと乗っているみたいに思えた。


月夜は額の御札を意識しながら、結と小麻里のあとをついて歩いた。木乃葉は最初、来る気がないみたいな顔をしていたくせに、いつの間にか奉納庫の近くの日陰で先に待っていた。今日は尻尾の三本が、いつもより少しだけ締まって見えた。


「本当に、何でもないみたいに先回りしてるんですね。」


「足の速い先輩っていうのは、こういうものだよ。」


木乃葉が言った。


「匂いを嗅ぐのも、近いほうが楽だし。」


「その言い方、まだちょっと変に聞こえるんですけど。」


木乃葉は答える代わりに笑っただけだった。


奉納庫の脇は、見た目にはいつも通りだった。棚も、古い木の戸も、石段の下に落ちた枯れ葉も、そのままだった。けれど結は戸の前で少しだけ立ち止まって、指先で空気の流れでも測るみたいに、何もないところをひとつ撫でた。


「どうですか?」


月夜が聞くと、小麻里が先に奉納庫の裏へ回り込みながら、低い声で言った。


「ここ、昨日より風が弱い。」


「弱くなったのか、隠れたのか。」


木乃葉が小さく呟いた。


結は奉納庫の戸をほんの少しだけ開けて、すぐまた閉じた。中には普通の暗がりしかなかった。香の匂い、木の匂い、古い紙の匂い。少なくとも表面上は、何も起きていないようにしか見えなかった。


「今日は中まで入らないでおくね。」


結が言った。


「痕だけ見られれば、それで十分。」


「見えるんですか?」


「見えるっていうより、残り方があるの。」


その説明は、やっぱり十分ではなかった。けれど月夜も、もう少しずつ慣れていた。この神社では、わからないものをわからないまま持っていなければならないときがあるのだということに。


小麻里が奉納庫の裏手の低い石垣に手を置いた。


「これ見て。」


月夜が近づくと、石の隙間に白い粉みたいなものが引っかかっているのが見えた。土埃でも、灰でもなかった。陽が当たるとほんの一瞬だけ光って、それからすぐ、ただの埃みたいに見えた。


「これ、何ですか?」


木乃葉が答えた。


「いいものじゃない。」


「説明の幅が広すぎます。」


「広く言うのにも理由があるんだよ。」


木乃葉はしゃがみ込んで、その粉に鼻先を寄せたかと思うと、すぐに眉をひそめた。


「匂いが切れてる。ここで一度、消えたみたい。」


「消えたって?」


「もともといたものじゃなくて、かすめていっただけなら、そういうこともある。」


結が静かに言い足した。


「越えるかどうか迷って、風だけ置いて引いたみたいに。」


その言葉を聞いた瞬間、月夜はなぜか昨夜、敷居の前で立っていた小麻里の顔を思い出した。急にそうなってしまって、自分でも少しだけおかしかった。


「何その顔。」


小麻里が聞いた。


「いえ。なんとなく……敷居って言葉が引っかかって。」


「昨日のこと思い出した?」


木乃葉が笑った。


月夜は即座には否定できなかった。すると木乃葉の尻尾の一本が、いかにも満足そうに揺れた。小麻里は呆れたみたいに息をついた。


「この状況で、からかうことから考えるのもすごいよね。」


「ずっと緊張してたら疲れるでしょ。」


結は二人の顔を少しだけ見比べて、それから小さく笑った。ほんの短い笑いだったのに、その音ひとつで空気が少しやわらいだ。


裏の見回りは、思っていたほど長くはかからなかった。奉納庫の裏、井戸の脇、古い木の下、奥の居室の裏へ続く細い土の道まで。四人が少しずつ離れて見て、また集まって確かめたけれど、それ以上に濃い痕は見つからなかった。


「昼はだいたいこんなもの。」


木乃葉が言った。


「夜だけ近づいてくるものもいるから。」


「まったく嬉しくない情報ですね。」


月夜がぼそりと言うと、木乃葉が振り返って口元を少し上げた。


「だから夜は、おとなしく寝るのがいちばんだよ。」


「その台詞、今の木乃葉が言うと全然信用できませんけど。」


「昨日のあたしはすごく慎重だったよ。」


「嘘はほどほどにしてください。」


小麻里がまたひとつ息をついた。けれど今度は、その中にほんの少し笑いも混じっていた。月夜はそれを聞いて、少しだけ目を丸くした。


***


見回りが終わると、またいつもの生活に戻った。小麻里は乾いた薬草を取り込み、結は本殿の前に置く水を替えた。月夜は額に御札を貼ったまま布を畳み、昨日片づけきれなかった小さな箱を元の場所へ戻した。あれこれ妙なことが起きても、陽はちゃんと差していて、埃は相変わらず生まれていて、湯呑みは洗わなければいけなかった。何か変なことがあったからといって、暮らしまで止まるわけじゃない。その当たり前が、妙に慰めだった。


そうやってしばらく手を動かしていたときだった。奥の居室の裏の縁側に腰をかけて、果物ナイフで林檎を剥いていた木乃葉が、ふいに言った。


「もう匂い、ほとんどないよ。」


月夜は思わず自分の額に触れた。御札はまだそこにあった。


「じゃあ、もう外してもいいんですか?」


結が濡れた布巾を軽く絞りながら答えた。


「昼を過ぎたら大丈夫。でも今日は捨てないで、畳んで持っておいて。」


「なんだか記念品みたいですね。」


「記念にするには、あんまりよくない日だけど。」


小麻里が言った。


それを聞いて、月夜は笑うべきかどうか少し迷った。間違ってはいなかったけれど、だからといって、あの夜をただ暗いものとしてだけ残したい気にもなれなかった。そのとき、木乃葉が林檎をひと切れ放ってよこした。月夜は反射的に受け取った。


「昨日びっくりさせたお詫び。」


「林檎ひと切れでですか?」


「二切れだと、なんか本気で悪いと思ってるみたいで嫌だから。」


そのやり取りを聞いていた結が、今度はもっとはっきり笑った。小麻里は相変わらず無表情を装っていたけれど、目元に残った気配までは隠しきれていなかった。月夜は手の中の林檎を見下ろしてから、ひと口かじった。思っていたより甘かった。


昼の神社は、またいつも通りの顔に戻っていた。


けれど月夜は、もう知ってしまっていた。その平穏が、何もないという意味ではないことを。風は残るし、匂いは薄くなるし、敷居というものは思っていたよりずっと近い場所にあるということを。


そして不思議なことに、それを知ってしまったあとの白雲神社は、前より少しだけ深く見えて、少しだけ好きになれそうだった。

ううむ……夏コミ、行けるのかちょっとわからないのです……まだ何か月か先の話ではあるのですが、これこれ、もう全盛期を過ぎてしまって、あのえっちな匂いがあんまり出なくなっているのです!

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