プロローグ
神社暮らし、まもなく始まります!
白いワンピースを着た一人の少女が歩いていた。
そこには朝も夕方もなく、影すら生まれなかった。あらゆる輪郭は一度水に濡れてからゆっくり滲んだようにぼやけていて、空間は白でも灰でもない無彩色の霧で満たされていた。遠くで何かが揺れたような気配が何度かかすめたが、それが風なのか音なのか、それとも単なる錯覚なのかは判別できなかった。足元には確かに床のようなものがあったが、踏みしめるたびに本当に立っているのか、それとも沈んでいるのか、自信が持てなかった。
その少女が纏う裾は力なく揺れていた。膝下には乾いた土が少し付いており、爪先は何も履いていない生の肌のままだった。乱れた銀色の髪は頬やうなじに絡みついていて、小さな顔には戸惑いと無表情が奇妙に幾重にも重なっていた。たった今眠りから引きずり出された人のようでもあり、どこかへ長く逃げてきた人のようでもあった。けれど当の本人は、そんな自分の有様を気にする余裕すらないように、ただ前へ向かって足を運んでいた。
その子はどこから来たのだろうか。何を探しているのだろうか。どうしてこんな場所を歩いているのだろうか。誰も答えてくれなかった。彼女自身でさえも。
頭の中はあまりにも空っぽだった。名前も、住んでいた場所も、好きな食べ物も、最後に見た風景も思い出せない。けれど完全に空虚というわけではなかった。胸の奥のどこかに、言葉になる直前の焦りのようなものが薄くこびりついていた。立ち止まってはいけない。遅れてはいけない。誰かに会わなければならない。何ひとつ正確なことはないのに、その漠然とした感覚だけは、理由を知っている顔で彼女の背を押していた。
そのときだった。
「――月夜……」
風に紛れたような囁きが、霧の向こうから流れてきた。あまりに近い気がしたかと思えば、すぐに遠ざかった。少女は反射的に足を止めた。首を巡らせて周囲を見回したが、誰もいなかった。
けれど、月夜というその名前だけは、不思議なほど自然に胸へ落ちてきた。
初めて聞く名前であるはずだった。記憶をたどっても、誰かにそんな名前で呼ばれた覚えがあるのかは思い出せなかった。なのに、その名は少しもその名は少しも見知らぬものには思えなかった。ではなかった。ずっと昔から自分のものであったかのように、誰かに説明されなくても、すぐにそれが自分の名なのだと受け入れられるほど柔らかく染み込んできた。
少女。いや、月夜はおそるおそる自分の胸元を手で押さえた。心臓は動いていた。ゆっくりと、おとなしく。生きていることだけは確かなのに、なぜか体温だけがそれに追いついてこなかった。指先は冷たく、息は浅かった。まるで身体の半分がまだ霧の向こう側に残っているようだった。
どれほど歩いたのかはわからなかった。
そうしているうち、ある瞬間、白い世界の縁が破れた紙のように薄く裂け始めた。霧が風に掃かれるように乱れ、その隙間から色が滲んだ。淡い橙、夕焼けに近い赤み、そして晩夏の夕方にだけほんの少し降りる金色が、そっと世界の表面を覆っていった。
色の裂け目の向こうに最初に見えたのは、竹だった。
まっすぐ長い竹が幾本も並んで立っていた。夕映えを含んだ葉がさわさわと触れ合い、初夏特有の生ぬるい風が竹林の小道をゆっくりとなでて通り過ぎた。つい先ほどまで音すらない場所にいたせいか、葉の触れ合う音がひどく鮮明に聞こえた。月夜は誘われるようにそちらへ足を向けた。
土の匂いがする。葉が揺れる。空気が肌を撫でる。どれも知っているはずの感覚なのに、薄いガラス一枚越しに受け取っているようで妙に遠かった。夢と言うには質感が鮮やかで、現実と言うには手にうまく掴めなかった。だから月夜はきょろきょろ見回さなかった。ただ足元の道だけを見て歩いた。
「――月夜。」
また声が聞こえた。
今度は少しだけ近かった。月夜は立ち止まり、ゆっくりと空を見上げた。夕焼けの色が白い頬の上に薄く滲み、銀色の睫毛の下の瞳がかすかに揺れた。
誰の声なのかは思い出せなかった。
それなのに不思議なことに、思い出せないという事実そのものが胸を痛ませた。月夜は唇をほんの少し動かしたが、結局何も言えなかった。代わりに歩みが速くなった。急いでいるという自覚もないまま、身体が先に前を選んでいた。
先へ進むほど、道ははっきりしていった。ところどころ草が低くなり、竹の合間から古びた石段の上の方がちらりと見えた。風がひときわ長く吹き抜けた。その風には草の匂いと土の匂い、それからごくかすかに湿った木の匂いが混じっていた。記憶はないのに、たったひとつの匂いに心が先に反応した。
やがて竹林を抜けると、古びた石段が姿を現した。月夜は石段の下で足を止めた。階段の上には神社が見えた。さほど大きくはない、古い神社。高くもなく、華やかでもなかった。けれど、ただそこにあるだけの場所ではなかった。色褪せて白くなった鳥居、擦り減った石段、何度も掃き清められた跡の残る境内。誰かが長いあいだ手を離さずに世話をしてきた特有の整い方があった。夕焼けは屋根の先と軒下を赤く染めていて、境内を横切る空気は不思議なほど静かだった。
初めて見る場所であるはずだった。
なのに不思議なことに、見知らぬ場所だという感覚より先に、ぼんやりとした安堵が胸に広がった。それがかえって恐ろしかった。記憶もないのに、どうしてこんな場所を知っている気がするのだろう。どうしてあの石段の上に誰かがいると確信してしまうのだろう。
月夜は裸足のまま最初の段を踏んだ。冷たく硬い感触が足の裏を伝って上ってきた。一歩、また一歩。上がるほどに、胸の奥に沈んでいた何かがゆっくりと浮かび上がってくる気がした。形も名前もないのに、確かに感情だった。ずっと昔に大切に握りしめていたものを失くし、ようやくまた目の前に置かれても、すぐには手を伸ばせない人の感情。
最後の段を越えると、視界が開けた。
そして月夜は、そこに立っている一人の少女を見た。
紅白の巫女装束を着た少女だった。境内の片隅を掃いていたところらしく、その手には長い竹箒が握られていた。体つきは月夜と同じくらいか、少し小さく見えた。袖口から覗く手首は細く、力を込めて握った指の節は驚くほど整っていた。日が傾いて伸びた影が石段の端まで差していたが、その真ん中に立つ巫女の姿だけは不思議なほど鮮明だった。
夕焼けが斜めに差していたせいだった。光は少女の首筋と鎖骨の上に薄い金色の膜を載せていた。風がひとたび吹き抜けると、ゆるく結ばれた髪が揺れ、耳元からこぼれた数本が白く細い首をくすぐった。動きは大きくないのに、どうしても目が向いた。目立つというより、その姿をすでに知っていた気が先にした。
彼女はすぐには月夜を見なかった。箒の先で最後の落ち葉を一枚掃き寄せてから、ゆっくりと顔を上げた。目が合った。
その瞬間、夕方の空気がほんの一瞬止まったように感じられた。蝉の声も、竹の葉の触れ合う音も、一拍遅れて耳に届いた。巫女の目がわずかに見開かれた。驚いた気配だった。けれどそれは、ただ道に迷った人間を見つけたときの反応とは少し違っていた。
月夜は何も言えなかった。声をかけなければならないとはわかっていた。わかっているのに、口が動かなかった。こんにちは、ここはどこですか、いい天気ですね。こんな状況でなら、どちらにしても怪しかった。その間も、巫女は月夜を見つめていた。一歩も動かず、それでいて目を逸らすこともなく。
先に動いたのは少女の方だった。静かに箒を脇へ立てかけた彼女は、ゆっくりこちらへ歩いてきた。近づくほどに、顔立ちが少しずつはっきりしていった。やわらかな目元、濃すぎず伏せた睫毛、幼く見える印象とは裏腹に不思議なほど落ち着いた表情。そして巫女装束の襟元がきちんと合わせられているからこそ、かえって目に入ってくる首と鎖骨の白い線。
少女は月夜の二歩ほど手前で立ち止まった。
「……怪我したの?」
最初のひと言は平凡だった。低く静かな声だった。月夜は反射的に首を横に振り、それからまたはっとした。本当に怪我はしていないのだろうか。自分の身体を見下ろすと、白いワンピースの裾は少し汚れていて、裸足には土が付いていた。外見は無事に見えても、頭の中がこの有様なのに怪我していないと言っていいのか、少し迷った。
「……よく、わからない……です」
口を開くと、声は思ったよりちゃんと出た。少女の視線が月夜の足先へ落ちた。裸足であることを確かめた彼女は、ほんのわずかに眉間を寄せた。やがて自分の袖を軽く整えると、月夜へ手を差し出した。
「ここの石段、少し欠けてて危ないから。あっちの社務所に入ろう。」
手は小さくて白かった。
近くで見ると、手の甲にごく薄いほくろがひとつあった。どうということもないのに、妙に目に残った。月夜はためらいがちに、その手を取った。
温かかった。特別でもない、ありふれたぬくもりだった。けれどその体温が触れた瞬間、月夜は息を呑んだ。長く霧の中を歩いた末に、ようやく初めて現実へ足を下ろしたような気がした。同時に、理由もなく目頭が熱くなりそうになった。見知らぬ人の手を握っただけなのに、どうしてこんなに安心するのかわからなかった。
少女の目もかすかに揺れた。けれど彼女は何も言わなかった。ただ月夜の手を離さないまま、速すぎも遅すぎもしない歩幅で歩き出した。
境内を横切って本殿の脇にある小さな社務所のような建物へ向かうあいだ、月夜は何度も周囲を見回した。手水舎、古びた狐の石像、木に結ばれた注連縄、軒下に吊るされた鈴。初めて見るはずの景色なのに、どれも不思議なほど目に馴染んでいた。
戸口の前まで来ると、少女が足を止めた。
「名前は……?」
その問いに、月夜はすぐには答えられなかった。ついさっきまでは当たり前のように受け入れていた名前が、不思議なことにこの少女の前に立つと急に慎重なものになった。
「……月夜……です。」
小さく吐き出した、その瞬間だった。
彼女の表情が崩れた。本当に一瞬だった。落ち着いていた顔の上を、驚きと戸惑い、それから言葉にできない感情が幾重にもよぎった。すぐに表情は戻ったが、もう遅かった。月夜ははっきり見ていた。その名前が、この少女にとっても何の意味もない音ではないことを。巫女は手にほんの少し力を込め、それからやがて離した。そして、まるで呼吸を立て直すように、ゆっくりと言った。
「……月夜なんだね。」
初めて聞く名前を確かめる口調ではなかった。
長いあいだ忘れられなかったものを、ようやく口に出す人の声だった。
そのとき初めて、月夜は確信した。自分はここへ偶然たどり着いたのではない。そして目の前のこの少女は、自分が思い出せない何かを確かに知っている。
その瞬間、
りん――
どこからか鈴の音が響いた。澄んでいて、冷たくて、あまりにも鮮やかな音だった。一度きりの響きだったのに、空気そのものが揺れた。夕暮れの光がほんの一瞬濃くなり、神社の境内に落ちる影が長く伸びた。月夜は本能的に音のした方を振り向いた。けれど建物も、木々も、鳥居も、そのままだった。
何もないのに、確かに何かが始まっていた。再び前を見たとき、少女はもう驚いた顔ではなかった。哀しいほど見慣れた表情で、彼女は静かに言った。
「……入ろう。日が暮れる前に。」
その言葉が何を意味するのか、月夜にはわからなかった。けれど不思議と、訊きたいとは思わなかった。日が暮れる前に。そのひと言だけが、忘れていた約束のように胸の奥へ深く沈んでいった。
その……助けてください! 一か月以内に残響軌跡を作り直して戻ってくるつもりだったのですが! 設定集を直すだけでもものすごく時間がかかってしまって、一か月どころか二か月以内に戻れるかも怪しくなってきたので、どうにか一か月以内に戻ろうとして『鐘が鳴る頃』を書いた次第なのです!
ちなみに鐘が鳴る頃は、その十五年くらい前に書いていたUSBの中に、きっちり二〇一三年五月六日付で保存されていた「☆鐘が鳴る頃初期設定版☆!!」をもとに書いているのです!




