異質
どこでスイッチが入ったのか、多分オーバンが止まらなくなったのはこの辺りからだろう。
「数の扱いは、読み書きと同じくらい重要なものです。それに、こちらと……こちらもですな」
数の扱い、簡単な事例問題に、図形の見取り。そして語彙に文の整え方の確認に、短い文書の書き取りまでと、次々と新たな課題や本を手渡され、途中に水分補給の休憩を挟んではまた解く。
二度の人生の経験が唸り、黙々と解き進めていった――結果。
「失礼いたします。恐れながら、予定の時刻を大きく回っております」
部屋の隅に控えていたリオルガが小さく咳払いをし、声をかけてきた。
本来は昼食前に終える筈だった確認兼顔合わせは、お昼を大幅に過ぎてお茶の時間に突入していたらしい。
「ほう、もうそんな時間でしたか。本日の授業はここまでにいたしましょう」
次の教材だと手にしていた本と私を見比べ、少しだけ残念そうにそう口にしたオーバンにコクリと頷き、ペンを置く。
「授業は午前九時から始まり、昼食を挟んで午後三時頃まで続きます。午前中は読み書きや歴史などの座学、午後は礼儀作法や教養、楽器、あとは乗馬や剣術といった実技が中心となります。もっとも、乗馬や剣は危険を伴いますので、実際に本格的な訓練が始まるのはもう少しお身体が成長されてからになるのでしょうが」
次期王候補として名乗りを上げるのであれば、乗馬と剣術は必須となる。
けれど、私が知っている乗馬といえば、スカートやドレス姿で片側に足を揃えて乗る淑女の横乗りを座学で習った程度のもの。そのときは王太子妃として確定していたので危険を伴う実地訓練は許されず、馬を操ったことはない。
剣術も同じく、身体に傷がつく恐れのあるものを態々教える筈もなく、短剣すら持たせてもらえなかった。
なので、こればかりは一から頑張るしかない。
「休憩も挟みますし、王女殿下は集中が途切れませんので、そうご心配されることはないでしょう」
ぎゅっと眉を寄せていたからか、私が不安に思っていると思われたのだろう。
長時間机に向かうことには慣れているし、馬術と剣術以外はそれほど心配することはない。懸念があるとすれば、家と庭だけで過ごしてきた所為で一般的な子供より劣っている私の体力面だろうか?
「頑張ります」
「ほっほっほ。それでは、こちらを」
「……わあ」
隠れてぐっと拳を握り、気を引き締めてそう告げた私に、にこやかな笑みを浮かべたオーバンが、その笑みに似つかわしくない量の教材をどさりとテーブルへ置いた。
「これらは、明日までにお持ちいただく課題となっております。下にあるものは、初代国王陛下のお名や現王家の構成、紋章、祝祭日の名など、幼い王族がまず身につけるべき基礎を覚える為のものでございます。こちらの本と紙は、短い文章を音読し、要点をまとめる為のもの。そして、この王都とその周辺領地を描いた地図は、毎日必ず目を通しておいてください」
「分かりました」
「それでは、また明日お会いいたしましょう」
課題の束はリオルガが抱え、私は「ありがとうございました」とドレスの裾を摘まんで軽く会釈する。
教育棟を出るまでは気を抜かず……と自身に言い聞かせながら部屋を出ると、扉の脇に中年ほどの男性が立っていた。
「……っ、あ」
その男性は私と目が合うと一瞬だけ目を瞬かせ、慌てて深く頭を下げてから部屋の中へ入っていってしまった。
「あの人は?」
「恐らく、オーバンの愛弟子ではないかと」
「クリスとソレイルのどちらかを担当している人だね」
この時間だと二人の授業はとっくに終わっているので、あの男性はかなり前から扉の外でずっと待っていたのだろう。
つい、時間を忘れて熱中し過ぎてしまったと反省しながら、ツンとすました顔でそのまま静々と通路を進み歩く。
顎を上げ、背を正し、優雅に……教育棟を出て、統括宮へ入った辺りでようやく肩の力を抜き、「んー」と小さく伸びをし、首と腕を回し、深く息を吐き出した。
「……疲れた」
「お疲れ様でした」
「うん。今日はこれで終わり?」
「はい。この後はお部屋に戻り、遅めの昼食となります」
「もうすぐ夕食だから、お茶とお菓子だけでいいかも」
「いいえ。成長期ですので、食事を抜いてはいけませんよ。どこぞの国王陛下のようになってしまわれますからね」
そうやんわりと叱られ、どこぞの国王の執務室がある方角を見ながらこくこくと頷く。
「明日からも同じ刻限に授業が行われます。来週には礼儀作法の授業も加わる予定です」
「確か、先代王妃様が教えてくださるんだよね」
「三日後には王宮に到着されますので、晩餐をご一緒されるのではないでしょうか」
「そう……」
(先代王妃様……ね)
リオルガの抱えている課題の束に目をやり、私はふむと小さく頷いた。
※※※
まだ幼い王女を見送ったあと、オーバンはテーブルの上に置かれた教材と用紙に目を落とし、その一番上の紙を手に取り、目を細めた。
「年齢相応どころか……むしろ」
初めて学ぶ子供に見られる筈の迷いや手探りなど一切なく、考え込むこともない。ところどころに癖はあるが、理解は早く正確だ。
「……ふむ」
初日の顔合わせでここまで進むとは思っていなかった。本来であれば、確認だけで終える予定でいたというのに――。
「失礼いたします、オーバン様」
オーバンが静かに息を吐き出し目頭を指で押さえていると、ノックもなく扉が開き、どこか慌てた様子で弟子の一人が部屋に入ってきた。
「クリス王子殿下の授業が終わりましたので、そのご報告を」
「……ああ」
「授業が長引いていたようでしたが、何かあったのですか?」
「何かか……ほれ、見てみなさい」
オーバンがテーブルの上を指差すと、弟子はテーブルへと近づき、わずかに目を見開いた。
「……これは?」
「王女殿下がこなされたものだ」
「これを、全てですか?」
「そうだ」
驚く弟子を横目に、オーバンは報告書を手に取り授業進度に目を通す。
「相も変わらず、優秀なお方だ」
どの項目も年齢を大きく上回る評価を得ているのが、第一王子であるクリスだ。座学だけでなく、礼儀作法、馬術に剣術と、いずれも指導者が口を揃えて「申し分なし」と口にする。
「性格には、ちと難はあるが……」
けれど、生真面目で善意な王は、良き人であっても、良い王であるとは限らない。
国というものは、正しさだけで成り立つほど単純ではないのだから。
「む……ソレイル王子殿下も、授業を?」
報告書を捲り、ソレイルの項目が埋まっていることに気づき、オーバンは驚き目を瞬いた。
「あ、はい。珍しく、本日は時間通りにお越しになられたそうです」
「ほう……それは、それは」
毎日のように理由をつけて授業から逃げ回り、意図してか兄であるクリスより前へ出ようとはせず手を抜いていた王子が、どういった心境の変化か。
これは面白くなってきたぞ……とオーバンが笑みを浮かべていると、王女が解いた紙を真剣に見ていた弟子が「えっ」と小さく声を上げた。
「初日……ですよね……?」
「初日だとも」
「……天才、なのでしょうか」
天才というよりは――。
「この世に天才などおらん。才能があっても、それを育てる環境がなければ、ただ少し出来が良いというだけで終わってしまう」
「ですが……」
「大したものだろう?内容理解の前提知識が、あまりにも違いすぎる。つい、時間も忘れ没頭してしまった。王女殿下は……間違いなく、それ相応の教育を施されておる。あれは、訓練されたものだ」
「ああ……!だから、国王陛下はオーバン様を王女殿下の教師に指名されたのですね」
「それはどうかのう……」
集中が途切れることなく、学ぶことに貪欲さすら見せた。王族としての教育を受けてこなかった筈の王女が、まるで何年も前から準備していたかのような――それはどこか異質ですらある。
オーバンが深く息を吐けば、弟子は何をそんなに案じているのかと尋ねてくる。
「もうすぐ、退位された先代王妃様が授業に入られる。あのお方が、優秀な王女を歓迎されるかどうか」
ハッと息を呑んだ弟子に苦笑しながら、オーバンはゆっくりとソファーへ背を預けた。
「優秀であったご息女を退け、男児だからという理由でイシュラ王を王位につかせたお方だ。もし、王子殿下方の生涯を左右しかねぬ王女が現れたと知れば、どうなるか」
きっとまた、あの方は同じことをなさるのだろう。
「……荒れるぞ」
オーバンは天井を仰ぎ、そっと肩を落とした。




