『白烏(上)』
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大学一回生の秋だった。
昼間の熱は引きはじめているのに、夜の道にはまだ夏の粘り気が残っている。歩くたび、アスファルトが昼の名残をゆっくり吐き出すみたいで、鼻の奥に薄い焦げ臭さが絡んだ。
その夜、大学からの帰り道で、俺は烏を見た。
街灯の明かりが途切れるあたり、電線に黒い影が並んでいる。数を数えようとして、やめた。
「群れ」に「見張られている」そう思うと気分が悪い。
烏は首を傾げる。片目で俺を見て、また傾げる。
観察というより、選別だ。俺が何者かを決めるみたいに、無言で品定めしている。
いつもの道なのに、今日は距離が伸びた気がした。歩幅は同じはずなのに、背中側の気配だけが増えていく。振り返りたくない。けれど振り返らないでいるぶん、肩が落ち着かない。
住宅地の裏へ抜ける細道が見えた。
車が入れない、ただの近道。昼は何でもないのに、夜になると「道」じゃなく「割れ目」みたいに見える場所だ。
入口に差しかかった瞬間――烏が、一斉に鳴きはじめた。
頭上だけじゃない。横からも、背後からも、音が重なる。
耳に刺さるというより、皮膚の内側を撫でられる感じがした。ぞわっと、背中の筋が反応する。
そこで、祖父の言葉がよみがえった。
子どもの頃、畑の端で休んでいたとき、祖父が電線の烏を見上げて笑いながら言った。
――カラスが鳴くと、人が死ぬ。
――当たることもあるし、当たらんこともある。けどな。
それから、声を落として続けた。
――白い烏には、ついていくなよ。
白い烏。
当時は笑い話だった。そんなものがいるなら、見てみたいぐらいだと思っていた。
――だから、今。
烏たちが、ばさっと飛び立った。
黒い羽が夜空に散って、電線が急に軽くなる。残ったのは、鳴き声の余韻と、空の暗さだけだ。
嫌な予感がした。胸の奥が、先に「やめろ」と言った。
俺はその予感を否定したくて、足を出そうとして――なぜか振り向いた。
白い烏がいた。
街灯の落ちる足元、縁石のあたりに、白っぽい鳥が立っている。真っ白じゃない。色が抜けたみたいな白さだ。汚れでも羽毛でも説明しきれない、妙に“浮いた”白。
その烏は俺を一度だけ見て、細道のほうへ跳ね――羽を広げて、奥へ滑り込むように飛んだ。
細道の奥から、気配が滲んできた。
霊的だ、と断言できるほど整ったものじゃない。ただ、理由のない悪寒。背中に冷たい指先を添えられたような、逃げ場のない圧だ。
足が震える。喉が乾く。唾を飲み込むだけで擦れた。
――この先に入るな。
そう分かるほど、肌がじりじり訴えている。
それでも俺は、一歩、細道に踏み込んだ。
途端に空気が変わった。街の夜じゃない。湿ったコンクリートと土の匂いが前に出て、生活の匂いが消える。
足音が壁の間で妙に響く。自分の背中を、遅れて叩いてくるみたいに。
少し進むと、白い烏がいた。
低い塀に止まり、こちらを見ている。鳥が人を見る目ではない。けれど視線が、変に“意味”を持っている。見られているだけで、体が固くなる。
白い烏が鳴いた。
烏の声じゃなかった。
喉の奥で引っかかった、人のうめき声に似ていた。言葉にならない音。苦しいのに吐き出せない音。
胃がきゅっと縮む。
白い烏は首を振るようにして、何かを吐き出して、飛び立った。
地面に落ちたそれは、最初、ただの白い棒に見えた。
次の瞬間――指だと分かった。
人の指。
吐き気が込み上げる。喉の奥が熱くなる。息が浅くなる。
目を逸らしたいのに、逸らしたら自分がそうなる気がして逸らせない。
羽音がした。
上だ、と直感が言う。
見上げると、黒い烏が並んでいた。電線だけじゃない。屋根の縁、塀の上、影の濃いところに黒が増えている。いつの間に。増えたのか、最初からいたのか、判断がつかない。
黒い烏たちが、俺を見下ろしていた。
鳴き声が降ってくる。鼓膜の外側から押される。
音が「外」じゃなく「内」に入ってくる。
俺は耳をふさいだ。
その瞬間、世界がねじれた。
足元が遠くなり、黒い羽の影だけが大きくなる。自分の呼吸が、自分のものじゃないみたいに聞こえる。
そして――目が覚めた。
*
自室の天井だった。
心臓がうるさい。寝汗で背中がべたつく。口の中が乾いて、舌が貼りつく。
夢だ。
そう分かっているのに、指の白さだけが、やけに残っていた。
窓の外で、どこかの烏が一声鳴いた。
俺はとっさに息を止めた。
*
その日は、普通に大学へ行った。
講義を受け、学食で適当なものを食べ、図書館でレポート用の本を探した。
夢のことは、意識の端に押し込んだ。押し込まないと、日常が崩れる。それが怖かった。
昼間に烏を見かけても、それはただの烏だった。
歩道の端で何かをついばみ、ゴミ袋を器用につつく。夢の白さとは結びつかない――はずなのに、首を傾げる仕草だけが、やけに引っかかった。
*
その夜、帰りが遅くなった。
レポートの提出が迫っていて、図書館の閉館ぎりぎりまで粘っていたのだ。外に出ると、空はすっかり黒い。風が少し冷たく、汗の引き際だけがやけに分かる。
何度目かの信号を渡ったあたりで、気配が変わった。
霊的なものとは違う。
もっと、にじみ出るような悪寒。理由もなく「嫌だ」と思わせる種類の気配だった。見えないのに、近いと分かる。
昨夜の夢が、勝手に蘇った。
白い烏。細道。うめき声。指。
別の道に回ればいい。大通りへ出れば明るい。人もいる。
そう考えたのに、体がそちらへ向かない。気配のある方向を、もう見てしまっている。
細道の入口が見えた。
そして――黒い烏の群れがいた。
電線だけじゃない。看板の上、街灯の支柱、屋根の縁。黒い点が、妙に整って並んでいる。整列というより、待ち構えている。
烏たちが鳴いた。
夢の音が、現実の音に上書きされた。
耳の奥が冷える。喉が乾く。足が止まる――はずなのに、足先だけが勝手に前へ出る。
黒い影が、ばさっと散った。
羽が夜気を切って、視界が一瞬だけ開ける。
そこに、白いものがいた。
街灯の光の端、地面の明るい場所に、白っぽい烏が立っている。昨夜の夢と被る。視線が、勝手に吸い寄せられる。
白い烏は、俺を見た。
ただ見た。それだけなのに、心臓が一段強く打つ。
そして、細道の奥へ飛んでいった。俺を誘うように。
俺は――追った。
分かっている。夢の中と同じだ。
それでも追った。追わずに帰ったら、夢が夢のまま終わらない気がした。確認しないと、終わったことにならない――この一日が無限に繰り返される、そんな気さえする。
細道に入ると、音が変わる。
足音が壁で跳ねて、自分の背中を叩く。匂いも変だ。湿ったものが混じる。昨夜の夢で嗅いだ匂いと、嫌なほど似ている。
少し先で、白い烏が止まっていた。
今度は低いブロック塀の上。逃げない。むしろ“待っている”みたいに見える。
白い烏が鳴く。
喉を絞ったような声だった。烏の声の形をしているのに、喉の奥、人が唸っている。
その音を聞いた瞬間、背筋がぞわっと立った。
白い烏が吐き出して、飛び立つ。
落ちたものが地面で転がる。街灯の光を受けて、白く光る。
指だった。
夢の中で見たものが、現実に落ちている。
胃が反転しそうになる。こみ上げたものを歯で噛み殺して、喉の奥で止めた。吐いたら、自分の口から「指」が出てくるような気がした。
周囲が鳴きはじめた。
黒い烏が、取り囲むように増えていた。上だけじゃない。塀の上、電柱の根元、道路の端。黒い点が、じわじわ距離を詰める。
鳴き声が、笑いに聞こえた。
馬鹿にしているのか、追い立てているのか、分からない。分からないのに、悪意だけは伝わってくる。
足が動かない。
踏み出そうとしても膝が固まる。恐怖だけでもない。音が体の芯を縫い止めていくみたいに、筋肉が言うことをきかない。
黒い影が、近づいてくる。
跳ねるでもなく、走るでもなく、捕食者と被捕食者の距離が縮む。
――捕まる。
そう思った瞬間、腕を強く引かれた。
視界が揺れ、足がもつれて、俺は尻もちをついた。アスファルトが痛い。骨に響く。
息を吸うと、焦げたような匂いと生臭い匂いが混ざって鼻を刺した。
見上げると、女性がいた。
背が高い。姿勢がまっすぐで、立っているだけで線が強い。短い黒髪が頬にかかり、街灯の光を鈍く跳ね返す。黒い革のジャケット。ジーパンに白いランニングシューズ。
目つきが鋭いのに、どこか余裕がある。怖いというより、どんな恐怖も受け付けない強さがある。
「こっちだ!」
短い声だった。命令に近い。
俺は考える前に立ち上がらされる。腕を掴まれ、引かれ、足が勝手に動く。細道の出口へ向かって走る。背後で羽音と鳴き声が跳ねた。
明るい通りへ出た瞬間、世界が戻った。
車の走行音、遠くの人の声、信号機の電子音。現実の雑音が、皮膚に貼りつく。
俺は息を吐いて、ようやく言葉を探した。
「……あ、ありがとうございました……!」
女性は立ち止まらない。振り返りもしないまま、一言だけ投げてきた。
「白いカラスは追うな!」
それだけ言い残して、夜の人波に紛れるように去っていった。
名前も、所属も、何も分からない。ただ、黒い背中だけが遠ざかる。いつかの背中が重なった。
俺はその場に立ち尽くした。
掌が震えている。指先が冷たい。さっき見たものが現実だったのか、頭が追いついていない。
細道の入口を見た。
そこにはもう烏はいなかった。鳴き声もない。ただ暗い隙間があるだけだ。
でも、俺の耳の奥にはまだ鳴き声が残っていた。




