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帰送シリーズ  作者: 流浪
9/15

『白烏(上)』

)』

 大学一回生の秋だった。

 昼間の熱は引きはじめているのに、夜の道にはまだ夏の粘り気が残っている。歩くたび、アスファルトが昼の名残をゆっくり吐き出すみたいで、鼻の奥に薄い焦げ臭さが絡んだ。

 その夜、大学からの帰り道で、俺は烏を見た。

 街灯の明かりが途切れるあたり、電線に黒い影が並んでいる。数を数えようとして、やめた。

 「群れ」に「見張られている」そう思うと気分が悪い。

 烏は首を傾げる。片目で俺を見て、また傾げる。

 観察というより、選別だ。俺が何者かを決めるみたいに、無言で品定めしている。

 いつもの道なのに、今日は距離が伸びた気がした。歩幅は同じはずなのに、背中側の気配だけが増えていく。振り返りたくない。けれど振り返らないでいるぶん、肩が落ち着かない。

 住宅地の裏へ抜ける細道が見えた。

 車が入れない、ただの近道。昼は何でもないのに、夜になると「道」じゃなく「割れ目」みたいに見える場所だ。

 入口に差しかかった瞬間――烏が、一斉に鳴きはじめた。

 頭上だけじゃない。横からも、背後からも、音が重なる。

 耳に刺さるというより、皮膚の内側を撫でられる感じがした。ぞわっと、背中の筋が反応する。

 そこで、祖父の言葉がよみがえった。

 子どもの頃、畑の端で休んでいたとき、祖父が電線の烏を見上げて笑いながら言った。

 ――カラスが鳴くと、人が死ぬ。

 ――当たることもあるし、当たらんこともある。けどな。

 それから、声を落として続けた。

 ――白い烏には、ついていくなよ。

 白い烏。

 当時は笑い話だった。そんなものがいるなら、見てみたいぐらいだと思っていた。

 ――だから、今。

 烏たちが、ばさっと飛び立った。

 黒い羽が夜空に散って、電線が急に軽くなる。残ったのは、鳴き声の余韻と、空の暗さだけだ。

 嫌な予感がした。胸の奥が、先に「やめろ」と言った。

 俺はその予感を否定したくて、足を出そうとして――なぜか振り向いた。

 白い烏がいた。

 街灯の落ちる足元、縁石のあたりに、白っぽい鳥が立っている。真っ白じゃない。色が抜けたみたいな白さだ。汚れでも羽毛でも説明しきれない、妙に“浮いた”白。

 その烏は俺を一度だけ見て、細道のほうへ跳ね――羽を広げて、奥へ滑り込むように飛んだ。

 細道の奥から、気配が滲んできた。

 霊的だ、と断言できるほど整ったものじゃない。ただ、理由のない悪寒。背中に冷たい指先を添えられたような、逃げ場のない圧だ。

 足が震える。喉が乾く。唾を飲み込むだけで擦れた。

 ――この先に入るな。

 そう分かるほど、肌がじりじり訴えている。

 それでも俺は、一歩、細道に踏み込んだ。

 途端に空気が変わった。街の夜じゃない。湿ったコンクリートと土の匂いが前に出て、生活の匂いが消える。

 足音が壁の間で妙に響く。自分の背中を、遅れて叩いてくるみたいに。

 少し進むと、白い烏がいた。

 低い塀に止まり、こちらを見ている。鳥が人を見る目ではない。けれど視線が、変に“意味”を持っている。見られているだけで、体が固くなる。

 白い烏が鳴いた。

 烏の声じゃなかった。

 喉の奥で引っかかった、人のうめき声に似ていた。言葉にならない音。苦しいのに吐き出せない音。

 胃がきゅっと縮む。

 白い烏は首を振るようにして、何かを吐き出して、飛び立った。

 地面に落ちたそれは、最初、ただの白い棒に見えた。

 次の瞬間――指だと分かった。

 人の指。

 吐き気が込み上げる。喉の奥が熱くなる。息が浅くなる。

 目を逸らしたいのに、逸らしたら自分がそうなる気がして逸らせない。

 羽音がした。

 上だ、と直感が言う。

 見上げると、黒い烏が並んでいた。電線だけじゃない。屋根の縁、塀の上、影の濃いところに黒が増えている。いつの間に。増えたのか、最初からいたのか、判断がつかない。

 黒い烏たちが、俺を見下ろしていた。

 鳴き声が降ってくる。鼓膜の外側から押される。

 音が「外」じゃなく「内」に入ってくる。

 俺は耳をふさいだ。

 その瞬間、世界がねじれた。

 足元が遠くなり、黒い羽の影だけが大きくなる。自分の呼吸が、自分のものじゃないみたいに聞こえる。

 そして――目が覚めた。

 自室の天井だった。

 心臓がうるさい。寝汗で背中がべたつく。口の中が乾いて、舌が貼りつく。

 夢だ。

 そう分かっているのに、指の白さだけが、やけに残っていた。

 窓の外で、どこかの烏が一声鳴いた。

 俺はとっさに息を止めた。

 その日は、普通に大学へ行った。

 講義を受け、学食で適当なものを食べ、図書館でレポート用の本を探した。

 夢のことは、意識の端に押し込んだ。押し込まないと、日常が崩れる。それが怖かった。

 昼間に烏を見かけても、それはただの烏だった。

 歩道の端で何かをついばみ、ゴミ袋を器用につつく。夢の白さとは結びつかない――はずなのに、首を傾げる仕草だけが、やけに引っかかった。

 その夜、帰りが遅くなった。

 レポートの提出が迫っていて、図書館の閉館ぎりぎりまで粘っていたのだ。外に出ると、空はすっかり黒い。風が少し冷たく、汗の引き際だけがやけに分かる。

 何度目かの信号を渡ったあたりで、気配が変わった。

 霊的なものとは違う。

 もっと、にじみ出るような悪寒。理由もなく「嫌だ」と思わせる種類の気配だった。見えないのに、近いと分かる。

 昨夜の夢が、勝手に蘇った。

 白い烏。細道。うめき声。指。

 別の道に回ればいい。大通りへ出れば明るい。人もいる。

 そう考えたのに、体がそちらへ向かない。気配のある方向を、もう見てしまっている。

 細道の入口が見えた。

 そして――黒い烏の群れがいた。

 電線だけじゃない。看板の上、街灯の支柱、屋根の縁。黒い点が、妙に整って並んでいる。整列というより、待ち構えている。

 烏たちが鳴いた。

 夢の音が、現実の音に上書きされた。

 耳の奥が冷える。喉が乾く。足が止まる――はずなのに、足先だけが勝手に前へ出る。

 黒い影が、ばさっと散った。

 羽が夜気を切って、視界が一瞬だけ開ける。

 そこに、白いものがいた。

 街灯の光の端、地面の明るい場所に、白っぽい烏が立っている。昨夜の夢と被る。視線が、勝手に吸い寄せられる。

 白い烏は、俺を見た。

 ただ見た。それだけなのに、心臓が一段強く打つ。

 そして、細道の奥へ飛んでいった。俺を誘うように。

 俺は――追った。

 分かっている。夢の中と同じだ。

 それでも追った。追わずに帰ったら、夢が夢のまま終わらない気がした。確認しないと、終わったことにならない――この一日が無限に繰り返される、そんな気さえする。


 細道に入ると、音が変わる。

 足音が壁で跳ねて、自分の背中を叩く。匂いも変だ。湿ったものが混じる。昨夜の夢で嗅いだ匂いと、嫌なほど似ている。

 少し先で、白い烏が止まっていた。

 今度は低いブロック塀の上。逃げない。むしろ“待っている”みたいに見える。

 白い烏が鳴く。

 喉を絞ったような声だった。烏の声の形をしているのに、喉の奥、人が唸っている。

 その音を聞いた瞬間、背筋がぞわっと立った。

 白い烏が吐き出して、飛び立つ。

 落ちたものが地面で転がる。街灯の光を受けて、白く光る。

 指だった。

 夢の中で見たものが、現実に落ちている。

 胃が反転しそうになる。こみ上げたものを歯で噛み殺して、喉の奥で止めた。吐いたら、自分の口から「指」が出てくるような気がした。

 周囲が鳴きはじめた。

 黒い烏が、取り囲むように増えていた。上だけじゃない。塀の上、電柱の根元、道路の端。黒い点が、じわじわ距離を詰める。

 鳴き声が、笑いに聞こえた。

 馬鹿にしているのか、追い立てているのか、分からない。分からないのに、悪意だけは伝わってくる。

 足が動かない。

 踏み出そうとしても膝が固まる。恐怖だけでもない。音が体の芯を縫い止めていくみたいに、筋肉が言うことをきかない。

 黒い影が、近づいてくる。

 跳ねるでもなく、走るでもなく、捕食者と被捕食者の距離が縮む。

 ――捕まる。

 そう思った瞬間、腕を強く引かれた。

 視界が揺れ、足がもつれて、俺は尻もちをついた。アスファルトが痛い。骨に響く。

 息を吸うと、焦げたような匂いと生臭い匂いが混ざって鼻を刺した。

 見上げると、女性がいた。

 背が高い。姿勢がまっすぐで、立っているだけで線が強い。短い黒髪が頬にかかり、街灯の光を鈍く跳ね返す。黒い革のジャケット。ジーパンに白いランニングシューズ。

 目つきが鋭いのに、どこか余裕がある。怖いというより、どんな恐怖も受け付けない強さがある。

 「こっちだ!」

 短い声だった。命令に近い。

 俺は考える前に立ち上がらされる。腕を掴まれ、引かれ、足が勝手に動く。細道の出口へ向かって走る。背後で羽音と鳴き声が跳ねた。

 明るい通りへ出た瞬間、世界が戻った。

 車の走行音、遠くの人の声、信号機の電子音。現実の雑音が、皮膚に貼りつく。

 俺は息を吐いて、ようやく言葉を探した。

 「……あ、ありがとうございました……!」

 女性は立ち止まらない。振り返りもしないまま、一言だけ投げてきた。

 「白いカラスは追うな!」

それだけ言い残して、夜の人波に紛れるように去っていった。

 名前も、所属も、何も分からない。ただ、黒い背中だけが遠ざかる。いつかの背中が重なった。

 俺はその場に立ち尽くした。

 掌が震えている。指先が冷たい。さっき見たものが現実だったのか、頭が追いついていない。

 細道の入口を見た。

 そこにはもう烏はいなかった。鳴き声もない。ただ暗い隙間があるだけだ。

 でも、俺の耳の奥にはまだ鳴き声が残っていた。


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