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帰送シリーズ  作者: 流浪
6/15

『師事(中)』

 祠の前で手を合わせてから、俺は振り返って歩き出した。

 掌を合わせたところで、何かが変わるわけじゃない。祈ったからといって、会いたい人が現れるわけでもない。それでも、ああいう小さな場所に立つと、呼吸が整う。

 「もう少しだけ、もう少しだけ」

 そう自分に言い聞かせて、足を動かす。けれど心のどこかで、見つからないんじゃないかと思っている。見つからないなら、今日の俺はただ、変な熱に浮かされて町をうろついただけになる。

 そもそも、会って何を言うつもりなんだ。

 助けられた。礼を言いそびれた。それだけだ。たった一度話しただけで、なぜ俺はここまで必死になるのか。自分を俯瞰すると、みっともなさが喉の奥に残った。

 「……もう、いいか」

 吐いた息が、喉の内側で白くほどける。

 横断歩道の白線が濡れて鈍く光り、車のヘッドライトがそれを一瞬だけ平たい銀に変える。立ち止まっている人の背中、買い物袋のビニール、酔いの笑い声――どれも現実のはずなのに、今の俺だけが少し浮いている。

 青信号になって、人の流れがほどけた。

 俺もその波に混じって歩き出して、ふと、ショーウィンドウのガラスに映った“白”に目が止まった。

 白いマフラー。

 すかさず顔を上げると、いた。

 車道の向こう、薬局の看板の下。茶色のコートの襟元を閉じて、白いマフラーを巻いている。人混みの中にいるのに、その周りだけ音の芯が細い。輪郭がくっきりしているくせに、どこか遠い。

 ――白い天使。

 「……いた」

 言ってから、ようやく自分の声が震えているのに気づいた。

 次の瞬間には、俺は歩き出していた。追いかけてしまった、というほうが正しい。

 角を曲がる。

 信号。

 また角。

 距離が詰まらない。

 走っているわけじゃない。向こうも急いでいるようには見えない。なのに、間に挟まるものがやたら多い。自転車が斜めに切り込んでくる。店から出てきた二人連れがちょうど俺の前で足を揃える。信号が点滅して、俺は一瞬だけ躊躇し――その一瞬で、白いマフラーは向こう岸に渡ってしまう。

 視界から外れた、と思って、すぐに追う。

 焦って角を曲がる。息が熱い。頬の表面だけが冷える。夜の匂いが肺の奥にまっすぐ入って、変に目が冴えた。

 白いマフラーが、雑踏の端へ滑っていく。

 近づくどころか、むしろ遠ざかっていくような錯覚に襲われた。俺が足を速めるたび、後ろめたさだけが追いついてくる。礼を言いたいだけだ、と自分に言い訳するほど、その言い訳の縫い目がほどけていく。

 先輩が、細い路地の角を曲がった。

 俺も、同じ角を曲がる。

 ――いない。

 街灯の光が届きにくい路地の壁が、ただ灰色に立っている。奥のほうで、車の走行音だけが一定のリズムを刻んでいる。白いマフラーの端も、茶色いコートの背中も、どこにもない。

 見失った。

 そう思った瞬間だった。

 背後で、声がした。

 「わぁ!」

 間近だった。

 肩が跳ねて、喉がひゅっと鳴る。振り向くと、白百合先輩が立っていた。

 「……っ、先輩……!」

 いつの間に回り込んだのか、コートの裾も乱れていない。表情は相変わらず薄いのに、口元だけがほんの少しだけ――悪戯の“形”に見えた。

 「……びっくりした? 」

 俺は情けないくらい素直にうなずいた。

 先輩はその反応を観察するみたいに一拍置いて、平坦な声で言った。

 「で、何してるの。……ストーカー君? 」

 冗談なのかどうか判断できない言い方だった。からかいの温度がないのに、言葉だけが軽い。だからこそ、刺さる。

 「ち、違います。そうじゃなくて……」

 自分でも苦しい否定だと思った。

 先輩は追及しない。ただ、次の言葉を待っている。沈黙が、俺の舌を固くする。

 追いかけた理由を言葉にできない。

 「会いたかった」なんて距離じゃない。

 「ありがとうが言いたかった」も、今さら過ぎる。

 頭の中で言い訳が渋滞して、どれも出口に辿りつかない。

 先輩が、ほんの少し首を傾ける。白いマフラーが、その動きに遅れて揺れた。

 「じゃあ、理由は? 」

 詰んだ。

 その瞬間、俺の口が勝手に動いた。

 「……相談、したいことがあって」

 言ってしまった。

 言った瞬間、胃のあたりが重くなる。俺は自分で自分を殴りたくなった。相談なんてない。あるのは、会えないことへの落ち着かなさと、視界の端に残る違和感と、勝手に膨らんだ興味だけだ。

 「相談」

 先輩の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 興味を持ったというより、焦点を合わせた――そんな感じだった。

 俺は焦って続けた。

 言いながら、自分の声がどこか他人みたいに聞こえた。しゃべっているのは自分なのに、どこか実感がない。

 「……一週間くらい前に、変な噂を聞いたんです。夜中に、黒い手が現れるって。握手を求めてくるって……。それを握ったら、連れていかれるって」

 言ったそばから、話が勝手に“形”になっていく。

 俺は頷いてしまう。自分が作った話に、自分が同意している。

 「黒い手……握手」

 先輩は、その言葉を反芻した。噛んで、飲み込むみたいに。

 俺は引き返せなくなって、さらに続ける。噓に噓を重ねて、筋道を作る。

 「それで……昨日、変なことがあって」

 その言葉のあと、視界の端が一瞬だけ濃くなった気がした。

 黒い染みみたいなものが、路地の奥に吸い込まれる――そんな錯覚。俺は反射で目で追う。

 ……何もない。

 看板の光と壁の影が、角度で切り替わっただけ。そう思おうとして、思い切れない。それが表情に出ていたらしい。

 先輩が、俺の横――俺が見た方向を一度だけ見てから言った。

 「場所を変えよう。ここじゃ、落ち着かない……」

 断定だった。提案というより、決定に近い。

 俺はうなずくしかなかった。

 歩きながら、胃の重さが増す。

 噓をついた罪悪感。いまさら引けない焦り。ばれないように話を“もっともらしく”整えなきゃいけないという、変な使命感。頭の中で言葉が勝手に組み上がっていく。その作業が、だんだん気持ち悪くなってきた。

 先輩が立ち止まったのは、アーケードから一本外れた場所にある店だった。

 木の扉。磨かれた取っ手。ガラスの向こうに落ち着いた橙色の灯り。看板には控えめに文字が入っている。

 喫茶カントリー。

 扉を開けると、小さな鈴が鳴った。

 温い空気が頬に当たる。深煎りのコーヒーの匂いと、焼き菓子の甘い匂い。木のカウンターは艶を持っていて、椅子の革が柔らかく沈む。古さはあるのに、埃っぽさがない。手入れの行き届いた“昔ながら”だった。

 俺は、ようやく息をつける場所に辿りついた気がした。

 「……いい店ですね」

 白百合先輩は淡々と答えた。

 「いいところでしょ、昔なじみのお店でね。私のお気に入り。」

 それだけ。

 それ以上は語らない。その距離感が、逆に落ち着ちつけなくした。

 注文を済ませ、向かい合う。

 カップの縁から立つ湯気が、先輩の顔の下半分をわずかに揺らす。白いマフラーの繊維が照明を受けて、微かに光った。

 先輩が言った。

 「それで、噂と昨日のこと。もう少し詳しく聞こうか」

 逃げられない。

 俺はカップの縁を指でなぞって、時間を稼いだ。陶器が温かい。その温度だけが、俺を現実に繋ぎ止める。

 「噂を聞いたのは、一週間くらい前です。学食で、隣のテーブルの先輩たちが話してて……」

 言い出した瞬間、また自分の声が遠くなる。

 俺は噓をついているはずなのに、話している自分が、ひとつ隣の席に座っているみたいだった。俺の口が、勝手に喋っている。

 「内容は……夜中に一人でいるとき、黒いものが出たら追いかけちゃいけないって。追った先で、“手”が出る。もし出会っても、絶対に握手しちゃいけない。……連れていかれる、って」

 言いながら、俺は自分で自分を補強していく。

 補強のたびに、噓は“弱く”なる。現実との境目が薄くなる。

 「それで、昨日……レポートをやってて。気づいたら、夜中の一時を回ってたんです」

 先輩は瞬きが少ない。

 俺の言葉をひとつも逃がさない目だった。

 「昼に起きてから、まともに食べてなくて……冷蔵庫も空で。だからコンビニに行ったんです。夜中でも開いてるの、いまだに慣れなくて」

 白い蛍光灯の感触が、頭の中で勝手に立ち上がる。冷蔵ケースの低い唸り。床のワックス臭。どれも“どこにでもある”からこそ、本当にあったことみたいに感じてしまう。

 「帰り道で、細い小道が目に入って……そこに、小さな祠があったんです」

 ここで、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。

 ――さっき手を合わせた祠が、脳裏に浮かぶ。湿った土の匂い。固く踏まれた地面。あの“息が整う感じ”。あそこにも細道があっただろうか。覚えてなどいなかった。

 「……なんとなく、手を合わせて。で、戻ろうとしたときに、視界の端に黒いのが見えて……小道の奥の暗がりに、すっと消えたんです。嫌だなって思いながら、追って……」

 俺は言葉を選びながら、わざと途切れさせる。

 黙説法のつもりだった。――そんな小細工まで、自然に出てくるのが気持ち悪い。

 「途中で変な感覚がして、足元を見たら……靴ひもがほどけてたんです。結び直して、顔を上げたら……」

 カップの向こうで、白百合先輩の視線が一点に固定される。

 その目の“定まり”だけで、背中が薄く粟立った。

 「……黒い靄みたいなのが、あって。形が……手、みたいで」

 俺は無意識に自分の左手を握りしめていた。

 握る動作が、いま言っている話を現実に引き寄せるみたいで、気分が悪い。

 「握手、求めてるみたいに見えたんです。俺、怖くなって……逃げました」

 そこで、思い出したことを付け足した。

 噓を“古く”するために。

 「それで……昔、祖父にも言われてたんです。

 『夜に道で、知らん手が出てきても、握ったらあかんぞ。握手は人間の約束や。向こうと約束したら、連れていかれる』って」

 言い終えた瞬間、胸の奥がひやりとした。

 俺は、つらつらと噓を並べる自分が怖くなった。

 先輩がカップを置いた。

 陶器が木のテーブルに触れる音が、乾いている。

 「その手はどちらの手だった? 」

 唐突だった。

 質問の切っ先が鋭い。

 俺は、とっさにで答えてしまった。

 「左手です」

 言った直後、自分でも驚いた。

 右か左かなんて考えていなかった。決めていなかった。なのに、言葉だけが先に出た。口から言葉が這い出てくるみたいに。

 先輩の目が、わずかに変わった。

 表情は動かない。けれど視線だけが濃くなる。ピントが合う。

 「……左」

 先輩は一拍置いてから、順序立てるように話し始めた。

 知らない相手に“常識”から説明するみたいに。

 「握手は、本来ただの挨拶じゃない。取引や約束の確認の仕草。手を見せ合うことで、相手に敵意がないことを示す」

 先輩は右手を軽く持ち上げ、掌をこちらに向けた。

 何も持っていない掌。なのに、その動きが妙に儀式じみて見える。

 「昔は、右手で武器を持つことが多かった。右利きが多いから。だから右手を差し出すのは、『武器を持っていない』って示す行為になる。――安全のサイン」

 指先がゆっくり畳まれる。

 手が“契約”の形を作っていくみたいで、背中の皮膚がむずむずした。

 「逆に、左手で差し出される握手は、意味が変わる。右手を隠したまま左で握る。そうすると右手は空く。まだ何かを持てる。刃物でも、石でも、何でも」

 言葉が、ひとつずつ釘みたいに刺さっていく。

 俺の頭の中で、黒い靄が“左手”の形に固定されはじめる。噓のはずの光景が、記憶の棚に勝手に収まっていく。――嘘が嘘でいられなくなる。

 「それと、文化的に左手は“不浄”とされる地域が多い。昔から、汚れを落とす側の手。食事や挨拶に使わない。だから左手を出すだけで、相手を侮辱する意味になることもある」

 生理的に嫌だった。

 左手、汚れ、侮辱、隠し武器。言葉が皮膚に貼りつく。自分の左手が急に“別のもの”みたいに感じて、指先が落ち着かない。

 「要するに左手の握手は、“友好”の形を借りた別の意思になる。表向きは手を結ぶけど、裏では結ばない。『右手で握手して左で殴る』って言い回しがあるのも、その感覚」

 先輩はそこで、視線を少しだけ落とした。

 俺の手元――俺が無意識に握りしめている指を見るみたいに。

 「それが、“向こう”の手だったら。なおさら良くない」

 喉の奥が乾いた。

 俺が作った話なのに、白百合先輩が言葉に順序を与えた瞬間、背骨の中で「そういうものだった」と決まってしまう。嘘が、嘘のまま戻れなくなる。

 「……でも、俺、握ってないです」

 出た声が頼りなかった。

 自分で自分を説得しているみたいだった。

 先輩は、初めて俺の顔を正面から見た。

 視線が止まる。逃げ道が消える。

 「握らなかった。それは正しい」

 肯定のはずなのに、胸が軽くならない。

 先輩の言葉には、次がある予感がした。

 「でもね。君はもう、“握手の怪談”をとらえてしまった」

 言われて、背中が冷えた。

 俺はカップを持ち上げようとして、手が震えているのに気づいた。熱いはずの陶器が、妙に遠い。

 先輩は淡々と続ける。

 「噂や怪談って、形になった瞬間から人を縛る。言葉にして、筋道をつけて、意味を与えると……それは現実の側に寄ってくる」

 俺は笑えなかった。

 さっきまで“整えなきゃ”と思っていた自分の頭が、いまはただ怖い。俺がいまやっているのは、噓を固めることじゃない。――怪談を“呼ぶ”ことだ。

 先輩がカップの底をテーブルに置いた。

 「その祠。場所、覚えてる? 」

 来た。

 来てしまった。噓の続きが、現実の足場を求めている。

 俺は喉を鳴らして、頷くしかなかった。

 「……はい」

 輩は立ち上がる。椅子が小さく鳴った。

 無表情のまま、当然みたいに言う。

 「行こう。確かめるなら今しかない」

 俺も席を立つ。足がわずかに遅れる。

 店のドアベルが鳴って、夜の冷気が頬を撫でた。さっきより暗い。街灯の光が、路面の細かい凹凸を浮かせている。

 噓をついたはずなのに、戻れない。

 先輩の背中だけが、迷いなく先へ行く。

【『師事(下)』へ続く】


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