『カメラ』
大学二回生の秋だったと思う。
その日は学内のイベントの手伝いで、帰りが遅くなった。夜の大学は昼より広く感じる。建物の形は同じなのに、音が薄い。蛍光灯が白くて、影が濃い。
同じ係のやつが、「外、月きれいだし、記念に撮ろうぜ」と言って、コンビニで買ってきた使い捨てカメラを取り出した。
昔から写真に撮られるのが好きじゃなかった俺は、「俺、撮りますよ」と言ってカメラを受け取った。プラスチックのボディは軽くて、妙に頼りない。ファインダーの透明な窓には、指の脂がうっすら曇ってついていた。
ボディの背に、小さな窓があった。オレンジ色の数字が点いている。日付だ。
誰かが覗き込んで言った。
「うわ、日付入るやつじゃん。まあ、いいか。変な年号入ってても笑えるし」
笑える、という言い方が軽くて、俺は適当に相槌を打った。こういう機械は、撮る瞬間よりも、あとで紙になってからのほうが実感がわく。
俺は別に、写真そのものが嫌いだったわけじゃない。
ただ、幼いころから祖父に「写真に写ると魂が抜けていく」と口うるさく聞かされてきたせいで、写る側に回るのは気分のいいものじゃなかった。
祖父は、アルバムをやけに大事に扱うくせに、あるページだけは必ず紙を一枚挟んで隠していた。子どもの俺がこっそりめくったことがある。そこには親戚の集合写真が貼ってあって、中央の一人だけ、顔が白く飛んでいた。フラッシュの失敗だと思ったが、祖父は違うと言った。
「顔が抜ける写真がある。そういうのは見てはいけない」
その声が妙に生々しくて、俺はアルバムを閉じて謝った。祖父は怒りもしない代わりに、そのページの上から指で、何度も同じ場所を押さえた。まるで、紙の向こうにいるものが出てこないように。
外に出ると、心地いい夜風が吹いていて、秋の匂いが鼻先をくすぐった。どこか遠くで虫が鳴いている。鈴虫だと思う。音がやけに鮮明で、余計に夜を意識させる。
みんなが揃うと俺はカメラを構えた。
ファインダーを覗く。四角い枠の中に笑っている顔が並ぶ。背景には夜空が広がり、月が白く浮いていた。誰かが「はいチーズ」と言って――俺はシャッターを切った。
カチ。
機械らしい乾いた音がした。
フラッシュが光る。目の奥がちくりとする。続けて、コンデンサが充電する特有の高い音が耳の裏に残った。
俺はそのたび瞬きをした。光ってからじゃ遅いのに、体が勝手に反応する。
「もう何枚か撮りますね」
手を軽く上げて合図して、俺は何枚か続けて撮った。各々がポーズを決めた写真、教員も交えた写真。最後に「月だけも撮っとけ」と言われて、俺は空へ向けた。
月だけ。
ファインダーの中はほとんど暗くて、白い月の輪郭だけが頼りだった。飲み込まれてしまいそうなほどに美しい。
俺は腕を少し伸ばして、月の中心を探した。
夜空の闇に月だけを切り取るように、シャッターを切った。
カチ。
その日はそれで解散した。
*
後日、現像を任された俺が向かったのは駅前のDPEだった。店の奥から薬品の匂いが流れてくる。甘くも苦くもないのに、鼻の奥に薄く張りついて、しばらく取れない匂いだ。
「一時間ほどで」
店員は淡々と言って、控えの紙を渡してきた。
待っている間、俺は近くの本屋をうろついた。雑誌の紙の匂いと、インクの匂い。時代の匂いはいつも紙で、そういう匂いが俺は好きだった。
受け取った封筒は温かかった。プリントしたての紙の熱が残っている。封筒の端が少し湿っていて、指に貼りつく。
その場で開ける気になれなくて、俺は下宿に戻った。机の上に封筒を置き、部屋の灯りをつけてから、ゆっくり口を開ける。
一枚、二枚、三枚――写真をめくる。
どれも、みんなの笑顔ときれいな月がよく写っていた。何枚か目をつぶっているやつがいた。フラッシュで顔だけ白く飛んだりもしてた。でも、それが写真の楽しさのような気がする。そういう不完全なものほど、記憶に残ったりする。
だからこそ、最後の一枚で手が止まった。
月だけを写した写真だった。
はずなのに、写真の右下に、手が写っていた。
誰かの手。
画面の下端から、半分だけせり上がっている。掌がこちらに向いていて、指が不自然に反っている。肘も前腕も写っていないのに、手首だけが捻じ切れているみたいに写り込んでいた。
手の表面だけが妙に白い。血が引いた白さじゃなく、粉を吹いたみたいな乾いた白さだ。爪の先が、薄い紙みたいに反って見える。
俺は写真を持つ指に力が入っているのがわかった。紙が、きし、と鳴る。
プリントの匂いの奥に、湿った布みたいな匂いが混じった気がした。水でも汗でもない。もっと薄くて、もっと嫌な匂い。喉の奥がひりつく。
――これ、俺の手か?
違う。撮影者自身の手が、こんなふうに写るはずがない。誰かが月の下にいたとか? それもない。ファインダーの中に人がいれば、撮ったときに気づく。息が当たる。気配が濃くなる。
そう思った瞬間、あの夜の記憶がふっと抜けた。
月だけを撮った、その一瞬。俺がどこに立って、誰がどこにいて、何を言ったのか。思い出そうとすると靄みたいに薄れていく。代わりに、じりじりと嫌な感覚だけが這い上がってくる。
怖くなった。
俺は椅子から立ち上がって、机の上に写真を置いた。置いたのに目が離せない。目を離すと、写真の中の手が違う形に変わる気がした。
落ち着け。きっと偶然だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はパソコンを立ち上げた。起動音が部屋に響くだけで、心臓が一段跳ねる。キーボードを叩く指が乾いて、キーの感触がやけに硬い。画面の白が眩しくて、目が痛い。
検索する。読み込みを待つ。待つ間に、さっきの写真が視界の端に入る。視界に入るだけで、喉の奥がひりつく。
心臓が急かされる。焦っている自分が分かる。焦るほど、指先が冷える。呼吸が浅くなる。画面の文字が滑って見える。
いくつか記事を漁っているうちに、それらしい言葉に行き当たった。
パララックス現象。視差。
ファインダーを覗くタイプのカメラは、覗き穴とレンズの位置が微妙にずれている。見えていた範囲と実際に写る範囲が、ほんの少し食い違うことがある。近いものほどズレが大きくなる。使い捨てカメラでも起きる。
「……フッ」
声が漏れた。力が抜けて、俺は布団に倒れ込んだ。
そうか。そういうことか。単なる機械の性質だ。俺が見ていた枠と、カメラが切り取った枠が違っただけだ。
大げさに考えた自分がばかばかしくなった。
大方、撮影のときに誰かの手がレンズの下に入っただけだろう。俺がファインダーを覗いている以上、死角はある。
手の白さも、指の角度も、フラッシュとブレと、たまたまの影で説明がつく――つくはずだ。
俺は布団の上で仰向けになり、写真を電球の光に透かした。紙の白が妙に眩しい。
自嘲気味に笑って――笑いかけて、やめた。
写真の中の手は、光の中でも白かった。粉っぽい白さが、紙の白と別の層で浮いている。
息が詰まりそうで、俺は写真を伏せた。
*
次の日、大学の外れにいた師匠にこの出来事を話した。師匠というのはカメラの師匠じゃない。オカルト道の師匠だ。
「最近は特に、オカルトに触れることが増えてる。過敏になるのも仕方ないよ」
優しく言う師匠に、俺は例の写真を取り出して見せた。
師匠は写真を受け取ると、光に傾けて下端の手を眺めた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。かすかに笑っているようにも見えた。
「……面白いね」
「面白い? 」
「理屈が絡む怪異は、嫌いじゃない」
その言葉が、不意に背中を冷たくした。
怪異。
その単語が、この場の空気を一段だけ薄くする。冗談にできない領域へ、すっと線が引かれる。
師匠はノートを開いて、さらさらと線を引いた。四角を描いて、小さな丸を二つ。
「覗き穴がここ。レンズがここ」
淡々と言う。
「位置のズレで、見えてるものが違う。これがパララックス――視差」
その説明に、俺はうなずいた。
理屈があると、少しだけ安心できる。自分の恐怖が、ちゃんと原理に置き換えられる気がする。
師匠は続けた。
「このズレは、被写体が近いほど大きくなる。遠いほど小さくなる」
写真の端を、指で示す。
「月は遠い。カメラを上に向ける角度も高い。……だからこそ、本来なら余計なものは入りにくい。外での撮影だった。なおさらね」
そこで俺は、喉の奥がひりついた。
そうだ。角度がつけば死角は広がる。でも、月を狙うほど上に向けたなら、下端にあんな近い手が入るのは不自然だ。誰かがわざと差し込んだなら、気配でわかるはずだ。
「でも、偶然で、たまたま……」
言い訳みたいな言葉が口から出た。そう思いたかった。
師匠はうなずきもしないし、首も振らない。写真をもう一度見て――それから、別の場所を指で押さえた。
「これ、不思議だと思わない? 」
師匠が指さしたのは、手じゃなかった。
日付のところ。オレンジ色の数字だった。
「日付、欠けてる」
「え……」
俺はそこで初めて、日付に意識が向く。
手にばかり目を奪われて、見落としていた。オレンジの数字の一部が、手の縁に沿うように途切れている。
「はい。手が……被って――」
「被ってる、じゃない。消えてる」
師匠は写真を少し傾け、欠けた部分を指先でなぞった。爪が紙の表面を擦る。乾いた音がして、ぞっとする。
まるで、紙の上の数字がそこだけ薄くなっているのを確かめるみたいだった。
「この数字はね、シャッターが切れる瞬間に、内蔵ランプの光が日付表示パネルを照らして、フィルムに焼き付くの」
「それって……外から写り込むのとは別、ってことですか」
「そう。視差っていうのは外側のズレ。外のものが写り込むだけ」
師匠は俺の目を見て言った。
「だからこれは……カメラの中から写ってる」
耳の奥が冷たくなった。
写真の下端の手首が、機械のズレで生まれただけだと思っていた手が、そこに不穏な存在証明をまとい始める。胸の奥がむかつく。吐き気に似た感覚がこみ上げる。
「じゃあ、これは何なんですか」
俺が絞り出すと、師匠は肩をすくめた。
「わからない。でも、放っておけない類だね」
師匠は写真をノートに挟んだ。紙が紙を呑み込む。
その瞬間、手が何かを掴んだように見えた気がした。
「これは、私が預かる」
そう言って師匠は立ち上がる。ベンチの影が揺れる。白いマフラーの端が、風もないのにふっと動いた。
「まあ、こういうこともあるよ」
師匠は優しく笑って、その場を去った。
その後、その写真がどうなったかは聞かなかった。




