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帰送シリーズ  作者: 流浪
14/15

『蝉声』

 「ジ、ジ、ジ。」

 乾いた電気が擦れるみたいな音に、思わず肩越しに振り返った。

 冬の夜のサークル棟で聞くはずのない音だ。まして、蝉の声なんて。

 大学一回生の冬だった。十二月に入ったころ。

 サークル棟は三階建てで、雑多な部室が押し込まれている。二十四時間開放で、最低限の規則さえ守れば、細かいことは学生の自治に任される。

 俺みたいに友好関係の薄い新入生でも、ここにいれば完全に「ひとり」にならない。そういう意味では、たしかに楽園だった。

 その夜の俺は、廊下の端のソファに転がり、漫画を読んでいた。

 少し離れた部屋では徹夜マージャンの一団がいて、牌を打つ音が乾いて響く。別の部屋からはテレビゲームの電子音。さらに奥からは、飲み会の拍手と歌声。

 ストーブの温風は廊下までは届かず、床からじわりと冷えが上がってくる。

 そこへ、混ざった。

 「ジ、ジ、ジ。」

 耳が勝手に「蝉だ」と決めた。夏の木立の奥で聞く、あの単調な摩擦音。

 けれど外は冬だ。窓の向こうの木々はとっくに沈黙しているはずなのに。

 廊下の喧噪に目を走らせた。

 誰も顔を上げない。牌を持つ手も止まらない。笑い声も、ゲームの効果音も、いつもの温度のままだ。

 ――気のせいか。

 そう言い聞かせて、漫画のコマに視線を落とした。

 「ジ、ジ、ジ。」

 今度は、近い。

 反響や気のせいにできる“曖昧さ”が薄れて、音の輪郭だけが耳の内側に触れてきた。

 息が止まりかけた。

 周囲は相変わらず、音に無反応だった。俺だけが知覚した音に背骨を冷やした。

 立ち上がり、音のほうへ歩く。

 酒とスナック菓子の匂いが漂う部屋の前を通り過ぎ、ゲームの画面光が廊下に漏れている角を曲がる。

 笑い声の重なりの向こうで、音だけが妙に孤立している。

 「ジ、ジ、ジ。」

 ……また鳴った。

 さっきは近づいてきたのに、今度は遠ざかる。距離の取り方が、俺の動きに合わせて変わっている気がした。

 まるで、誘導されているみたいに。

 廊下の突き当たりで、音は階段のほうへ滑った。

 手すりに指を置くと、金属が冷たく、皮膚の熱を奪っていく。

 「ジ、ジ、ジ。」

 一段、二段。

 足音が、下の喧噪から少しずつ切り離される。二階の踊り場に来ると、騒がしさが薄くなって、代わりに建物そのものの音が目立った。蛍光灯の唸り。配管のどこかで鳴る水の気配。壁の奥の空洞。

 「ジ、ジ、ジ。」

 三階へ。

 この階は部屋数が多いぶん、扉が閉まると廊下だけが急に空っぽになる。誰かの気配が消える瞬間の、あの薄い静けさがある。

 何度目かの「ジ、ジ、ジ。」のあと、俺は屋上へ続く扉の前に立っていた。

 どうやら“連れてきたい場所”は、この先らしい。

 ドアノブに手をかける。

 艶の消えた金属に、錆と汚れが薄く貼りついている。触れた瞬間、ひやりとした冷たさが指先から腕に走った。

 ――鍵は、かかっていない。

 ノブが軽く回り、扉がすっと開いた。

 屋上の空気が、容赦なく頬を切った。

 息を吸うと喉の奥が痛い。室内のぬるさが、一歩で遠くなる。

 安全柵のほうに人影があった。

 茶色のコートの背中。白いマフラー。夜の暗さの中で、その白だけが輪郭を持って見える。

 師匠だった。

 師匠は柵に手をかけ、夜空を眺めていた。振り向かない。

 なのに俺の足音を拾ったのか、当然みたいに言う。

 「君も連れられてきたのか」

 背中のままの声は平坦で、温度が読めない。けれど、突き放す響きでもなかった。

 「……さっきから、蝉の声がして。気づいたら、ここまで……」

 師匠はようやく、視線だけをこちらへ寄せた。

 顔は動かないのに、眼差しだけが一瞬鋭くなる。

 「あれは、蝉じゃない」

 そして、あっさり言った。

 「地虫が鳴いたんだよ」

 「……地虫?」

 聞き返すと、師匠はほんの少しだけ間を置く。言葉を選ぶというより、順序を整えるような間だった。

 「季節の虫じゃない。土の下の虫、って意味でもない」

 「“地”に寄ったものが、鳴き方だけ虫に似せてる。君の中の蝉を借りて」

 『俺の中の蝉を借りて』その言葉に妙な肌触りを覚える。振り返り、腑に落ちる。

 季節外れだったこと。周りが気づかなかったこと。俺だけが拾ったこと。全部に説明がついてしまう。それが、気持ち悪い。

 師匠は続ける。

 「あれが聞こえるようになったんだね。少し前までの君なら、気づかなかった」

 褒められた気はしなかった。

 皮膚の表面がざらつく。見えない粉を浴びたみたいに落ち着かない。

 俺は師匠の隣へ行き、同じように柵へ手をかけた。

 金属の冷たさが掌に張りつく。下を見ればキャンパスの灯りが点々と散り、遠い道路のヘッドライトが細い流れになっている。

 「最近、こういう存在が増えている。よくない傾向だ」

 師匠の横顔は、何かを憂いているように見えた。

 何がどう“よくない”のか、俺にはまだ言語化できない。ただ、あの音を思い出すだけで、胃の奥が薄く固くなる。

 「……師匠。きっと、大丈夫ですよね」

 情けないと分かっていても、聞かずにいられなかった。

 師匠は、ほんの少しだけ表情を和らげた。まぶたの角度が変わる程度の、小さな変化。それでも確かに優しかった。

 「大丈夫。経験が、前へと連れて行ってくれるから」

 冷たい夜気の中で、その言葉だけが妙に温かい。

 後から分かったことだが、その言葉は師匠が好きな哲学者の言葉を、師匠なりに解釈した言葉だった。

 沈黙が落ちた。

 そのとき。

 「ジ、ジ、ジ。」

 音が、もう一度だけ鳴った。

 今度は、どこからか分からない。

 屋上の床の下なのか、遠い地面の奥なのか、それとも――耳の奥の、もっと近い場所なのか。

 師匠は視線を動かさなかった。

 ただ、白いマフラーの端を指先で整える。

 師匠は何も言わない。

 言わないまま、柵の向こうの暗さを見ている。

 俺はその横顔を眺めていた。


 「ジ、ジ、ジ。」「ジ、ジ、ジ。」

地虫は鳴いた、夜の底で。

運命の転換を予見させるように。


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