『蝉声』
「ジ、ジ、ジ。」
乾いた電気が擦れるみたいな音に、思わず肩越しに振り返った。
冬の夜のサークル棟で聞くはずのない音だ。まして、蝉の声なんて。
大学一回生の冬だった。十二月に入ったころ。
サークル棟は三階建てで、雑多な部室が押し込まれている。二十四時間開放で、最低限の規則さえ守れば、細かいことは学生の自治に任される。
俺みたいに友好関係の薄い新入生でも、ここにいれば完全に「ひとり」にならない。そういう意味では、たしかに楽園だった。
その夜の俺は、廊下の端のソファに転がり、漫画を読んでいた。
少し離れた部屋では徹夜マージャンの一団がいて、牌を打つ音が乾いて響く。別の部屋からはテレビゲームの電子音。さらに奥からは、飲み会の拍手と歌声。
ストーブの温風は廊下までは届かず、床からじわりと冷えが上がってくる。
そこへ、混ざった。
「ジ、ジ、ジ。」
耳が勝手に「蝉だ」と決めた。夏の木立の奥で聞く、あの単調な摩擦音。
けれど外は冬だ。窓の向こうの木々はとっくに沈黙しているはずなのに。
廊下の喧噪に目を走らせた。
誰も顔を上げない。牌を持つ手も止まらない。笑い声も、ゲームの効果音も、いつもの温度のままだ。
――気のせいか。
そう言い聞かせて、漫画のコマに視線を落とした。
「ジ、ジ、ジ。」
今度は、近い。
反響や気のせいにできる“曖昧さ”が薄れて、音の輪郭だけが耳の内側に触れてきた。
息が止まりかけた。
周囲は相変わらず、音に無反応だった。俺だけが知覚した音に背骨を冷やした。
立ち上がり、音のほうへ歩く。
酒とスナック菓子の匂いが漂う部屋の前を通り過ぎ、ゲームの画面光が廊下に漏れている角を曲がる。
笑い声の重なりの向こうで、音だけが妙に孤立している。
「ジ、ジ、ジ。」
……また鳴った。
さっきは近づいてきたのに、今度は遠ざかる。距離の取り方が、俺の動きに合わせて変わっている気がした。
まるで、誘導されているみたいに。
廊下の突き当たりで、音は階段のほうへ滑った。
手すりに指を置くと、金属が冷たく、皮膚の熱を奪っていく。
「ジ、ジ、ジ。」
一段、二段。
足音が、下の喧噪から少しずつ切り離される。二階の踊り場に来ると、騒がしさが薄くなって、代わりに建物そのものの音が目立った。蛍光灯の唸り。配管のどこかで鳴る水の気配。壁の奥の空洞。
「ジ、ジ、ジ。」
三階へ。
この階は部屋数が多いぶん、扉が閉まると廊下だけが急に空っぽになる。誰かの気配が消える瞬間の、あの薄い静けさがある。
何度目かの「ジ、ジ、ジ。」のあと、俺は屋上へ続く扉の前に立っていた。
どうやら“連れてきたい場所”は、この先らしい。
ドアノブに手をかける。
艶の消えた金属に、錆と汚れが薄く貼りついている。触れた瞬間、ひやりとした冷たさが指先から腕に走った。
――鍵は、かかっていない。
ノブが軽く回り、扉がすっと開いた。
屋上の空気が、容赦なく頬を切った。
息を吸うと喉の奥が痛い。室内のぬるさが、一歩で遠くなる。
安全柵のほうに人影があった。
茶色のコートの背中。白いマフラー。夜の暗さの中で、その白だけが輪郭を持って見える。
師匠だった。
師匠は柵に手をかけ、夜空を眺めていた。振り向かない。
なのに俺の足音を拾ったのか、当然みたいに言う。
「君も連れられてきたのか」
背中のままの声は平坦で、温度が読めない。けれど、突き放す響きでもなかった。
「……さっきから、蝉の声がして。気づいたら、ここまで……」
師匠はようやく、視線だけをこちらへ寄せた。
顔は動かないのに、眼差しだけが一瞬鋭くなる。
「あれは、蝉じゃない」
そして、あっさり言った。
「地虫が鳴いたんだよ」
「……地虫?」
聞き返すと、師匠はほんの少しだけ間を置く。言葉を選ぶというより、順序を整えるような間だった。
「季節の虫じゃない。土の下の虫、って意味でもない」
「“地”に寄ったものが、鳴き方だけ虫に似せてる。君の中の蝉を借りて」
『俺の中の蝉を借りて』その言葉に妙な肌触りを覚える。振り返り、腑に落ちる。
季節外れだったこと。周りが気づかなかったこと。俺だけが拾ったこと。全部に説明がついてしまう。それが、気持ち悪い。
師匠は続ける。
「あれが聞こえるようになったんだね。少し前までの君なら、気づかなかった」
褒められた気はしなかった。
皮膚の表面がざらつく。見えない粉を浴びたみたいに落ち着かない。
俺は師匠の隣へ行き、同じように柵へ手をかけた。
金属の冷たさが掌に張りつく。下を見ればキャンパスの灯りが点々と散り、遠い道路のヘッドライトが細い流れになっている。
「最近、こういう存在が増えている。よくない傾向だ」
師匠の横顔は、何かを憂いているように見えた。
何がどう“よくない”のか、俺にはまだ言語化できない。ただ、あの音を思い出すだけで、胃の奥が薄く固くなる。
「……師匠。きっと、大丈夫ですよね」
情けないと分かっていても、聞かずにいられなかった。
師匠は、ほんの少しだけ表情を和らげた。まぶたの角度が変わる程度の、小さな変化。それでも確かに優しかった。
「大丈夫。経験が、前へと連れて行ってくれるから」
冷たい夜気の中で、その言葉だけが妙に温かい。
後から分かったことだが、その言葉は師匠が好きな哲学者の言葉を、師匠なりに解釈した言葉だった。
沈黙が落ちた。
そのとき。
「ジ、ジ、ジ。」
音が、もう一度だけ鳴った。
今度は、どこからか分からない。
屋上の床の下なのか、遠い地面の奥なのか、それとも――耳の奥の、もっと近い場所なのか。
師匠は視線を動かさなかった。
ただ、白いマフラーの端を指先で整える。
師匠は何も言わない。
言わないまま、柵の向こうの暗さを見ている。
俺はその横顔を眺めていた。
「ジ、ジ、ジ。」「ジ、ジ、ジ。」
地虫は鳴いた、夜の底で。
運命の転換を予見させるように。




