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帰送シリーズ  作者: 流浪
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13/20

『サークル』

 大学一回生の時だった。


 大学デビューを果たし、春が夏へと変わる頃、俺はまだサークルを決めていなかった。入学して、授業が始まって、駅前でチラシを押し付けられて、学食の入口で「新歓来ませんか」って笑顔を浴びせられて。俺の部屋の机の隅には、薄い紙が束になって反っていく。


 面倒だったのもある。人が多い場所が苦手なのもある。


 でも一番大きいのは、俺の中で優先順位が変わってしまったことだった。


 師匠。


 俺がその人をそう呼び始めたのは、つい最近だ。呼び名が変わった途端に、自分の世界の方向が定まった気がした。頼れる、とか、縋れる、とか、そういう安い言葉より先に、「この人の言うことは絶対だ」と思った。


 だからサークルを決めるなら、せっかくなら同じところがいい。安直だし、依存的だし、俺らしい。


 昼休み。学食の端の席。


 師匠はいつものように、騒がしい場所のど真ん中にいるのに、まるでそこだけが隔離されているような顔をして、ぬるいお茶を啜っていた。


「師匠って、サークル入ってるんですよね」


 師匠は視線を上げもせずに言った。


「……オカルト研究会」


 ぼそりと言う。息を吐くみたいに。


 俺は思わず、「えっ」と声が出た。いかにも、という名前だ。期待と不安が同時に膨らむ。怪談を読んで、降霊会をして、夜の校舎に忍び込むような――。


 師匠は俺の顔を一瞬だけ見て、すぐに目を戻す。


「あんまり、ためにはならないかもね。初歩的すぎる」


「初歩的……」


「怖い話の集め方とか。民俗の風習とか。雑誌の切り抜きとか」


 俺は少しだけがっかりした。師匠がいる場所なら、もっとこう……違う世界への入口みたいなものを想像していた。師匠が「初歩的」と切り捨てるなら、その場所は、俺にとっても退屈なだけなんじゃないか。


 師匠は続けて言う。


「あんまり顔出してない。歓迎会くらいだね」


 それが余計に、俺を落とした。師匠が顔を出さないサークル。師匠が用がない場所。


 沈んだのがバレたのだろう。師匠は少しだけ間を置いた。


「……サークル、どうして聞いてきた?」


「……俺まだ決めてないんですけど、師匠と同じところがいいです」


 師匠は、頷いたのかどうか分からない程度に首を動かした。


「まあ、基礎知識とか、話は収集できるかな」


 そして、いつもの調子で、淡々と言った。


「見に行ってみる?」


 俺は一も二もなく返事した。


「行きます!」



 サークル棟は、大学の端にあった。講義棟から少し離れていて、足元の舗装が急に荒れる。建物はコンクリで、階段の角が丸い。長い間、いろんな奴が同じ角でつまずいてきた証拠だ。


 廊下に入ると匂いが変わった。湿った紙と、コーヒーと、古い金属。あと、どこかでタバコを吸った残り香が壁に染み付いている。


 階段を上がる途中で、俺は一度だけ耳の奥が詰まる感じがした。気圧がふっと落ちるみたいな。立ち止まるほどじゃない。でも、気づいてしまう程度には。


 師匠は何も言わない。何事もなかったかのように歩く。


 二階の端の部屋の前で立ち止まった。ドアのノブに手をかける。鍵はかかっていない。


 貼り紙があった。


『オカルト研究会 部室

 入部希望者は声かけてね(歓迎)

 ※勝手に入室しない

 ※勝手に撮らない(録音含む)

 ※勝手に深夜に行かない(冗談)』


 冗談、と赤ペンで書いてある。これは……笑うところなんだろうか。


 師匠がドアを開けた。


 部室は狭い。六畳か八畳くらい。壁際の棚に雑誌、文庫、コピー資料が積まれていて、机の上には湯呑みと灰皿とカセットテープが転がっている。隅にテレビデオ。上にブラウン管のパソコン。キーボードの上には意味不明な付箋が何枚か見える。


 机の向こう側に、大柄な男が一人いた。三回生くらい。寝癖がそのままで、口元だけ先に笑うタイプのように見える。


 そいつは師匠を見るなり、ぱっと立ち上がった。さっきまでだらけていた空気が、一本締まるのを感じた。


「……し、白百合先輩」


 声の出し方が、いきなり「先生」に向けるトーンになる。どうやらここでは、師匠はそういう存在らしい。


 師匠は目だけで軽く返事をした。面倒そうに。


 眼鏡の男は俺に視線を滑らせ、すぐに会釈した。


「えっと……新入生? 入部?」


 師匠が短く言う。


「うん。新入生。……入部希望」


 それだけで、部室の空気が決まった。「師匠が連れてきた新入生」だ。誰も口にしないのに、そういう看板が勝手に吊るされる。


 机の反対側で、女の先輩が顔を上げた。二回生くらい。ポニーテール。ノートにびっしり字を書いていて、目が妙に鋭い。


「え、白百合先輩が“連れてくる”って珍し。……弟子?」


 言い方は軽いのに、目だけ本気だ。俺の心臓が一瞬跳ねた。


 師匠は答えない。答えないまま俺を一瞥して、


「名前」


 とだけ言った。


「三宅宗介です」


 男が慌てて棚からノートを引っ張り出す。


「よし、入部届。名前、学部、連絡先。あ、連絡先、家電でもいいけど今どきは携帯かPHSだな……」


 その喋り方がいかにも「事務担当」だった。人当たりはいいのに、焦り癖があるようだ。


 ポニーテールの先輩が、俺の前にコピー用紙の束を置いた。


「これ、新歓用の“聞き書きテンプレ”。質問の順番が大事。まず場所、次に時間、次に“何が変だったか”。最後に“今どう思ってるか”」


 俺は用紙を眺めた。


 ――手順。


 師匠が好きな言葉だ。


 そのとき、テレビデオの前にしゃがんでいた男が振り返った。二回生くらい。眼鏡をかけ、工学部っぽい、余計な感情を削った顔。


「……白百合先輩、前に言ってた“ノイズの分類”。あれ、完成しましたよ。例の写真の鑑定も……」


 師匠は初めてその男をちゃんと見た。


「あるなら、あとで」


 それだけで、その男は少しだけ嬉しそうに黙った。尊敬というより、「認められたい」という顔。


 男が咳払いをして場を仕切る。


「紹介する。俺、会長の竹原恒一。三回生。……研究会だから、部活っていうより、集めて、まとめて、残す。月一回で定例。あとはネタ出たら集まる。会誌も一応出してる。コピー本だけど」


 竹原先輩は軽いノリを装っているのに、言葉の端々がきっちりしていた。編集者みたいに、要点を落とさない。


 ポニーテールの先輩が手を挙げる。


「副会長、宮野佳奈。二回生。主に聞き込み。話ってさ、聞き方が九割だから」


 言い切る。妙に自信がある。怖がりと自負が同居している感じ。


 工学部っぽい男が短く言う。


「鎌田祐二。二回生。録音、機材、保管。……テープ触るなら手洗ってから」


 竹原先輩が俺の入部届を覗き込みながら言った。


「宗介。何がやりたい? 幽霊見たい? 怪談集めたい? 都市伝説?」


 俺は答えに詰まった。やりたいことなんて、自分でもよく分からない。ただ師匠の側に、師匠のいる場所に、近づきたかっただけだ。


 師匠が助け舟を出すみたいに言った。


「話を集める。それが一番、役に立つ」


 宮野先輩が、師匠の方を見て小さく笑う。


「出た。“白い天使のオカルト論”」


 その言い方が、冗談っぽいのに、扱いはどこか崇拝のようだ。宮野先輩はそれを壊すために笑っている。


 竹原先輩は頷く。


「そう。話を膨らませずに書けるやつが一番。怖い話って、話したがってる奴のところに勝手に転がってくるから。拾って、形にするだけ」


 その瞬間、テレビデオが「ぶつ」と鳴った。


 誰も触っていないのに、電源ランプが一瞬だけ点いた。


 俺は、背中の皮膚がぞわっとした。さっき階段で感じた詰まりが、今度は耳鳴りみたいに膨らむ。目の端に、部室の隅が不自然に暗く見える――気がする。


 竹原先輩が眉をひそめて、半歩だけ机から身を引いた。本人は誤魔化そうとして、すぐに咳払いする。


「……接触悪いんだろ」


 宮野先輩が口を尖らせた。


「いや今の、ヤだった。音が“変”」


 鎌田先輩は無言でテレビデオに近づき、背面のコードを指で確かめる。慣れた動作のようだったが、手だけが少し固い。そしてぶつぶつと呟く。


「……ランプが点いた。けど、電源は触ってない」


 師匠が淡々と言った。


「事実。……点いた」


 その端的さが、この部室では戒律みたいに働くらしく、空気がすっと戻る。


 俺は息を吐いた。今のを「接触不良」だと決めてしまえば楽だ。けれど、体がそれを否定している。こういう感覚を、俺は最近、何度か経験している。


 師匠が俺を見た。


「……どう見る?」


 俺は答えられない。


 テレビデオの前で鎌田先輩が一度だけ呟く。


「……機材越しに変なの出るの、やめてほしい」


 宮野先輩が笑って誤魔化す。


「そういうこと言うから余計に気になるんだって」


「気になる、とか言うな」


「じゃあ、何て言えばいいの」


「……まあ、鼻歌でも?」


 そのやり取りに、竹原先輩がやっと笑った。


「……まあ、こういうのも含めて研究会。宗介、びびってる?」


 俺は正直に言った。


「ちょっと」


「素直でよろしい!」


 竹原先輩は軽口を叩きながらも、さっき半歩引いた足がまだ戻っていない。この人もそこそこ感じている。たぶん。


 ドアの向こうから足音がして、部室の入口に影が落ちた。


 入ってきたのは四回生くらいの男だった。――いや、そう見えた。服装も地味で、顔の印象が薄い。背は俺より高いが、存在感が部屋の光に溶けている。俺は、足音がしたのに入ってくるまで気づかなかった。矛盾しているのに、そう感じる。


 宮野先輩が声を落とす。


「……西園寺先輩」


 竹原先輩が苦笑する。


「うわ、久しぶり。生きてた」


 男――西園寺先輩は返事をしなかった。返事をしないのに、そこにいることだけははっきり分かる。視線が合った気がしたのに、合っていない。そんな不思議な感覚。


 西園寺先輩は部屋の中を一度だけ見回し、テレビデオの方で目を止めた。


 そして、誰に言うでもなく、低い声で言った。


「……それ、点いたの、今だけじゃないな」


 宮野先輩が「は?」という顔をする。


 竹原先輩は笑って流そうとして、うまくいかない。


「え、何それ、怖いこと言うなよ」


 鎌田先輩が黙ったまま、テレビデオから手を離した。


 師匠が西園寺先輩を見た。


 ほんの少しだけ、面倒くさそうな顔が消えた。代わりに、見定めるような目になる。


「久しぶり。……ちゃんと、視えているね」


 部室の空気が一瞬止まった。


 宮野先輩が「やっぱり」とでも言いたげに眉を上げ、竹原先輩は冗談を諦め、鎌田先輩は視線を逸らす。


 西園寺先輩は師匠を見て、短く言った。


「……お久しぶりです。先輩は、どうです」


 どこか試すような問い方だった。


 師匠は肩をすくめた。


「私は、めんどくさいのが見える」


 宮野先輩が吹き出しそうになって耐える。


 竹原先輩が、場を戻すために手を叩いた。


「はい、空気終わり! 宗介、今日から研究会な。最初はテンプレ通りに聞き書き。膨らませずに書く。あと、一年の書記は佐伯由梨って子。口数は少ないけど、記録はきっちりしてる。そのうち紹介する」


 俺は「はい」と頷いた。佐伯、という名前を頭の片隅に置く。


 宮野先輩が俺の肩を軽く叩く。


「宗介くん、歓迎会来るでしょ? 白百合先輩も“歓迎会くらい”は来るだろうし」


「……たぶん」


 師匠がぼそっと言うと、宮野先輩が即座に噛みつく。


「たぶんは禁止!」


 師匠は俺を見た。俺が何か言うべきだと直感した。


「俺、行きます。歓迎会」


 師匠は一瞬だけ目を細めた。笑った、というほどじゃない。でも薄く「よし」と言った気がした。


「じゃあ、行く」


 竹原先輩が満足げに頷く。


「西園寺先輩は?」


 竹原先輩が聞くと、西園寺先輩は俺を見てから言った。


「あぁ……ひさしぶりに俺も顔を出すとしよう」


 宮野先輩も鎌田先輩も、予想外だったらしく目を丸くする。


 竹原先輩はすぐに場をまとめた。


「決まり。基本、俺か宮野、鎌田がいるから。あと、部室の鍵は閉めること。夜は特に」


 宮野先輩がニヤッとする。


「それ、オカルト的な意味?」


 竹原先輩は真顔で言う。


「両方」


 鎌田先輩も小さく言う。


「両方」


 西園寺先輩だけが何も言わない。


 俺は思った。


 ここは、派手な怪談のサークルじゃない。地味で、基本ばかりだ。


 でも師匠が点だけ残していた場所だ。


 その点が、俺の足元に繋がった。


 それだけで十分だった。


 師匠が、俺の方を見た。


「……どう思う?」


 俺は息を吸う。


 まだ答えは出ない。出ないけど――


「……俺、ここで、話を集めてみます」


 師匠は、いつもの顔に戻って短く言った。


「うん」


 部室を出る時、廊下の匂いがまた鼻を刺した。湿った紙と、古い金属と、遠くのコーヒー。


 階段を下りる途中で、さっきの耳の詰まりがもう一度だけ戻ってきた気がした。


 俺は立ち止まらなかった。立ち止まったら、さっき点いたランプが、今度は消えない気がしたからだ。

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