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帰送シリーズ  作者: 流浪
12/16

『ペットショップ』

 大学一回生の夏だった。

 昼の講義が終わった瞬間、教室の空気がいっせいにゆるんで、同時に熱が戻ってきた。窓から入る風はぬるく、廊下に出た途端、肌の表面がじり、と焼けるみたいに汗をかく。校舎の外へ出ると、日差しが地面に貼り付いていて、視界の端が白く霞んだ。

 その白の中に、師匠がいた。

 誰に呼ばれたわけでもなく、用事がある顔でもなく、ただ当然みたいに立っている。夏だからコートもマフラーもない。黒い髪がそのまま背中に落ちていて、首元が少しだけ見えていた。いつもと印象が違うせいで、こちらが勝手に落ち着かない。

 師匠は俺を見て、言った。

 「ペットショップ。見に行こう」

 「……ペットショップ、ですか」

 「うん」

 理由はそれだけだった。

 俺は一瞬、聞き返しかけてやめた。師匠は「理由」から話す人じゃない。結論が先に来て、後から世界が追いつく。こっちが追いつけないときは、だいたい置いていかれる。

 だから俺は、暑さに負けたふりをして頷いた。

 「……行きます」

 駅前の通りは、夏の匂いがした。焼けたアスファルトと、開いたばかりの缶の甘い炭酸と、どこかの店の揚げ油。信号待ちのたびに、シャツが背中に貼り付く。師匠はその前を歩く。影が短い。歩調が一定で、迷いがない。

 店はチェーンっぽい外観で、ガラス越しに水槽の青が見えた。自動ドアが開いた瞬間、冷気がぶつかってくる。汗の膜が一気に冷やされて、肌がきゅっと縮んだ。

 中は、音が多いのに騒がしくない。

 水の循環音、フィルターの低い唸り、鳥の短い鳴き声、ケージの金具が触れ合う小さな音。どれも「生き物の音」だった。鼻の奥に、乾いた木屑と餌の匂いが入る。外の暑さとは別の世界みたいだった。

 師匠はまっすぐ小動物コーナーへ向かった。

 「こっち」

 短い指示。俺は吸い寄せられるように付いていく。

 ガラス越しに、ハムスターが回し車を回していた。回しているというより、回されているみたいな顔で。ウサギは丸くなって、耳だけがぴくりと動く。モルモットは、こちらを見ても動じず、餌皿の前を頑なに守っている。

 師匠は、ケージの前で立ち止まった。

 そこにいたのは、小さな子猫だった。まだ体の芯ができていないのか、毛がふわふわしていて、目だけが妙に大きい。ケージの隅で丸くなり、こちらを見上げている。

 師匠は何も言わず、しゃがんだ。

 ガラスに指先をそっと置く。指の腹で、軽く二回だけ叩く。ノックじゃない。合図みたいな、ほとんど触れるだけの動き。

 子猫が、ゆっくり立ち上がった。

 そして、ケージの手前まで来た。警戒というより、確認。鼻先がガラスに近づいて、息で曇った。

 「……寄ってきた」

 俺が思わず言うと、師匠は視線を動かさないまま、淡々と返した。

 「寄ってくることもある」

 言い方がまるで実験の結果みたいで、俺は少し笑いそうになった。

 店員が近づいてきて、「触ってみますか」と聞いた。師匠は頷き、俺も慌てて頷いた。ケースを開けてもらって、子猫を抱かせてもらう。

 掌に乗る重さが、思ったより軽い。

 温度がある。鼓動が速い。生きている、という事実がそのまま手の中にある。

 師匠にも抱かせてみると、子猫は妙におとなしかった。逃げないし、暴れない。師匠は相変わらず無表情なのに、抱き方だけがやけに丁寧だった。落とさない角度、支える位置、指の力の入れ方。慣れているというより、「扱い方を知っている」みたいだった。

 俺は、変なことを考えた。

 ――これ、なんか……デートみたいだな。師匠も……可愛いな。

 すぐに自分で打ち消した。違う。絶対違う。そもそも師匠は「見に行こう」と言っただけで、俺が勝手に付いてきただけだ。俺のほうが完全に勘違いしている。

 でも、ペットショップの冷房と、子猫の体温と、師匠が無言で猫の背を撫でる指先が、変に現実離れしていて。

 オカルトだとか、噂だとか、祠だとか――そういう単語が頭から一度抜け落ちた。

 ただ、暑い日で。

 ただ、冷たい店内で。

 ただ、生き物がそこにいて。

 俺たちは、同じ方向を見ていた。

 それが妙に嬉しくて。

 十分もいなかったと思う。けれど、外へ出たときには時間が少し進んでいた。日差しがまだ強くて、空がやけに高い。

 師匠が、袋をひとつ提げていた。中身はペットフードでもケージでもなく、小さな猫用のおやつだった。

 「買ったんですか」

 「うん。……渡すところがある」

 言い方がさらりとしていて、誰に渡すのかは聞き返せなかった。野良猫か、誰かの飼い猫か、あるいは――師匠の世界の、俺がまだ知らない「何か」か。

 俺は、少しだけ踏み込んでみた。

 「師匠、動物……好きなんですね」

 師匠は歩きながら、ほんの少しだけ首を傾けた。

 「嫌いじゃない」

 それだけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 なのに、その短さが、なぜか安心だった。

 オカルトの話をしない一日があってもいい。

 怪異の匂いがしない時間があってもいい。

 そういう隙間があるから、俺はまた次の夜を迎えられる。

 師匠の半歩後ろを歩きながら、俺は汗を拭いた。

 外の暑さは相変わらずで、現実はべたつく。けれど、さっきまで手の中にあった小さな体温が、掌の記憶として残っていた。

 「……また、行ってもいいですか」

 俺が言うと、師匠は前を向いたまま、いつも通りの声で言った。

 「いいよ。暑い日は、涼しいところが正しい」

 正しい、という言葉が、師匠らしかった。

 俺たちは、そのまま人の流れに戻っていった。


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