『ペットショップ』
大学一回生の夏だった。
昼の講義が終わった瞬間、教室の空気がいっせいにゆるんで、同時に熱が戻ってきた。窓から入る風はぬるく、廊下に出た途端、肌の表面がじり、と焼けるみたいに汗をかく。校舎の外へ出ると、日差しが地面に貼り付いていて、視界の端が白く霞んだ。
その白の中に、師匠がいた。
誰に呼ばれたわけでもなく、用事がある顔でもなく、ただ当然みたいに立っている。夏だからコートもマフラーもない。黒い髪がそのまま背中に落ちていて、首元が少しだけ見えていた。いつもと印象が違うせいで、こちらが勝手に落ち着かない。
師匠は俺を見て、言った。
「ペットショップ。見に行こう」
「……ペットショップ、ですか」
「うん」
理由はそれだけだった。
俺は一瞬、聞き返しかけてやめた。師匠は「理由」から話す人じゃない。結論が先に来て、後から世界が追いつく。こっちが追いつけないときは、だいたい置いていかれる。
だから俺は、暑さに負けたふりをして頷いた。
「……行きます」
*
駅前の通りは、夏の匂いがした。焼けたアスファルトと、開いたばかりの缶の甘い炭酸と、どこかの店の揚げ油。信号待ちのたびに、シャツが背中に貼り付く。師匠はその前を歩く。影が短い。歩調が一定で、迷いがない。
店はチェーンっぽい外観で、ガラス越しに水槽の青が見えた。自動ドアが開いた瞬間、冷気がぶつかってくる。汗の膜が一気に冷やされて、肌がきゅっと縮んだ。
中は、音が多いのに騒がしくない。
水の循環音、フィルターの低い唸り、鳥の短い鳴き声、ケージの金具が触れ合う小さな音。どれも「生き物の音」だった。鼻の奥に、乾いた木屑と餌の匂いが入る。外の暑さとは別の世界みたいだった。
師匠はまっすぐ小動物コーナーへ向かった。
「こっち」
短い指示。俺は吸い寄せられるように付いていく。
ガラス越しに、ハムスターが回し車を回していた。回しているというより、回されているみたいな顔で。ウサギは丸くなって、耳だけがぴくりと動く。モルモットは、こちらを見ても動じず、餌皿の前を頑なに守っている。
師匠は、ケージの前で立ち止まった。
そこにいたのは、小さな子猫だった。まだ体の芯ができていないのか、毛がふわふわしていて、目だけが妙に大きい。ケージの隅で丸くなり、こちらを見上げている。
師匠は何も言わず、しゃがんだ。
ガラスに指先をそっと置く。指の腹で、軽く二回だけ叩く。ノックじゃない。合図みたいな、ほとんど触れるだけの動き。
子猫が、ゆっくり立ち上がった。
そして、ケージの手前まで来た。警戒というより、確認。鼻先がガラスに近づいて、息で曇った。
「……寄ってきた」
俺が思わず言うと、師匠は視線を動かさないまま、淡々と返した。
「寄ってくることもある」
言い方がまるで実験の結果みたいで、俺は少し笑いそうになった。
店員が近づいてきて、「触ってみますか」と聞いた。師匠は頷き、俺も慌てて頷いた。ケースを開けてもらって、子猫を抱かせてもらう。
掌に乗る重さが、思ったより軽い。
温度がある。鼓動が速い。生きている、という事実がそのまま手の中にある。
師匠にも抱かせてみると、子猫は妙におとなしかった。逃げないし、暴れない。師匠は相変わらず無表情なのに、抱き方だけがやけに丁寧だった。落とさない角度、支える位置、指の力の入れ方。慣れているというより、「扱い方を知っている」みたいだった。
俺は、変なことを考えた。
――これ、なんか……デートみたいだな。師匠も……可愛いな。
すぐに自分で打ち消した。違う。絶対違う。そもそも師匠は「見に行こう」と言っただけで、俺が勝手に付いてきただけだ。俺のほうが完全に勘違いしている。
でも、ペットショップの冷房と、子猫の体温と、師匠が無言で猫の背を撫でる指先が、変に現実離れしていて。
オカルトだとか、噂だとか、祠だとか――そういう単語が頭から一度抜け落ちた。
ただ、暑い日で。
ただ、冷たい店内で。
ただ、生き物がそこにいて。
俺たちは、同じ方向を見ていた。
それが妙に嬉しくて。
*
十分もいなかったと思う。けれど、外へ出たときには時間が少し進んでいた。日差しがまだ強くて、空がやけに高い。
師匠が、袋をひとつ提げていた。中身はペットフードでもケージでもなく、小さな猫用のおやつだった。
「買ったんですか」
「うん。……渡すところがある」
言い方がさらりとしていて、誰に渡すのかは聞き返せなかった。野良猫か、誰かの飼い猫か、あるいは――師匠の世界の、俺がまだ知らない「何か」か。
俺は、少しだけ踏み込んでみた。
「師匠、動物……好きなんですね」
師匠は歩きながら、ほんの少しだけ首を傾けた。
「嫌いじゃない」
それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
なのに、その短さが、なぜか安心だった。
オカルトの話をしない一日があってもいい。
怪異の匂いがしない時間があってもいい。
そういう隙間があるから、俺はまた次の夜を迎えられる。
師匠の半歩後ろを歩きながら、俺は汗を拭いた。
外の暑さは相変わらずで、現実はべたつく。けれど、さっきまで手の中にあった小さな体温が、掌の記憶として残っていた。
「……また、行ってもいいですか」
俺が言うと、師匠は前を向いたまま、いつも通りの声で言った。
「いいよ。暑い日は、涼しいところが正しい」
正しい、という言葉が、師匠らしかった。
俺たちは、そのまま人の流れに戻っていった。




