表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰送シリーズ  作者: 流浪
10/15

『白烏(中)』

 その夜、俺はなかなか眠れなかった。

 帰り道で、あの女に投げられた言葉が、ずっと耳の奥で残っていた。

 ――白いカラスは追うな。

 たしかに俺は追った。自分で選んで、細道に入っていった。

 その結果が、指で、鳴き声で、あの悪意だ。

 布団に入って目を閉じても、鼻の奥にこびりついたみたいな匂いが消えない。焦げたような、生臭いような、吐き気の手前の匂い。

 思い出すな、と思うほど思い出す。

 部屋は静かなはずなのに、静けさが逆に神経を尖らせる。

 外を車が流れる音がするたび、羽音に聞こえた。

 寝返りを打って、また寝返りを打って――いつの間にか、意識が落ちた。

 夢の中で、俺は歩いていた。

 細い路地だった。昼ならただの裏道のはずなのに、夜の夢の中だと、そこが「穴」みたいに見える。壁が近い。空が細い。息を吐くと、吐いた息が引っかかって戻ってくる感じがした。

 前を、白い烏が行く。

 闇の中で、白だけがぼうっと浮いて見える。

 俺は追う。

 白い烏が一度だけ振り返った。

 目が合った、と思った。

 その瞬間、腹の底が冷たくなるのに、止まれない。

 路地の奥に、ゴミ箱があった。

 蓋が半分だけ開いている。蠅が群れている。羽音が細かく重なって、空気そのものがざらざらしているみたいだった。

 匂いがひどい。腐った生ものの匂いが、鼻の奥に刺さる。吸い込むだけで胃が上下する。

 白い烏が、ゴミ箱の縁に飛び乗った。

 そして、倒した。

 「ガタン」

 金属が地面を打つ音が、やけに大きい。蓋が跳ね、ゴミ箱が転がる。中から黒い袋がひとつ、ずるりと滑り出た。

 袋の一部が薄く透けて、赤黒いものが見える。肉片みたいな色。濡れているのに、乾いているように見える、嫌な赤。

 白い烏が、その袋をついばんだ。

 次の瞬間、裂け目ができたのか――中身が、どろり、とこぼれ出した。

 赤黒い。粘っている。地面に落ちて広がるのに、伸び方が遅い。重たい。

 匂いが、一段濃くなった。喉の奥が焼ける。息ができない。

 こぼれた肉片が、集まりはじめた。

 勝手に、寄っていく。

 広がったものが縮む。縮んだものが塊になる。塊が、さらに輪郭を持とうとする。

 ――形になろうとしている。

 俺は後ずさった。背中が壁に当たりそうになって、振り返る。

 道が、なかった。

 さっきまで確かにあった出口の方向が、闇で塞がっている。壁と壁の間が、ただの黒い面になっている。

 逃げる先が消えている。

 赤黒い「それ」が、にじり寄ってきた。

 速くない。けれど止まらない。距離が確実に削られていく。

 足が動かない。声が出ない。

 捕まる、と確信した瞬間、頭の中に言葉が落ちた。

 ――もう、ダメだ。

 そこで目が覚めた。

 天井が見えた。自室の天井だ。

 心臓が暴れている。胸の中で太鼓が鳴っているみたいだった。背中が汗で冷えて、シャツが肌に貼りつく。

 夢だ。夢だった。

 なのに、匂いだけが残っている気がした。腐った甘さが、鼻の奥にへばりついている。息を吸うたび、さっきの路地に引き戻されそうになる。

 そして、いちばん嫌だったのは――

 昨夜、夢で見たものが現実になった、あの感触が、また蘇ったことだ。

 「夢だから大丈夫」と思った瞬間に、次は本当に来る。

 そういう怖さが、骨の奥に残っている。

 その日、俺は普通に大学へ行った。

 講義を受けて、ノートを取って、学食で適当なものをかきこんだ。周りの会話が遠い。笑い声が薄い。自分だけ、別の層にいる感じがする。

 キャンパスの端で烏が鳴いているのが見えた。黒い影が跳ねるたび、背中が勝手に硬くなる。

 昼間の烏は、ただの烏だ。頭では分かっている。

 分かっているのに、首を傾げる仕草だけで、昨夜の白が頭をよぎる。

 授業の切れ目、俺は師匠を探した。

 見つけたのは、人があまり通らない木陰のあたりだった。風が通るのに、空気はぬるい。

 師匠は、いつも通りの顔で座っていた。

 俺は、すぐ話し始めた。

 昨夜のこと。白い烏。細道。指。黒い烏に囲まれたこと。

 ある人にたすけられたこと。「白いカラスは追うな」と言って消えたこと。

 それから、今朝の夢のこと。

 ゴミ箱。蠅。黒い袋。赤黒い肉片。形になろうとする塊。出口が消える感覚。最後に「もうダメだ」と思ったこと。

 師匠は黙って聞いていた。相槌は少ない。ただ、目だけが動く。俺の言葉を拾って、頭の中で順番に並べ替えているみたいだった。

 話し終えると、喉がからからだった。自分の声がかすれたみたいに感じた。

 師匠は少しだけ間を置いてから、言った。

 「カラスはね、賢い」

 それだけで、俺は嫌な予感がした。師匠の「賢い」は、褒め言葉じゃない。

 師匠は淡々と続ける。

 「群れる。学ぶ。覚える。顔を見分ける。人間の生活に寄ってくる」

 「それに、情報を回す。危ない人間を見つけたら、別の個体にも知らせる」

 俺は思わず眉をひそめた。

 「……じゃあ、俺、目をつけられたってことですか」

 師匠は否定しない。

 「可能性はある。君が“見えてしまった”からね」

 「カラスは、見られるのが嫌いなんじゃない。見られた“あと”を覚えるのが怖いんだよ」

 ぞっとした。

 昨日の黒い目が、一斉にこっちを向いた光景が戻ってくる。

 師匠は言葉を続けた。

 「『カラスが鳴くと人が死ぬ』っていう迷信、あるでしょ」

 「迷信で片づけるのは簡単だけど、カラスは腐敗臭に敏感だし、弱ったものの動きもよく見る。人間の“終わり際”に寄ってくることが多い」

 「だから、鳴く場所と、嫌な出来事が重なる。人はそこに意味を貼る。貼った意味がまた、現象を呼ぶ」

 ……師匠の口から「意味を貼る」という言葉が出ると、嫌に現実味が増す。

 俺は唾を飲んだ。

 「じゃあ、白いのは……?」

 師匠の目が、少しだけ鋭くなる。

 「白いカラスは、もっと厄介だね」

 「自然界では目立ちすぎる。群れの中で浮く。追われることもある。仲間外れにされることもある」

 その言い方が、妙に具体的で。

 俺の頭の中で、白い背中が黒に追われる映像が勝手に出来上がった。

 師匠はそこで、少し声を落とした。

 「孤立した個体は、人の生活圏に寄りやすい。餌があるからだけじゃない。群れから離れると、“境目”に触れやすくなる」

 「境目……?」

 「この世と、それ以外の境目。鳥は空と地を行き来するでしょ。昔から、そういうものは“運ぶ”って考えられてきた」

 師匠は淡々と、しかし短く区切りながら続けた。

 「鳥葬、聞いたことある?」

 「日本ではできない。法律もあるし、衛生的にも無理。でも文化としてはある。遺体を鳥に与えて、自然へ返す葬送」

 「鳥は、肉を食べて骨を運ぶ。そうやって魂を天へ運ぶ、と考える地域もある。ハゲワシが主だけど、カラスも寄ってくる」

 俺の背中が、薄く寒くなった。

 白い烏が指を吐き出した映像が、勝手に繋がりそうになる。

 師匠は、俺の顔を見て言った。

 「君の夢、たぶん予知じゃない」

 「でも“接触”はある。夢は、余白が多くある。そこに映像を置かれると、人は現実でそこへ寄っていく」

 俺は息を吐いた。吐いた息が軽くならない。

 「……じゃあ、これからも続くんですか」

 師匠は即答しなかった。ほんの数秒、考える間があった。

 それが、余計に怖い。

 「……あまり踏み込みすぎないほうがいいね」

 それが結論だった。

 俺も同意した。正直もう十分だ。これ以上は、体がもたない。

 師匠は俺の顔を見て言う。

 「今日は帰り、一緒に帰ろう」

 「確認だけ。深入りはしない」

 俺は頷いた。

 その時は、本当にそれで終わると思いたかった。

 夜。師匠と並んで歩いた。

 大学の門を出て街へ向かう。人の気配が薄くなるにつれて、俺の目が勝手に暗い方へ寄っていく。

 師匠は歩幅を合わせてくれているのに、俺の方が落ち着かない。足元ばかり見てしまう。

 例の細道の前まで来た。

 見るだけで胃が硬くなる。入口がただの近道に見えない。

 師匠が小さく言った。

 「……いる」

 その瞬間、師匠の目が変わった。柔らかい焦点が、一点に収束する。刃物みたいな目になる。

 白い烏がいた。

 街灯の届かない縁に、薄い白が置かれている。そこだけ色が抜けたみたいで、現実の中に穴が開いているように見える。

 白い烏は、こちらを見た。

 値踏み、という言葉が浮かんだ。俺を見ているのに、俺が人間だと思われていない感じがする。

 師匠が低い声で言う。

 「目を逸らさないで。……でも、追いすぎない」

 「私の横から離れないで」

 白い烏は、細道の奥へ跳ねていった。

 胸が嫌なふうに高鳴った。昨夜と同じだ。夢とも同じだ。

 師匠が一歩踏み出し、俺もつられて踏み出した。

 細道に入った途端、匂いが変わった。

 腐った湿り気と、土と、古いコンクリート。吐き気の下地みたいな匂いが、鼻にまとわりつく。喉の奥が勝手に狭くなる。

 気配も濃い。皮膚の上に細い針を当てられているみたいだ。

 歩きながら、俺はずっと昼の師匠の言葉を思い出していた。

 ――白いのは追われることもある。仲間外れにされることもある。

 昨日、夢の中で見えた白い背中。黒に追い立てられているように見えた白。

 俺の頭の中で勝手に結びつく。

 (……あいつも、ひとりなのかもしれない)

 そう思いかけて、自分に腹が立った。

 何を同情してる。関わればろくなことにならない。

 でも、その考えが消えない。

 路地の奥に、ゴミ箱が見えた。

 夢と同じ位置に「置かれている」。それだけで分かった。ここだ。ここが夢の場所だ。

 次の瞬間――背中の気配が消えた。

 師匠が、いない。

 「……師匠?」

 振り返る。そこにいるはずの茶色のコートと白いマフラーがない。

 いや、見えているのに届かない。距離だけが急に狂う。声が吸われる。

 俺は反射で手を伸ばした。

 「師匠!!」

 指先が空を掴む。

 そのまま、後ろが暗さで閉じた。出口が塞がった。

 心臓が一段落ちた。

 冷たいものが背骨を滑った。

 白い烏が、ゴミ箱の蓋の上にいた。

 こっちを見ている。

 目が、冷たい。悲しいとか苦しいとか、そういう色がない。あるのは、ただの“確認”だ。

 白い烏が鳴いた。

 うめき声みたいな、声にならない声だった。

 その一声で、黒い烏が増えた。

 上から。塀の上から。足元の影から。

 黒が集まる。集まって、俺を囲う。見下ろす。


 俺はそこで、ようやく気づいた。

 ――違う。

 孤独だとか、仲間外れだとか、そんな話じゃない。

 こいつは、追われているんじゃない。追わせている。

 黒い烏は、白をいじめているんじゃない。従っている。

 白い烏は、群れの真ん中にいる。

 鳴き声が笑ってるみたいに聞こえた。

 それが一番、気持ち悪かった。

 白い烏が、ゴミ箱を倒した。

 「ガタン」

 夢と同じ音。蓋が跳ね、黒い袋が転がり出る。袋の腹が裂けて、赤黒いものがこぼれた。

 臭いが跳ね上がる。胃がひっくり返りそうになる。

 赤黒いものが、集まりはじめた。

 塊になる。輪郭を持ちはじめる。

 夢の中で見た「それ」が、現実の地面の上で、組み上がっていく。

 ――夢が現実になる。

 頭が真っ白になった。

 足が動かない。声も出ない。囲まれている。逃げ道はない。

 ――もうダメだ。

 そう思った瞬間。

 「動くな」

 師匠の声が落ちた。

 空気が止まった。

 烏の鳴き声が途切れる。羽ばたきが止まる。蠅の羽音すら遠のく。

 赤黒い肉塊も、ぴたりと動きを止めた。

 師匠がいた。目が鋭い。

 さっきまでいなかった場所に、最初からいたみたいに立っている。

 いつもの顔なのに、距離感が狂うほど重い。

 分かる。師匠から、得体の知れない圧が出ている。刺すような威圧が、全方位へ広がっている。場の空気そのものを従えているようだ。

 師匠が一歩前に出る。

 足元の赤黒い肉片が、ずるりと退いた。師匠の通り道だけ、嫌なものが避けて道ができる。

 師匠は二歩、三歩と進む。

 白い烏まで、あと二メートルほど。

 白い烏が鳴いた。

 昨日までの声と違う。

 「烏の鳴き方」すら保っていない。完全に、人のうめき声だった。喉の奥から搾り出す、言葉にならない呻き。

 鳥が真似ているんじゃない。

 “声”が、鳥の形を借りている。そう感じて、背中が冷えた。

 師匠はそれ以上近づかない。

 ただそこに立って、空気を押さえつけた。

 黒い烏が一斉に飛び立った。羽音が爆ぜて、夜が揺れる。

 続いて、白い烏も飛び立った。白が闇に溶けるのが妙に速い。

 師匠が振り返った。

 「けがはない?」

 いつもの口調だった。

 さっきまでの圧が嘘みたいに薄まる。俺の体が遅れて震え始める。

 俺はようやく息を吸って、頷いた。

 師匠は周囲を一度だけ見回して、ぽつりと言った。

 「……あれはまずいね」

 その短い一言が、今夜いちばん怖かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ