『白烏(中)』
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
帰り道で、あの女に投げられた言葉が、ずっと耳の奥で残っていた。
――白いカラスは追うな。
たしかに俺は追った。自分で選んで、細道に入っていった。
その結果が、指で、鳴き声で、あの悪意だ。
布団に入って目を閉じても、鼻の奥にこびりついたみたいな匂いが消えない。焦げたような、生臭いような、吐き気の手前の匂い。
思い出すな、と思うほど思い出す。
部屋は静かなはずなのに、静けさが逆に神経を尖らせる。
外を車が流れる音がするたび、羽音に聞こえた。
寝返りを打って、また寝返りを打って――いつの間にか、意識が落ちた。
*
夢の中で、俺は歩いていた。
細い路地だった。昼ならただの裏道のはずなのに、夜の夢の中だと、そこが「穴」みたいに見える。壁が近い。空が細い。息を吐くと、吐いた息が引っかかって戻ってくる感じがした。
前を、白い烏が行く。
闇の中で、白だけがぼうっと浮いて見える。
俺は追う。
白い烏が一度だけ振り返った。
目が合った、と思った。
その瞬間、腹の底が冷たくなるのに、止まれない。
路地の奥に、ゴミ箱があった。
蓋が半分だけ開いている。蠅が群れている。羽音が細かく重なって、空気そのものがざらざらしているみたいだった。
匂いがひどい。腐った生ものの匂いが、鼻の奥に刺さる。吸い込むだけで胃が上下する。
白い烏が、ゴミ箱の縁に飛び乗った。
そして、倒した。
「ガタン」
金属が地面を打つ音が、やけに大きい。蓋が跳ね、ゴミ箱が転がる。中から黒い袋がひとつ、ずるりと滑り出た。
袋の一部が薄く透けて、赤黒いものが見える。肉片みたいな色。濡れているのに、乾いているように見える、嫌な赤。
白い烏が、その袋をついばんだ。
次の瞬間、裂け目ができたのか――中身が、どろり、とこぼれ出した。
赤黒い。粘っている。地面に落ちて広がるのに、伸び方が遅い。重たい。
匂いが、一段濃くなった。喉の奥が焼ける。息ができない。
こぼれた肉片が、集まりはじめた。
勝手に、寄っていく。
広がったものが縮む。縮んだものが塊になる。塊が、さらに輪郭を持とうとする。
――形になろうとしている。
俺は後ずさった。背中が壁に当たりそうになって、振り返る。
道が、なかった。
さっきまで確かにあった出口の方向が、闇で塞がっている。壁と壁の間が、ただの黒い面になっている。
逃げる先が消えている。
赤黒い「それ」が、にじり寄ってきた。
速くない。けれど止まらない。距離が確実に削られていく。
足が動かない。声が出ない。
捕まる、と確信した瞬間、頭の中に言葉が落ちた。
――もう、ダメだ。
そこで目が覚めた。
*
天井が見えた。自室の天井だ。
心臓が暴れている。胸の中で太鼓が鳴っているみたいだった。背中が汗で冷えて、シャツが肌に貼りつく。
夢だ。夢だった。
なのに、匂いだけが残っている気がした。腐った甘さが、鼻の奥にへばりついている。息を吸うたび、さっきの路地に引き戻されそうになる。
そして、いちばん嫌だったのは――
昨夜、夢で見たものが現実になった、あの感触が、また蘇ったことだ。
「夢だから大丈夫」と思った瞬間に、次は本当に来る。
そういう怖さが、骨の奥に残っている。
*
その日、俺は普通に大学へ行った。
講義を受けて、ノートを取って、学食で適当なものをかきこんだ。周りの会話が遠い。笑い声が薄い。自分だけ、別の層にいる感じがする。
キャンパスの端で烏が鳴いているのが見えた。黒い影が跳ねるたび、背中が勝手に硬くなる。
昼間の烏は、ただの烏だ。頭では分かっている。
分かっているのに、首を傾げる仕草だけで、昨夜の白が頭をよぎる。
授業の切れ目、俺は師匠を探した。
見つけたのは、人があまり通らない木陰のあたりだった。風が通るのに、空気はぬるい。
師匠は、いつも通りの顔で座っていた。
俺は、すぐ話し始めた。
昨夜のこと。白い烏。細道。指。黒い烏に囲まれたこと。
ある人にたすけられたこと。「白いカラスは追うな」と言って消えたこと。
それから、今朝の夢のこと。
ゴミ箱。蠅。黒い袋。赤黒い肉片。形になろうとする塊。出口が消える感覚。最後に「もうダメだ」と思ったこと。
師匠は黙って聞いていた。相槌は少ない。ただ、目だけが動く。俺の言葉を拾って、頭の中で順番に並べ替えているみたいだった。
話し終えると、喉がからからだった。自分の声がかすれたみたいに感じた。
師匠は少しだけ間を置いてから、言った。
「カラスはね、賢い」
それだけで、俺は嫌な予感がした。師匠の「賢い」は、褒め言葉じゃない。
師匠は淡々と続ける。
「群れる。学ぶ。覚える。顔を見分ける。人間の生活に寄ってくる」
「それに、情報を回す。危ない人間を見つけたら、別の個体にも知らせる」
俺は思わず眉をひそめた。
「……じゃあ、俺、目をつけられたってことですか」
師匠は否定しない。
「可能性はある。君が“見えてしまった”からね」
「カラスは、見られるのが嫌いなんじゃない。見られた“あと”を覚えるのが怖いんだよ」
ぞっとした。
昨日の黒い目が、一斉にこっちを向いた光景が戻ってくる。
師匠は言葉を続けた。
「『カラスが鳴くと人が死ぬ』っていう迷信、あるでしょ」
「迷信で片づけるのは簡単だけど、カラスは腐敗臭に敏感だし、弱ったものの動きもよく見る。人間の“終わり際”に寄ってくることが多い」
「だから、鳴く場所と、嫌な出来事が重なる。人はそこに意味を貼る。貼った意味がまた、現象を呼ぶ」
……師匠の口から「意味を貼る」という言葉が出ると、嫌に現実味が増す。
俺は唾を飲んだ。
「じゃあ、白いのは……?」
師匠の目が、少しだけ鋭くなる。
「白いカラスは、もっと厄介だね」
「自然界では目立ちすぎる。群れの中で浮く。追われることもある。仲間外れにされることもある」
その言い方が、妙に具体的で。
俺の頭の中で、白い背中が黒に追われる映像が勝手に出来上がった。
師匠はそこで、少し声を落とした。
「孤立した個体は、人の生活圏に寄りやすい。餌があるからだけじゃない。群れから離れると、“境目”に触れやすくなる」
「境目……?」
「この世と、それ以外の境目。鳥は空と地を行き来するでしょ。昔から、そういうものは“運ぶ”って考えられてきた」
師匠は淡々と、しかし短く区切りながら続けた。
「鳥葬、聞いたことある?」
「日本ではできない。法律もあるし、衛生的にも無理。でも文化としてはある。遺体を鳥に与えて、自然へ返す葬送」
「鳥は、肉を食べて骨を運ぶ。そうやって魂を天へ運ぶ、と考える地域もある。ハゲワシが主だけど、カラスも寄ってくる」
俺の背中が、薄く寒くなった。
白い烏が指を吐き出した映像が、勝手に繋がりそうになる。
師匠は、俺の顔を見て言った。
「君の夢、たぶん予知じゃない」
「でも“接触”はある。夢は、余白が多くある。そこに映像を置かれると、人は現実でそこへ寄っていく」
俺は息を吐いた。吐いた息が軽くならない。
「……じゃあ、これからも続くんですか」
師匠は即答しなかった。ほんの数秒、考える間があった。
それが、余計に怖い。
「……あまり踏み込みすぎないほうがいいね」
それが結論だった。
俺も同意した。正直もう十分だ。これ以上は、体がもたない。
師匠は俺の顔を見て言う。
「今日は帰り、一緒に帰ろう」
「確認だけ。深入りはしない」
俺は頷いた。
その時は、本当にそれで終わると思いたかった。
*
夜。師匠と並んで歩いた。
大学の門を出て街へ向かう。人の気配が薄くなるにつれて、俺の目が勝手に暗い方へ寄っていく。
師匠は歩幅を合わせてくれているのに、俺の方が落ち着かない。足元ばかり見てしまう。
例の細道の前まで来た。
見るだけで胃が硬くなる。入口がただの近道に見えない。
師匠が小さく言った。
「……いる」
その瞬間、師匠の目が変わった。柔らかい焦点が、一点に収束する。刃物みたいな目になる。
白い烏がいた。
街灯の届かない縁に、薄い白が置かれている。そこだけ色が抜けたみたいで、現実の中に穴が開いているように見える。
白い烏は、こちらを見た。
値踏み、という言葉が浮かんだ。俺を見ているのに、俺が人間だと思われていない感じがする。
師匠が低い声で言う。
「目を逸らさないで。……でも、追いすぎない」
「私の横から離れないで」
白い烏は、細道の奥へ跳ねていった。
胸が嫌なふうに高鳴った。昨夜と同じだ。夢とも同じだ。
師匠が一歩踏み出し、俺もつられて踏み出した。
細道に入った途端、匂いが変わった。
腐った湿り気と、土と、古いコンクリート。吐き気の下地みたいな匂いが、鼻にまとわりつく。喉の奥が勝手に狭くなる。
気配も濃い。皮膚の上に細い針を当てられているみたいだ。
歩きながら、俺はずっと昼の師匠の言葉を思い出していた。
――白いのは追われることもある。仲間外れにされることもある。
昨日、夢の中で見えた白い背中。黒に追い立てられているように見えた白。
俺の頭の中で勝手に結びつく。
(……あいつも、ひとりなのかもしれない)
そう思いかけて、自分に腹が立った。
何を同情してる。関わればろくなことにならない。
でも、その考えが消えない。
路地の奥に、ゴミ箱が見えた。
夢と同じ位置に「置かれている」。それだけで分かった。ここだ。ここが夢の場所だ。
次の瞬間――背中の気配が消えた。
師匠が、いない。
「……師匠?」
振り返る。そこにいるはずの茶色のコートと白いマフラーがない。
いや、見えているのに届かない。距離だけが急に狂う。声が吸われる。
俺は反射で手を伸ばした。
「師匠!!」
指先が空を掴む。
そのまま、後ろが暗さで閉じた。出口が塞がった。
心臓が一段落ちた。
冷たいものが背骨を滑った。
白い烏が、ゴミ箱の蓋の上にいた。
こっちを見ている。
目が、冷たい。悲しいとか苦しいとか、そういう色がない。あるのは、ただの“確認”だ。
白い烏が鳴いた。
うめき声みたいな、声にならない声だった。
その一声で、黒い烏が増えた。
上から。塀の上から。足元の影から。
黒が集まる。集まって、俺を囲う。見下ろす。
俺はそこで、ようやく気づいた。
――違う。
孤独だとか、仲間外れだとか、そんな話じゃない。
こいつは、追われているんじゃない。追わせている。
黒い烏は、白をいじめているんじゃない。従っている。
白い烏は、群れの真ん中にいる。
鳴き声が笑ってるみたいに聞こえた。
それが一番、気持ち悪かった。
白い烏が、ゴミ箱を倒した。
「ガタン」
夢と同じ音。蓋が跳ね、黒い袋が転がり出る。袋の腹が裂けて、赤黒いものがこぼれた。
臭いが跳ね上がる。胃がひっくり返りそうになる。
赤黒いものが、集まりはじめた。
塊になる。輪郭を持ちはじめる。
夢の中で見た「それ」が、現実の地面の上で、組み上がっていく。
――夢が現実になる。
頭が真っ白になった。
足が動かない。声も出ない。囲まれている。逃げ道はない。
――もうダメだ。
そう思った瞬間。
「動くな」
師匠の声が落ちた。
空気が止まった。
烏の鳴き声が途切れる。羽ばたきが止まる。蠅の羽音すら遠のく。
赤黒い肉塊も、ぴたりと動きを止めた。
師匠がいた。目が鋭い。
さっきまでいなかった場所に、最初からいたみたいに立っている。
いつもの顔なのに、距離感が狂うほど重い。
分かる。師匠から、得体の知れない圧が出ている。刺すような威圧が、全方位へ広がっている。場の空気そのものを従えているようだ。
師匠が一歩前に出る。
足元の赤黒い肉片が、ずるりと退いた。師匠の通り道だけ、嫌なものが避けて道ができる。
師匠は二歩、三歩と進む。
白い烏まで、あと二メートルほど。
白い烏が鳴いた。
昨日までの声と違う。
「烏の鳴き方」すら保っていない。完全に、人のうめき声だった。喉の奥から搾り出す、言葉にならない呻き。
鳥が真似ているんじゃない。
“声”が、鳥の形を借りている。そう感じて、背中が冷えた。
師匠はそれ以上近づかない。
ただそこに立って、空気を押さえつけた。
黒い烏が一斉に飛び立った。羽音が爆ぜて、夜が揺れる。
続いて、白い烏も飛び立った。白が闇に溶けるのが妙に速い。
師匠が振り返った。
「けがはない?」
いつもの口調だった。
さっきまでの圧が嘘みたいに薄まる。俺の体が遅れて震え始める。
俺はようやく息を吸って、頷いた。
師匠は周囲を一度だけ見回して、ぽつりと言った。
「……あれはまずいね」
その短い一言が、今夜いちばん怖かった。




