独占強欲
私の部屋には、木蓮の香りが充満している。本当ならば、梅の香りで満たしたい。
部屋に入ると、私はテュール皇子から手を離した。扇で顔を隠したまま、向かい合う。
「氷洞、菜の花畑も見せられず……振り回されたり……叱られたり……情け無いところばかり見せて……。おまけに昨夜。惚れてもらうどころか逆だな……」
先に口を開いたのは、テュール皇子だった。はあ、と小さな溜息。開口一番、言い訳を口にするかと思っていたのに、これは予想外。
「ええ。少々ときめいた心がスッと冷めました」
私は扇を下ろした。今の言葉の後なら、どんなにつれない態度でも……どうだろう? とりあえず、悲しい、拗ねた、そういう表情を取り繕う。少々ときめいたとは、大嘘つき娘である。しかし、単に冷たいだけではいけない。
テュール皇子の口元だけ見れば、ティダ皇子に見えないことも無い。ティダ皇子に待ちぼうけさせられた。そう思えば、演技出来そう。
「すまない。そなたの立場だと……とても心配させたり……嫌な気分にさせただろう……。枕元に置いてあった文には……肝が冷えた」
そろそろと、テュール皇子の手が私の手に伸びてくる。私はそっと避けた。袖の中に手を引っ込める。
「ええ……」
さて、どうしよう。初恋を叶える事も出来ない女が、男を魅了する。そんな事、出来るのだろうか? 私が有するのは、噂や文学の知識のみ。実経験は零。
「あの……その……三晩通うのではなく、今日から百夜通う。輝き姫の元へ通った帝のように……。それで、少しは信頼を取り戻したい……」
ん? 百夜通う? 私はまだ提案していない。私はテュール皇子の口元を見るのを止めて、顔を上げた。心底申し訳なさそうな、そして悲しそうな表情に、素直に胸が痛む。
「百夜?」
「ええ。勿論、その後も約束したように大事にします。嫌われたくないと口にしたのに、約束したのにこの体たらく。必ずや行動を持って、信用を得ます」
真摯な眼差しに、私は慄いた。私はこの真っ直ぐな瞳に応えられるような娘ではない。
「死ぬる命 生きもやすると こころみに……」
急な龍歌。テュール皇子の手が恐る恐るというように、私の頬に向かってくる。
「玉の緒ばかり あはむと言はなむ」
古典で読んだ事はない龍歌。テュール皇子自身が考えてきた? この意味は……恋しくて死にそう。ほんの少しでも逢うと言ってくれ。
私は……テュール皇子の気持ちが分かる。叶わない恋の辛さは知っている。テュール皇子は私の頬に触れなかった。拳を握り、伸ばした手を下ろした。
「私に拒否権などございません。ただ、どうせなら……夫となる方と……恋をしてみたいと思ったのです……。傷ついた理由……分かりますか? 気の無い方なら……」
言いかけて、私は口を噤んだ。まったくもって傷ついていないし、気も無い。酷い女。
袖から手を出して、私はテュール皇子の頬に触れた。手練手管ではない。自然とそうしたいと思ったから。
ゆらゆらと、陽炎のように揺れる眼差し。私は親指の腹でテュール皇子の頬をなぞった。とても滑らか。
「私の心を掴み、彩り豊かな世界を見せて欲しいです」
私は可憐——多分可憐——に笑ってみせた。愛くるしい笑顔と言ってもらった、その笑顔を浮かべる。おそらく、ぎこちないが、今の空気には丁度良いだろう。
「あの……あまりにも寂しくて、つい酷い文を送ってしまいました。すみませんでした」
愛嬌。しおらしく。私の勝気さや本音は封印。
これで、ナナリー様の顔が立ち、テュール皇子は私をもっと大切にしようと思ってくれる筈である。
テュール皇子を骨抜き以上にすると意気込んだのは昨夜なのに、もうそんな気分ではない。この人に、恋を出来たらと、そう素直に思える。百夜後も、勿論大切にしたい。その言葉が嬉しかった。
ボッと火がついたように、テュール皇子の顔が紅葉色に染まった。これは、想定外である。私の笑顔はそんなに効果のある、愛くるしさなのか? いや、私を好む、テュール皇子限定だろう。ティダ皇子は私の笑顔に対して、こんな風にはならない。
目元に手を当てると、テュール皇子は俯いてしまった。
「いくら酒をしこたま飲まされ、捕まっていたとはいえ……。好機を自ら捨てたとは……。ソアレ……」
テュール皇子が目元から手を離し、熱っぽい視線で私を見据えた。手が、伸びてくる。私は後退し、扇でテュール皇子の手を軽く払った。
「百夜後に摘んで下さいませ。憧れが叶うことを、祈ります」
私はテュール皇子に背を向けた。後ろから抱きつかれたりしなかったので安堵。テュール皇子は「明日、また来ます」とだけ告げて、帰っていった。
∞ ∞ ∞
同じ日の夜更け。深く眠っていたところ、突然起こされた。急に体が浮いたので、一瞬にして目が覚めたというのが正しい。
悲鳴を上げそうになると、口を塞がれた。
「強欲姫、檻から連れ出しに来た」
ティダ皇子の小さな囁き声。耳元での、あまりにも小さな声に、背筋がぞわぞわして、胸が甘ったるくなる。私を抱きかかえる腕はとても逞しい。熱い、全身が熱くてならない。ティダ皇子は、昨晩と同じように、顔を衣で隠している。
そのまま、部屋から連れ出された。困る。こんなの困る。私は彼の首に手を回したい衝動を抑えながら、どうしたものかと思案した。
部屋を出て、廊下を歩き、庭先の方へと出る。庭に、ティダ皇子の黒狼がいた。彼が音も立てずに跳ねると、黒狼も跳ねた。庭の小石がジャリッと音を鳴らす。
ティダ皇子は私を抱いたまま、黒狼に乗った。大型犬の倍はある体格の黒狼は、そのままもう一度庭を蹴り、急上昇。
「全く、大きな音を立てて、まだまだだな。まあ、良いレージング。頼む」
ティダ皇子が私から手を離し、レージングと呼んだ黒狼の頭を撫でた。あまりにも優しげな声に笑顔。かつて、私に見せてくれた表情、聞かせてくれた声色。これは……夢だ。願望がついに夢となった。
黒狼は皇居屋敷の屋根に乗り、風のように駆け、次は囲い、更には飛び降りた。堀を飛び越えて、皇居背後のユルルングル霊峰の岩へ着地。岩から岩へと飛び移っていく。
狼? こんなの、普通の狼ではない。
何処へ向かうのかと思ったら……梅。それに滝。梅の木が何本かと、滝がある岩場。黒狼はそこで止まり、腰を落とした。ティダ皇子は黒狼の背から飛び降りた。
寒い。
片手で私を抱くと、ティダ皇子は被っていた衣を手にした。腰を下ろした黒狼の横腹、尾に衣を掛ける。私はその上に降ろされた。
ティダ皇子は私のすぐ隣に座った。黒狼の体に囲まれて、ピタリと寄り添う私達。これは……もう寒く無いが……逆に熱い。
「では、酌を頼むソアレ」
悪戯っぽい笑みを浮かべると、ティダ皇子は懐から小さめの酒瓶を出した。次は盃。はい、というように酒瓶を渡される。
「これは……どういうことで……。それに、この狼は何者です?」
「花見だ花見。友の女でないなら、遠慮などいらん。可愛いそなたを存分に愛でられる」
ティダ皇子の手と顔が近づいてきたので、私は拒否した。上半身を捻る。
「おやめ下さい。気まぐれな遊びには付き合いません。私は……」
「咲かない花を咲かす女だと強欲、強情な姫。幾人もの男を掌でころり、ころり、と良い身分だな」
ティダ皇子の体が離れた気配がして、私は体の向きを戻した。
「幾人もの男を?」
「左様。百夜通えば、極上の華を愛でられる。そういう噂になっているぞ。テュールは闘争心、嫉妬心を煽られて、必死になるだろうな」
ティダ皇子は大笑いしながら、私から酒瓶を奪った。手酌で酒を飲み始める。
「噂になっているぞとは……もしや……」
「夢見る乙女の夢は、叶えてやるべきだからな。無駄だと思うぞソアレ。皇族や皇居の官吏男は一人の女を止まり木にはするが、必ず飛ぶ」
横目で、諭すように見られた。
「ご自分がそうだからと、他人もそうだと決めつけないで下さい」
口説かれるのかと思ったら、説教。気を許したら、彼に抱かれる数多の女の一人になるのか。この人に焦がれてならないが、私の頑なな心が彼の胸に飛び込むことを邪魔する。
急に、ティダ皇子が私の首に顔を寄せた。あまりにも突然だったので、避けられなかった。唇が触れるかと思って、体中に期待と嫌悪が駆け巡る。しかし、ティダ皇子は私に触れなかった。
「この俺に触れられたくないとは、本当に変人奇人だな」
「妻一人と決める方になら、幾らでも触れてもらいとうございます」
これは、夢ではなく現実。待ちに待ったティダ皇子の来訪だったが、苛々してきた。
「そなたが咲かせたいのは矜持の花か。咲かなかったらどうする。咲いてもすぐ枯れるぞ」
黒狼にもたれかかり、ティダ皇子は小さな溜息を吐いた。白い息が、ふわりと消えていく。梅の木にかかる雲のような息。呼吸だけで雅な人。
「分かりませぬ。十中八九、死ぬでしょう。他の方を愛でる殿に当てつけて、目の前で燃えるかもしれません。裏切り者の首を絞めるかもしれません」
「はあ?」
私はティダ皇子を見据えた。彼は明らかに狼狽し、顔色を悪くした。多分、私は物凄く可愛げのない表情をしているだろう。淡い紅色の満開の梅の香りに、くらくらする。意固地になっていないで、ティダ皇子の胸に飛び込める性格なら良いのに。
テュール皇子には、なかなか可愛げのある態度を取れたのに、今の私は正反対だ。
「忘らるる身をば思はず。そういうことです。そして、殿の性だと神が許そうとも、私は許しませぬ」
「忘れられても構わないとは大嘘ではないか。おい、最悪な事を申すなソアレ」
「縛られる事が最悪なのか、死ぬとまで言うのが最悪なのか、どちらでしょうか?」
ティダ皇子の上半身が少し、私から遠ざかった。
「どちらにも決まっているだろう」
「左様でございますか」
そっと手を伸ばして、ティダ皇子の頬に触れる。震えるかと思ったが、震えはしなかった。
「愛でる? 私はそこらの女とは違うのです。本気になるか、無理矢理組み敷くかどちらか一つ。私は決して誰とも遊びませぬ。そのようなこと、相手に許しません」
思いっきり、ティダ皇子の頬を抓った。ティダ皇子は女を組み敷いたりしない。それに、このぐらいでは怒らない。
痛いとも言わずに、ティダ皇子はポカンとしてしまった。茫然自失という様子。
「最悪だなソアレ。何ていう女だ」
頬をひきつらせると、ティダ皇子はスッと立ち上がり、スタスタと梅の木へと歩いていった。
最悪、最悪とは、ティダ皇子の方だ。嘘でも良いから「そなただけだ」と言え。そうしたら、私は何もかもを捨てて、彼の胸に飛び込める。
ティダ皇子は梅の枝を手折って、戻ってきた。
「ねやちかき」
小さな梅の小枝が、私の袖の上に置かれた。寝屋の近く?
「梅のにほひに朝な朝な あやしく恋のまさる頃かな」
へ?
梅の香りがする朝に……ひどく恋しく……。恋しく? そうだ、友の女で無いならと言っていた。ティダ皇子は、私がテュール皇子を恋い慕っていて、テュール皇子もそうであるからと、私から離れた。そういう事だったのかと今理解した。
どうしようもなく大好きな初恋の人から、思い出の花で告白。照れくさそうな表情に、胸がはちきれそう。
「人の心を振り回す最悪の毒花め。まあ、百夜後に折れてもらうからな」
立ち上がって、ティダ皇子に抱きつくつもりが、今の台詞で気持ちが砕かれた。ティダ皇子は飽きれ顔をした後、私に背中を向けた。百夜後? ティダ皇子は私に百夜通いする? 折れてもらう?
折れて?
私は袖の上の梅の枝を掴み、思いっきり投げていた。ティダ皇子の背中に梅の小枝がぶつかる。
「太陽を折るなど誰にもできませぬ!」
振り返ったティダ皇子は、みるみる顔色を悪くした。どうして、こうなる。
頑固で阿呆な私は、こうして初恋成就の好機を自らの手で捨て去った。
この時、一族がどうとか、背負うものについて、何も考えていなかった。単に「一生そなただけだ」と上辺だけでも言わないティダ皇子が、浮気三昧の日々を送る事に対する怒りしかなかった。怒りというより、憎悪である。
この激情的な恋慕は、私をいつか破滅させる。そういう予感がした。