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第一話 幸せなる生のもとに殉ず

いよいよ呼吸が苦しくなってきた。

すでに首を回すことすらままならないが、余力を振り絞って窓の外へと目を向ける。


空には、一人の老人の死など我関せずといった様子の烏が飛んでいる。


死が怖いというわけではない。

104年生きた。

色々なものを見た。


わたしは、戦争を見た。戦友がわたしの目の前で、敵の焼夷弾に焼かれ消える様を見た。友を、何人も送った。家族も送った。


たくさん、人を殺した。


御国のためというハリボテの大義名分に踊らされ、尊い生命をいくつと知れず奪った。殺戮に酔っていたわたしに言い聞かせてやりたいところだ。「お前が悪と断じ、殺した米兵にも家族や恋人、友人がいたのだぞ」と。


安らかに眠るほどには、わたしの両手は潔白じゃない。血にまみれた、汚く醜い赤色だ。


そんなわたしに、死を恐怖する権利があるというのか?


体に力が入らない。若い頃はこの両手に銃剣を握りしめ、突き刺し、ぶっ放した。

はじめて人の肉を突き刺した感触が、まだわたしの手のなかにはある。あれを皮切りに、わたしは真っ当な人間であることをやめたのかもしれん。自分が選択した生き方に、言い訳はしたくない。


わたしの病室のドアが、ノックすらせずに勢いよく開けられる。

駆け込んできたのは、70がらみの男と30くらいの男。そして、一人の男児。


肩で息を切らして飛び込んできたその老人に、見覚えはなかった。

誰だ、と声を発する前に、男がわたしの手を取った。

震えていた。


「お父さん…っ!」


ああ。

わたしはこの子の、父親だ。

なぜ一瞬でも忘れていたのだろう。どうやらわたしの記憶のなかでは、息子はあの純粋な少年のままで時間が止まっていたのかもしれん。


なんとかまだ回る口で、言葉を紡ぐ。伝えたいことは、山ほどある。


「いまさら止めるな…ひ孫まで見させていただいた、もう満足だ…」


我が息子、神田宏はふるふると力なく首を横に振った。

「嫌だよ…お父さん…俺、まだ言ってないこといっぱいあるのに…言いたいこと…たくさんあるのに、っ…!」


いつのまにか、すっかり老人と化した宏の目に涙が光る。どうしても、それだけは見逃せなかった。


「馬鹿たれ!男が泣くな!っ、ゴホッ…親が子よりはやく死ぬのは、当然だ!ひ孫まで…こんな可愛い男の子まで見ることができたんだ…わたしはもう幸せだ」


それまでずっと沈黙を守っていた孫、神田隆が口を開く。隆は確か、自衛隊に勤務しているはずだ。

軍隊にいた人間を看取るときの作法を、よく心得ているはず。


隆は、ピシッと直立の構えをとった。洗練された、無駄のない敬礼。

「神田正上等兵殿、任務は終了しました。貴方たちの働きのおかげで、今の日本は生きています。もう…もう、お休みください。…ほら、お前も」


5歳くらいの男の子が、隆の腕に抱かれてわたしの顔を覗き込む。

神田光。わたしのひ孫だ。

「ひいおじいちゃん、寝るの?」


わたしは、強張り始めた頬でにこりと微笑む。せめてこの子の前では、笑いたい。

「うん。わたしはね、今から遠い遠い御国に向けておやすみするんだよ」


光はこてんと首を傾け、それからわたしの頬を撫でた。

「そうなの?おやすみなさい、ひいおじいちゃん」


わたしの身体からどんどん力が抜けていく。かつての戦いで受けた傷も、わたしの心に刻まれた友の末路も。すべてが歴史の名もなき一頁として綴じられ、わたしが終わる。


神田正が終わる。


ああ、苦しいな。心臓のあたりが苦しい。

恐らく、今世最期となるであろう呼吸を一つ、する。


だが、まあ。

「悪くなかった。そして…たしかにわたしは…幸せだった。」


わたしは、一瞬だけ胸に激しい痛みが走るのを感じた。

だがもう気にならない。

気にしたところで、どうなるわけでもあるまい。


視界が閉ざされ、耳が遠のき、あまたの感覚すらも遠のいてゆく。


たしかにわたしは、生きた。凄絶な経験も、砂糖よりも甘い恋も、争いも、痛みも、平和も。


もし、生まれ変わりがあるとしたならば―


しかし、そんな思考を最後まで巡らせるほどわたしに残された時間は少なかったらしい。


生まれ変わりが、あるとしたなら。

その答えを見つける前に、思考が遠のき―


わたしは、その104年の人生に幕を下ろした。


――そう、確かに幕を下ろしたはずだったのだ。


それから、長い時間が経ったような気がした。

閉ざされた視界、消えた感覚。


しかし不思議なのは、感覚が消えたはずなのにどこからか、全身を包み込むような温かさを感じているところだ。


死後の世界というには、あまりにも侘びしく、不自由である。


まあ、いい。

もとより、罪を犯しすぎたわたしが極楽浄土へゆけるとは毛ほども思っていない。


…あと、これはなんだ。わたしの身体が、やけに動かしづらい。感覚が消滅しているから当然といえば当然かもしれんが、身体そのものの大きさがわたしと違う。


再び薄れてきた意識。睡魔に似た感情に意識が持っていかれるのを感じながら、わたしは先ほどより抱いていた疑問をようやくかたちにした。


「わたしは、死んだのではないのか?」


抗うすべなく、わたしの意識は再び沈んでいった。


――――――――――――――――――――――――


さ、寒い。

その感覚で、わたしの意識は完全に覚醒した。

というか、なぜ寒さを感じるのだ?感覚は消滅したはずなのに。


寒いといえど、全身が寒いわけではない。

足の先だけが寒い。さらに言えば、下半身の感覚がおかしい。不快なものとは違う。ただ、言いようのない不安。


そして、そのまま何者かによってズルズルっと「今まで温かかったもの」の中から引きずり出された。


「っ…!?」


まばゆい光が目にしみる。

…ん?目?

わたしはそこで悟る。

()()()()()()()()


目を開けることができない。開けたくないのではなく、開けるのが怖いというわけでもなく。

物理的に、開けられないのだ。


わたしはそのままなにかに身体を抱かれる。

わたしの身体は、その何かにすっぽりとおさまった。


ようやく、明るさに目が慣れてきた。

恐る恐る…いや、断じて恐いというわけではないのだが…その両眼を開く。


頬を蒸気させ、額に汗を光らせた女が、涙を流しながらわたしを抱いていた。…しかし、なぜか視界がぼやけてよく見えない。老眼ではなかったはずなのに。


知らない女に抱きかかえられている。その光景に、しばし唖然とする。

これは夢だろうか。

いや、もしかしたら今までの人生が夢だったのか?


その女は、困ったように笑いながら隣を見る。

もう1人、こちらも全く見覚えのない中年の女が手をパキパキと鳴らしながら顔をずいっと近づける。


「☆〜...○<#∀≫∣∬…???」

どうやら、わたしの反応に戸惑っているらしかった。

何を言っているかは、微塵も聞き取れなかったが。


そして、なんの脈絡もなくわたしを抱いていた方の女の隣から男がひょっこりと顔をのぞかせる。

わたしの顔を見るやいなや、ぬべーっと、まるで顔面の筋繊維が一本残らず解けたような、だらしない笑顔を見せる。


…そもそも、ここはどこだ。

わたしは何なんだ?確かに死んだ。わたしは神田正じゃないのか?

立て続けに疑問が湧いて止まらない。


そんなわたしの脳内に、なにかが流れ込んできた。


「おはよう、神田正。そしてようこそ、()()()()()()()。」




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