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竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―  作者: 竜敦国教会審問局
【最終章】結審編:霧の薄れた一夜
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第37話 抜剣

最終章「結審編:霧の薄れた一夜」全13話

5/31・0時より完結まで毎日更新予定

 銃口の冷たさが、額から伝わる。

 その感触を、ヴィクターは鮮明に感じていた。


 時間が、細く引き伸ばされていく。



 引き金にかかった指が、わずかに、動く。



「──!!」


 ヴィクターは反射的に宝剣から手を放そうとした。


 剣を捨てれば、身体を逸らすことができる。そうすれば銃口の軌道から逃れられると、一瞬で判断した。


 しかしヴィクターの本能は、同時に別の答えをも出していた。


 間に合わない。


 この距離では、どれだけ早く動こうと弾丸の方が速い。

 ジャックの指が動けば、その瞬間に全てが終わってしまう。


「ヴィクター! クソッ……」


 アレクサンドラは、考えるより先に身体が動いた。


 ダモクレスの剣を握ったまま、床を蹴る。


 距離は近い。

 このまま踏み込めば、ジャックを斬ることは叶うだろう。


 ───だが、それでは足りない。


 ジャックを斬る。

 しかしその前に、あるいは同時に、引き金が引かれる。

 そのことが、嫌になるほど分かってしまった。


 実際、アレクサンドラはそのままの勢いでジャックを斬ることができる距離にいた。


 ただ、それでは勝利とは言えまい。


 アレクサンドラがジャックを斬るのと同時に、ジャックの放った凶弾がヴィクターの眉間を撃ち抜くだろう。


 それでは相討ちだ。

 いや、ジャックが真祖に近い力を得ている以上、それだけで本当に倒せるのか。その保証すらないではないか。


「(この距離じゃ間に合わない!あいつを殺すことは出来るかもしれないが、ヴィクターは……)」


 ヴィクターは、額に銃口を押しつけられたまま、奥歯を噛みしめた。


 エヴァンズ家の宝剣では、ジャックに届かない。

 どれだけ鋭くとも、どれだけ鍛えられた刃であっても、今の彼を殺し切ることはできない。


「(クソ、癪だがコイツの言う通り……ダモクレスの剣が今の俺にもあれば……!)」


 必要なのは、竜裔を殺す剣。

 審問官の証。

 あの男(ウォルター)が、霧の中から返してくれた、今は手元にない、ダモクレスの剣。


 今だけでいい。

 この一瞬だけでいい。


「(コイツを……ジャックを斃す剣を、この手に……!)」




 ─────ふと、ヴィクターの腰元で何かが揺れた。




 俄に、そこにあるはずのない重みを感じた。


 謹慎処分のために取り上げられていたはずのもの。

 いまこの場にあるはずのないもの。


 それが、そこに存在した。



 ヴィクターの耳元で、誰かの声が蘇った。



『───次は手放すなよ? これは、お前が、真実を追う者である、証なんだからな』



 あの時、誰か(ウォルター)は確かに願った。



『……今すぐでなくてもいい。"そのときが来たら、お前の手に、その剣が収まっている"ことを祈る』



 ────ヴィクターの腰には、ダモクレスの剣があった。



 その肩に、銀地に赤の逆十字はなく、謹慎はまだ解かれていない。


 だが、そこにあった。


 鞘に納められたまま、腰帯に確かに重みを与えている。

 柄には、ほんのわずかに白い靄がまとわりついていた。


 それは竜敦の霧に似ていた。


 ヴィクターは、それがウォルターが消えた時の残滓であると直感した。


 鞘にまとわりついていた、微かな靄のような霧が、ふわっと宙に溶ける。



「どうする? 君が斬りかかるのが早いか、俺が彼を撃つのが早いか、試してみるか? アレクサンドラ」



 ジャックはまだそのことに気づいていない。


 彼の注意は、アレクサンドラに向いていた。


 彼女が斬り込むかどうか。

 それより早く、自分がヴィクターを撃てるかどうか。


 勝負はその一点に絞られていると、ジャックは思っている。



 ヴィクターは目を閉じた。


 恐怖から目を逸らすためではなかった。

 死を覚悟したためでもなかった。


 自分の腰に戻った重みを、確かめるために。

 そこに宿った祈りを、確かめるために。

 ウォルターが託した証を、今度こそ、手放さないでいるために!


「────」


 そして、静かに息を吸った。



「……我が審問にもとづき、敵を赤き竜に仇なす者と裁定」



 それは、形式的な儀礼の文句ではなかった。


 ヴィクターはここにおいて初めて、自分の意志で、審問官としての裁定を口にした。



「敵を討たんがため、我、審問官ヴィクターの名のもとに────」



 ヴィクターは徐に目を開いた。


 その視線が、真正面からジャックを射抜く。


 その目は、撃たれることを覚悟した者の目ではない。

 己の誇りを賭けて相手を斬り伏せんとする、騎士の目であった。



 ヴィクターの手が、腰の柄へ伸びる。


 そこでようやく、ジャックが気づいた。


「な!?」


 しかし、それはあまりにも遅すぎた。




「────ダモクレス、抜剣ッ!!」




 銀白の刀身が、鞘から走った。


 抜剣の勢いそのままに飛ぶ斬撃。



 銃口を向けるジャックの腕。

 ヴィクターの襟を掴む手。

 そして、真祖に限りなく近づいた、その肢体。


 そのすべてを断ち切るために、ダモクレスの剣が白く閃いた。



 ジャックの意識が、一瞬ヴィクターへ集中する。

 その一瞬を、アレクサンドラは見逃さなかった。


「……殺したいわけではないと言ったが、気が変わった。今すぐ死ね」


 彼女はすでに踏み込んでいた。

 ダモクレスの剣を、躊躇なく振り抜く。


 狙いは首ではない。

 まずは銃。

 そしてそれを握る腕。


 銀白の刃が、拳銃ごとジャックの片腕を切り落とした。


「ぐっ、が、は……!!」


 ジャックは、よろめきながらもヴィクターの腰を見た。


 そこにあるはずのない剣。

 霧の残滓をまとい、いま確かに抜かれたダモクレスの剣。


 それを見た瞬間、ジャックは理解した。

 死者の祈りが、霧の向こうから届いたのだと。


「そう、か、"最期の奇跡"……ウォルター、だな……あの男……」


 ジャックはよろめいた。


 残った片手を壁につく。

 指先が血で滑り、石壁に赤い跡を残した。


「う、ぐ……」


 そのまま体勢が崩れ、背中から壁へもたれかかる。

 血は、刷毛で塗りつけたペンキのように、壁面へ広がっていった。


「……まさか、新人の審問官が、ここまでとは」

「……」


 アレクサンドラは無言で歩み寄った。


 ただ、剣を構え、ジャックの首筋へ切っ先を突きつける。

 それが彼女の答えだった。


 ヴィクターもまた、アレクサンドラの隣に立つ。


 腰に戻ったダモクレスの剣を握り、反対側の首筋へ突きつけた。



 二人の刃が、ジャックの(くび)を挟んでいた。


「……ウォルターの生きた"証"だ。しかと心身に刻んで死んでいけ」


 ジャックの身体からは、白い粒子が零れ始めていた。


 血の赤が薄れ、身体の輪郭がほどけていく。

 先ほどまで真祖に近い威容を放っていた身体が、少しずつ霧へ還っていく。


 ヘンリーも、ウォルターも、そして頭上の赤き竜(ドラクル)でさえも、終わりの形は同じようにやってくるのだ。


「そう、だな……」


 ジャックは、空に溶け始めていた。

 にもかかわらず、彼の目から光は消えていなかった。


 彼はどこか満足げだった。


 なぜなら、二人はもう見てしまったから。


「だが、君たちは竜敦の歴史と、その真実を目撃してしまった。これまでの己ではいられまい」


 磔にされた竜公。

 "恩寵の帳"の正体。

 竜敦の、秘められた歴史。


 二人に焼き付いたその記憶は、ジャックを斬ったところで消えるものではない。



 ジャックは、口元にかすかな笑みを浮かべ、言った。


 それは呪いにも、祝福にも聞こえた。

 あるいは、審問官へ向けた最後の依頼だったのかもしれない。




「────世界を問い続けろ、審問官」


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