#04.泥水を啜る聖者
高い天井から吊るされた手製のランプが、薄暗い空間を一定の間隔で照らしている。
壁際やコンクリートの床には、色の褪せたキャンバス地のテントや、薄い建材で急造された粗末なプレハブ小屋がひしめき合っていた。
ところどころに発電機が稼働し、いたるところに不恰好な配線が這い回っている。
見上げると、薄暗い天井の奥で、巨大な鉄のファンがゆっくりと回っている。耳障りに擦れる金属音が降ってくる。視線に気づいたのか、車椅子を押すニコライが頭上から静かに口を開いた。
「音が気になるのか?ありゃあ換気用の巨大ファンだ。先は外気に繋がってる。制御部が崩落してっから今は発電機に直結させてんだ。音に関しては許してくれ、油に余裕がねぇんだ」
彼は誇るでもなく淡々と告げた。あれが止まれば酸欠と粉塵で死ぬだろうか。
突然壁が崩落した。土煙が上がる。ひどく乾いた咳。言い争う低い怒声。誰もが疲れ果て、泥と埃にまみれている。
ニコライの様子を見るに日常茶飯事のようだ。
「軍の救出計画は順調だ。戦闘も下火になってる」
よく言う。見えているのか?
「…..だが、網から漏れる奴らは必ずいる」
ガタガタと頼りない振動を立てながら車椅子を押すニコライが、頭上から静かに語りかけてくる。
「自力で動けなかった奴、手続きを弾かれた奴。ここは、そういう連中の吹き溜まりだ。俺はただ通り過ぎるつもりだったんだが。まあ、見過ごすにはあまりに惨めでな」
ニコライが歩みを進めるたび、彼の身につけた重たいケーブルや工具が、カチャカチャと規則的な金属音を立てる。
*車椅子を押すその手には、いくつもの真新しい生傷と油汚れがこびりついている。*
*「物資も人手も、全く足りてねぇ。俺の個人的な備蓄と機材を切り崩して、なんとか持たせてる有様だ」*
一人で生き抜ける人間が、他人のために泥を被っている。
それがわずかな違和感として引っかかる。
プレハブの隙間を抜けた先には、巨大な金属タンクと無数の塩ビパイプが不格好に絡み合った、巨大な手製の浄水装置があった。
その周囲には、空のペットボトルや汚れた水筒を握りしめた数人が、すがるような目で見てくる。ざわめきと不安の匂いが、澱んだ空気に満ちていた。
「邪魔だ! 叩くな、バルブがイカれるだろうが!」
ニコライが大喝すると、一人はびくっと肩をすくめて道を開けた。
彼は私の乗った車椅子を安全な壁際に押しやると、ため息をつきながら分厚いコートの袖をまくり上げ、赤いランプがついている操作盤へ行く。
「今度は何だ?」
操作盤のスイッチやボタンが次々に押されていく。赤いランプも消え、最終的には装置の電源も切れたようだ。
腰のポーチから工具を引き抜き、浄水機の心臓部らしいパネルを乱暴にこじ開けた。
濁った水蒸気が噴き出す。
ニコライは額に押し上げていた多重レンズのゴーグルを下ろし、左腕の端末から伸びるケーブルを、浄水機の基盤へと手際よく繋いだ。
彼の腕の端末が、せわしない電子音を立ててデータの読み込みを始める。
「攪拌機は、異常なし」
基盤は何度も修理されているようだ。焦げた基盤には油汚れがこびりつき、無数のピンがひしゃげていた。
「……第3フィルターポンプが死んでるな。お前ら、泥水の上澄みも濾さずに直接タンクにぶち込んだろ。何度言ったら分かるんだ」
ニコライの低い声に、男はすまない、子供が熱を出して急いでいたのだと顔を伏せる。ニコライはそれ以上は責めず、ただ舌打ちをして自身のベルトから予備の部品をもぎ取った。
車椅子の上から、その背中をぼんやりと見つめる。
バルブを閉める彼のコートはもうボロボロだ。下の部分は裂けている
彼の後ろ姿がとても孤独に見えた。
なぜ、こんな無駄なことをしているのだろう。
身一つなら、とっくに安全な場所へ抜け出せるはずなのに。
周りの人間はただ見ているだけで何もしていない。その中、一人が近づく。
「何か、手伝えることは───」
「邪魔だ!話しかけんな」
今までもこうなのだろう。
これからもこうなのだろう。
ガチン、と重たい金属音が響いた。
ニコライがメインレバーを引き下げると、巨大なタンクが低い唸り声を上げ、パイプの中に再び水が脈打つ音が響き始めた。
「動いた……」
避難民たちの中から安堵の声が聞こえる。
ニコライはゴーグルを額に押し上げ、手の甲で額の汗と油汚れを拭った。
泥水の処理を始める装置を背に、ニコライは再び車椅子のハンドルを握った。
少し離れた、巨大な配管の裏の比較的静かなスペースへと車椅子を押しやると、深く息を吐いた。
「まあ、こんな有様だ。俺一人じゃどうにもならん事もある。そうだ。あんたがこんな所に転がってたせいで、すっかり忘れていた」
彼は腰のポーチを探りながら、ふと思い出したように口の端を上げた。




