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§14

 前にもこんなことがあった。 街をさ迷うのは何度目か? その都度この街は雅枝を慰めてくれた。 パリは包容力のある母親のように彼女を迎える。


 行くあてはなかったが、ふと今、話をしたい、声を聞きたい思う人物が脳裏に浮かぶ。 雅枝は何も考えられない頭で、夢遊病者のように街をゆっくりと歩いて、その人物が働く街へ向かった。


 パリ東駅。 近くに北駅もあり、交通の要所のこの地区はフランスの東部と北部から首都を訪れる人々の玄関口で、東京で言うなら正しく上野だった。 映画になった北ホテルがあることでも有名なこの地区に、最近評判が上がりつつあるレストランがある。


 そのレストランの名は『三羽の野鴨亭』(トロア・キャナド・スバージ)という。


 駅前の大通りから脇道に折れ、車一台がやっとの路地にその店はある。 今夜も予約で満杯のはずだった。

 雅枝が店に着いた時間は正に一番混んでいる時間帯で、そんなに大きくはない店の前には、予約時間に少し早く着きすぎた客が、店の前に熾した炭火のコンロに手をかざしている。 彼女は店と隣の時計店の間の狭い路地に入ると、店の裏へ回り、木戸を開けて裏庭に入った。 そこでは店の若い下っ端が2人、ジャガイモの皮を剥いているところで、彼らは闖入者に少し驚いた表情を浮かべたが、相手が若い東洋の女性で、ムッシュ・ノダに会いに来た、と言うと頷いて仕事に戻った。


 皮を剥く2人の間をすり抜けて店の勝手口から中に入ると、ムッとするくらいの熱気と金属や磁器が当たる音、そしてとてもいい匂いが彼女を包む。 その時彼女は食事など出来る気分ではなかったが、思わず空腹を意識したほどだった。

 その時、元気のよい声が料理の指示を出し、それを受けて歌うような声が、ウイ、ムッシュ!と返る。 野菜の入った大きな籠が所狭しと並ぶ中、彼女はその先で繰り広げられる調理の様子をぼんやりと眺めていた。


 注文を受ける声、答える声、刻む音、コンロに当たるフライパンの、鍋の音。 手際よく並べられる皿に飾りつけられる料理。 湯気と匂いと流れるような人々の動き。 それは混乱に見えるが、実に無駄のないオーケストラの、バレエのような調和の取れた動きだった。 雅枝は人々の動きを見ながら、沈んだ心が少しずつ平穏に、落ち着いて行くのを感じていた。


 どの位、眺めていたのか、厨房が少しゆったりとした動きとなり、やがて、威勢のよい「ウイ、ムッシュ」を繰り返していた男が彼女に声を掛ける。


「やあ、奇遇だね、お嬢さん。 こんなむさ苦しいところにどうしたの?」


 雅枝が絶望に沈んだとき、ふと話をしたいと思った男が笑っていた。


「さあ、飲みなさい、温まるから。」


 厨房横のシェフの事務室で、雅枝は三郎からスープのカップを受け取ると言われるまま口を付ける。 やけどするほど熱い澄んだコンソメのいい匂いと深い味わいは、彼女を更に落ち着いた気分にさせた。

 

 シェフの事務室と言っても日本で言うなら二畳ほど、デスクと椅子2つでほぼ満杯で、雅枝と三郎も膝を互い違いに座らないとぶつかってしまいそうだった。


「ごめんなさい、忙しい時間に・・・」


「いや、もう峠は越したから大丈夫さ。 ビクトルもいいって言っていたしね。」


 三郎はそこまで話していたフランス語を日本語に切り替えると、


「それで、どうしたの、何があった。」


「クロードが・・・」


「奴がどうした?」


「軍隊の作った組織に入っていて・・・」


 雅枝は三郎が促すまま、ポツリポツリと話し始める。 クロードが何かにいらいらして、怒りっぽくなっていった様子、時々、彼女の知らない『友人』と夜遅くまで出掛ける様子、何かに落ち込んで一日中キャンバスの前で俯いていたり。 三郎は相槌を打ちながら、励ますように「それで?」とか「なるほど。」を連発し、彼女は久々の日本語に詰まりながらも次第に熱っぽく語った。


 すべてを話し終えて、雅枝が俯くと、三郎は、


「よく話してくれたね。 実は僕もおかしい、と思うことがあったよ。 かなり前から奴さん、ガチガチのウヨクだとは思っていたけれど。 というより・・・」


 三郎は腕を組んで天井を見上げると、


「あいつの場合は、ゴーリスト、と呼ぶより、パパリスト、だな。」


「パパ?」


「知ってるだろう? あいつの本当の父親のことを。 自ら進んで戦いに行ったんだ。 後に引っ込んでいて知らん顔していたら、きっと今も生きていただろうに。 この国にはああいう熱血漢が多くてね、あいつの育ての親までその類だからね。 今でもそれは変わらない、ってとこだな。

 でもあいつの場合、本当は実の母親が影響している気もする。 12の歳にゲシュタポだか親衛隊だか知らないが、そういう悪魔どもに目の前で連行され、連れ去られそれきり、だからね。 そんな経験したらいつまでも胸が痛むだろうね。 あいつは未だに母親や父親の影を追い掛けているのかも知れない。」


 三郎は目を細め、雅枝を見やる。 彼女は俯いたまま両手を膝に、握りしめている。


「悪いね。 あいつの悪口を言うつもりはないんだ。 僕はあいつと妙に馬があってさ、僕がこんな能天気だから、あいつの生真面目さや熱さにはいい受け皿なのかもね。」


「助けられない? 三郎さん。」


「俺が、かい? そいつは、無理だな。 考えてごらん、この2年ほど、誰があいつを助けていたか。 僕はその人にはかなわない。 まして、その張本人が助けを求めている・・・本当にすまない。」


 雅枝は嗚咽を漏らした。 三郎はただ腕を組んで天井を睨んでいた。


 2時間後、店が閉まると三郎は、片付けはいいから彼女を送れ、とピザニに言われ、雅枝をスクーターの後ろに乗せ、アパートまで送った。 しかし、アパートの前で止まると彼女は、


「もう少し、いいかしら。 まだ入る気になれない。」


「ああ、いいよ。 じゃあ、もう少しその辺を走るかい?」


「それより、どこかでお話し出来ないかしら?」


「うん、じゃあそうしよう。 この近くに前の店の時知り合った男がやっているバーがある。 大丈夫、柄は悪くない。 そこでいいかい?」


「いいわ。」


「じゃあ、そうしよう。 捉まって。」


 カルチェ・ラタンに程近い、深夜まで学生で賑わう界隈にあるカウンターバーで、2人は遅くまで語り合う。

 雅枝はワインを少しだけ飲み、三郎はウォッカをちびり、ちびり舐めるように飲んだ。 2人の話は、楽しかった2年前の思い出から日本の話まで取り留めもなく進み、雅枝は三郎のひょうきんな失敗談に、思わず笑みを浮かべるまでに気分を取り戻した。


 やがて雅枝が壁の時計を見て、


「ああ、いけない、もうこんな時間、あなた、明日も早いんでしょう?」


 三郎は笑いながら、


「もうその明日だよ。 大丈夫、マリアンヌが起こしてくれるから。 あいつは僕より30分早起きしなくちゃならないからね。」


「ごめんなさい、彼女にも謝らなくちゃ。 何も言わずに来たんでしょう?」


「構わないよ、気にしないで。 それより、何かあったらすぐに連絡をくれ。 今夜みたいに店に来てもいい。」


 雅枝は頷くと、改めてありがとう、と頭を下げた。


 三郎は再びスクーターに彼女を乗せると、酔ってはいなかったが慎重に運転して彼女をアパート前まで送り届ける。


「本当にありがとう。」


「お安い御用さ。 ボン・ニュイ(おやすみ)。」


「おやすみなさい。」


 雅枝はスクーターが角を曲がって見えなくなるまで見送ると、溜息を吐いてアパートの階段を上がる。 コートのポケットから鍵を出すと鍵穴に差し込み、ノブを回す。 鍵が掛っている。 ということは、クロードは鍵を開けて待っていたのだ。 彼女は少し気が楽になり鍵を回し、ドアを開けた。


 中は真っ暗だった。 手探りで玄関灯のスイッチを探し、押すと小さな電球が点灯する。 クロードはきっと寝ているのだろう。 起こさないように靴を脱ぎ、靴下のまま部屋を横切る。


 その時、何かがおかしいのに彼女は気付く。 部屋の中はもう、闇の中でもどこに何があるか、大体分かっている。 だから暗闇でも何かにつまずくくことはありえなかったが、そのありえないことが起きた。 何かを踏んだのだ。 それは固い板の様なものにゴツゴツしたものが張り付いたもの。 彼女はすぐにそれが何か悟った。


 慌てて飛び退り、手探りで壁際に行くと、途中でいろいろなものを踏んだり、躓いたりする。 もうクロードに構わず明かりを付けた。


「なに、これ。」


 彼女は思わず日本語で声を上げた。 ついさっきまで日本語を使っていたからかも知れないが、理由はそれだけでなかった。


 部屋の中は、まるで竜巻が通り過ぎた跡のようだった。 画材が散乱し、イーゼルが折られ、キャンバスが破かれ叩きつけられ、あちらこちらに散乱している。 家具も、椅子が壁に叩きつけられて壊され、小机が叩き割られている。 ベッドは横倒しとなり、壁の時計が叩き落とされ、ガラスが散乱していた。 踏まないでよかった。 彼女はショックの余り、細かいことに安心したが、やがて、


「クロード! クロード?」


 クロードはいなかった。 怒りに任せて部屋を荒らし、飛び出して行ったのだろう。 それにしても、あの穏やかなクロードが、まるでゴリラが、それも集団で暴れまくった感じの破壊を・・・雅枝は破壊を通して彼の深い闇を見た思いだった。


 彼女も疲れていた。 そのまま倒れたベッドからマットレスを引き出し、その上に着替えもしないで寝転がると、毛布を掛けて目をつぶった。


 浅い眠りと何かに追われる夢と、ぼんやりした覚醒と・・・それを幾度か繰り返したと思ったら、朝がやって来た。


 朝。 彼女が散乱した画材を集め出したころ、呼び鈴が鳴る。


「はい?」


 彼女は中を見せないように少しだけ隙間を開け、外を覗くと、


「ルフェーヴルさんで?」


「そうですが?」


 中年のツナギの男性がニコニコ笑っていた。


「引越し屋です、ここを片付けてくれ、って言われましてね。 よろしかったですか?」


「片付け、ですか? いったい誰に・・・」


 頼まれた、と言い掛けて、それをするのは一人しかいないことに思い至る。 彼女は思わずごくりと唾を呑む。 悪い予感が満ちて来る。


「ええ、ルフェーヴルさん、旦那さん?ですよ。 なんでも部屋を友達の酔っぱらいに荒らされたから、壊されたもの全て捨ててしまいたい、とかで。 そうそう、これを預かって来ました。」


 男は胸のポケットから白い封筒を取り出すと雅枝に渡す。 何か中が膨れた封筒だった。 彼女は受け取ると、ドアを開け、


「分かりました、言われた通りにお願いします。」


「それはどうも、オイ。」


 男は後ろに控えていた2人の男に声を掛け、雅枝の横を抜けて中に入り、片付けを始めた。


 雅枝はフランス窓を開けてベランダへと出た。 そこの無事だった椅子に腰掛け、手紙を開封する。


 まず、零れ出たのは、茶色に変色しぼろぼろと崩れやすい何かの花の一房、ドライフラワーだった。


「リラ?」


 それは辛うじて4弁の花が連なった小枝だと分かる。 間違いない、リラの花房だった。 もちろん、リラが咲くには2ヶ月ほど早い。 これは昨年かその前か知らないが、摘み取ってドライフラワーにしたものだ。 彼女はそれをもう一つの椅子の上に置くと、中から便箋を振り出す。 


 白い無地の紙に、乱れて読み難い筆致で書いてあるが、崩れてはいてもクロードの筆跡に間違いはなかった。

 

 『 マサエ

 

 ごめん、本当にすまないことをしてしまった。


 君と2人でいると僕は甘えてしまう。 僕は独りよがりにも君に碇になれなどと頼んだけれど、やっぱりそれではいけないと思う。 君の安らぎに身を任せて、大事な使命を忘れてしまいそうだ。

 それに僕は使命を捨てて君を選んだとしても、きっと君を幸せには出来ないだろう。


 このままでは僕らの未来には不幸が待っているだけだ。 君は悪くない、僕が弱いんだ。 どうか許してもらいたい。


 僕は新しい世界に踏み込むことに決めた。 どうせ卒業したらそうするつもりだった。 だからこれは君のせいではない。


 僕は、僕の使命と君の人生をだめにしないため、この花を贈る。 この花が咲く頃には、僕は使命のため旅立つだろう。


 愛している、今まで本当にありがとう、幸せになってほしい。 さようなら。


追伸。 気付いているかい? 僕以上に君の事を愛している男がいることを。


                             クロード 』


 雅枝は読み終えると、ベランダの手擦り越しに見えるパリの街並みを見つめた。 涙は頬を濡らしたが、頑なに外を見続けた。 やがて引越し屋が、


「終わりましたが。」


「ありがとう、御苦労さま。」


「本当にいいんですかい? ここの全部捨てて。 そうするとこの部屋は随分と殺風景になりますが。 あ、こりゃ失礼。」


「ええ。 構いません。 新しくしますから。」


「分かりました。 では、失礼しました。 ごきげんよう。」


「さようなら。」


 彼女はその会話中、ずっと空を見ていた。 涙が止まるまでには、今暫く掛りそうだった。



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