§13
56年9月。 雅枝とクロードは同棲を始めた。
彼女は7月末に留学期間を修了し学校を出ると、8月、住み慣れたルナール夫人のアパートを出た。 2人で暮らすには手狭だったからだ。 夫人は涙を浮かべ、門出を祝ってくれた。 住人たちから花束を貰い、祝福を受けた。 今にして思えば、実にいいアパートに住む事が出来て彼女は幸運だった。
雅枝がフランスに残り、この先どうなるかはまだ分からないが、クロードと一緒に進む、と決心したあと、当然ながら、最初にしたのはクロードと話し合うことだった。
重大な話がある、と雅枝がクロードに伝え、でもあのオフィスではいやだ、と彼女が言うので、クロードは暑い一日だったこともあり、風が気持ち良いモンパルナスの丘に向かった。
夜景を前に、公園のベンチに腰を降ろし、周囲はみなカップルで、みんな自分たちのことに夢中で近くに聞き耳を立てるような人間はいないのを確認すると、雅枝は一言、はっきりとした声で、
「8月になってもあなたと一緒にいてもいい?」
クロードは暫く彼女の顔を見つめたあと、呟くように、
「本当は、それを聞きたかった。 けれど・・・」
何かためらったが、すぐにあの雅枝を一目ぼれさせた笑顔を浮かべて、
「済まない、君を追い込んでしまったね。」
「そんなことはないわ。 あの時あなたが言ったことはもっともだった。 だから私は自分のことを自分で決めたの。 だから後はあなたが自分で決めて。 私はあなたが何を言ってもそれに従うから。」
「分かった。 雅枝、一緒に住もう。」
「え?」
「ずっと考えていた。 僕には何か『イカリ』が必要なんだとね。 船の碇さ。 そうでないと僕はどこかへと漂って行ってしまいそうだ。」
そこで彼は雅枝を抱きしめると、
「まだこの先、君と一緒に人生を歩めるか、自分が見極められないから、申し訳ないけれど、まだ君にプロポーズは出来ない。 そんな僕がこんなことを言うのは、図々しい話だけれど・・・僕の碇になってくれないか?」
「もちろん、ウイ、よ、クロード。」
安心と幸福と希望が一気に彼女を満たし、パリの夜景と穏やかで心地よい風がそれを演出した。 ひょっとするとこの瞬間が彼女とクロードの頂点だったのではないだろうか。
クロードが家を出るに当たっては、それなりの手続きが必要だった。
外で暮らす事は、1年後に迫った大学卒業後に、と話し合って決めていたが、それを前倒しして雅枝と暮らす、という息子にルフェーヴル夫妻は、顔を見合わせる。
「よく考えてのことだろうね、もちろん。」
「考えたよ、父さん。」
「約束通り最初は家賃を援助するが・・・その、彼女と結婚するつもりはあるのか?」
「それは暮らしてみないと分からない。 2人とも一緒に暮らして、それでも変わらないなら先へ進もう、と考えているよ。」
するとイレーヌ夫人が、
「マサエさんは、本当にあなたと暮らしたい、と願っているのね?」
「そうだよ。」
「雅枝さんとお会いしてもよろしくて? クロード。」
ということで、雅枝はルフェーヴル家に呼ばれた。 最近は正餐でない限り普段の服装で行く。 この日は暫く考えて地味なスミレ色のワンピースにした。
「それでマサエさん、クロードと一緒に住むと聞いたが?」
食事の後のコーヒーでニコラスが尋ねる。
「はい。 出来ましたらそうしたいと考えています。」
「あなた、無理はしていないわね?」
珍しく夫人が軽いエチケット違反で会話に割り込んだ。
「はい、自分の意思で、クロードさんの希望を受け入れました。」
視線を外さず、揺らぎなく耐える様に集中する。 彼女は緊張こそしていたが決意は固かったので、目線が揺らいだり身体が震えたりするようなことはなかった。
やがて夫人は眼を伏せると、
「あなた方がそこまで考えているのなら、私は反対致しません。 結局、あなた方は自分の責任は自分で取る歳になっているのですから。」
そこでニコラスが咳払いをして、
「私も異論はない。 ただし、クロード。」
「なんでしょう、父さん。」
「彼女が近い将来、お前のわがままで泣くような羽目にならないよう、くれぐれも気を付けるんだぞ、いいな?」
クロードは暫し義父の顔を見つめたあと、軽く頭を下げ、
「がんばるよ、父さん。」
2人は9月からカルチェ・ラタンに近いアパルトメントに住み、週に2回はルフェーヴル家を訪問することになった。
正に夢のような日々だったに違いない。 まず、8月末に雅枝のアパートから荷物を(といってもリンゴの木箱3箱分だけだったが)新居に運び雅枝が引っ越した。 続けて9月、クロードがその何十倍もの荷物と共に新居に入ると、たちまち広かったアパートが手狭になった。 そのほとんどが彼の絵画で、雅枝は彼だけでなく彼の作品とも暮らすようになった。 私はきっと将来、クロード・ルフェーヴルの鑑定では右に出るものはいなくなる、と彼女は冗談交じりに書いている。
南向きの窓で日当たりが良い。 その窓は大きなフランス窓、3階の外はベランダで、椅子が2脚、2人はよくそこでワインやコーヒーを飲みながら語らった。 部屋はクロードの自宅の部屋さながらで、たちまち彼のアトリエとなる。 真剣に卒業製作に取り組むクロード。 壁一面の半分ほどの大きな作品で、漆黒の闇の黒に赤い光の矢が飛び交い、その向こうに裂け目があってそこから妙に写実的な空、青い空と白い雲が覗いている。 その下、俯いて歩いている様に見えるいくつもの影は人間の集団だろうか・・・
これらのことはみんな日記に書いてあり、雅枝が構図を鉛筆で模写したので、クロードの作品がどんなだったのかも分かった。 部屋もいくつかデッサンが1ページ使って描かれていて、本当に芸術家の家だな、と分かるキャンバスの山に囲まれた部屋だ。
いいことばかりでもない。 嫌なこともあった。
10月になると、人を使って調べたのだろうか、居場所を知らせてもいなかった父から、一度フランスに渡ってクロードの親と話す、と半分脅しのような手紙がアパートに送られて来た。 しかし雅枝は冷静で、その日の夜、時差を計算して実家に国際電話をかけて(彼女がそういうことをしたのも初めてだったが)、もし来仏してもそれではご両親にはご迷惑がかかるし、そもそもこれは2人の問題でクロードの両親は関係ない、私とクロードなら喜んで会う、そう言う趣旨のことをはっきりと父親に言った。 父親は黙って電話を切り、以降、二度と連絡はなかった。
しかし、生活は概ね順調で、クロードが絵と取り組む間、彼女も絵を描いたり、手に職を付けたいと、クロードから教えて貰ったブールやバゲット、クロワッサンを作りながら勉強したり、充実した日々だったように見える。 特にパン作りには雅枝は才能があったようで、クロードのレシピをすぐに飲み込んで、12月、恒例のルフェーヴル家のクリスマスディナーでは雅枝の焼いたバゲットが供された。
これにはイレーヌ夫人が絶賛で、若いころに祖母から教わったというパン作りで一流のパン職人の腕にも負けない技術を持つ夫人のお墨付きを得て、雅枝も満足の一夜だった。 しかし、この素晴らしいクリスマスが彼ら揃っての最後の正餐となった。
明けて57年、昨年末に失敗に終わったスエズ動乱やアルジエリア戦争の泥沼化(このころパリ市街でも爆弾テロが起こり始めた)により第4共和制政府に陰りが出始めたころ、2人の生活にも影が見られ始めた。
2月、クロードの製作も追い込みの段階に入った。 4月の提出期限まで2ヶ月、雅枝は次第にナーバスになって行くクロードに気遣って、夜は別々のベッドで寝たり、昼間は外に出掛けたりと、2人が常に一緒にいる状態ではなくなっていた。
雅枝の美術学校時代の交友は未だに続いていて、1年間延長して残ったジャンや、まだ2年残すアンリやアントワーヌともことあるごとに外で会い、情報交換したり遊んだりしていた。 中でもジャンは相変わらず雅枝を気遣い、ちゃんと食べているか、なんだか元気がないね、少しは絵を描いている? などと、まるで兄妹のように彼女のことを気にしていた。 そんなジャンに雅枝が気になることを打ち明けるのは当然の流れだった。
「最近、クロードが何かおかしいの。」
3月、3週間振りにジャンと会った雅枝はこう切り出す。 ジャンは彼女の話をいつものように黙って聞いてから、暫く考え、こう言った。
「分かった。 少し調べてみるよ、いいね?」
「あまり大げさにしないでね?」
「もちろんだとも。」
ジャンは1週間後の夕刻電話を掛けて来て、雅枝を呼び出した。
「少し迷ったが、君が彼と結婚まで考えているとすると、知っておいた方がいいことがある。」
ジャンは珍しくもって回った言い方で、雅枝を直視した。 雅枝は不安で息が荒くなるのを感じた。 ジャンはカフェの周りの席を窺い、誰も聞き耳を立てていない、と確信すると、雅枝が唖然とすることを伝えた。
「そう、彼は確かに軍部とつながっている組織に所属している。 これ以上は頼んだ者も危険過ぎる、と拒否した。 ただし、この情報だけで彼と対決してはいけないよ。 君が本当に彼を愛するというのなら、それが犯罪的でない限りそれをも受け入れなくてはならないかもしれないからね。」
ジャンは最後にそう言うとボーイを呼び2人分の料金を払って、じゃ、また、といいつつ去って行った。
雅枝は重い足をゆっくりと運び、夕食の時間ぎりぎりに帰った。
「遅かったね、お腹が空いたよ。 作るには遅いから、どこかに食べにいこう。」
最近になくクロードはご機嫌で、雅枝の手を取るとにっこりと笑う。
「手が冷たくなってるよ。」
そして熱烈な抱擁とキスをしたが、雅枝が半分棒立ちなのに気付き、
「どうしたの?」
雅枝はジャンの警告を無視した。
「昨夜、どこへ行ったの?」
「言ったじゃないか、大学の友人、トレ君のところだよ。」
「何をしていたの?」
「話をしていただけさ、ははぁ、そうか。」
クロードは苦笑すると、
「君は僕が浮気をしていると思っているね?」
「ある意味、そうかもしれないわね。」
雅枝は自分でも驚くほど冷たい物言いになって行くが、止められなかった。
「じゃあ、トレ君や他の人間に聞くがいい。 ああ、口裏を合わせている、と思われてしまうかな? じゃあ、探偵でも雇うかい?」
クロードは茶化していたが、眼が笑っていない。 雅枝は確信を突く。
「昨日の晩、あの郊外のオフィスビルに行ったわよね?」
「え? 何だって?」
「見た人がいるの。 それにあなたの言うトレさんは陸軍の方よね?」
クロードは肩を竦めて、
「おもしろいね、それで?」
「あなたは陸軍の軍人さんが組織する結社に所属している。 1年前からだそうね。 その組織は情報収集やスパイ活動を行っていて、2週間に一度、あのオフィスで会合が持たれる。 あなたは自分の大学の中、左翼系学生や教師、アルジェリアの独立に賛成する人たちの情報をその人たちに流していた。 違う?」
「ああ、その通りだ。 ジャンか、そうだろうな。」
「・・・どうして? クロード。」
「どうしてかって?」
クロードの顔が豹変する。 思わず雅枝は身構えるほどだ。
「なぜ? なんでそんなことを・・・」
雅枝はそれしか言えない。 するとクロードは真正面から彼女を見据え、腕を振るようにして吐き出すように言う。
「なぜか? 当たり前のことだ、フランス人としての義務だからさ。」
「なにそれ。」
クロードは何か苛立たしげに咳払いをすると、
「君に分かる訳がない。 関係がないから。」
「関係、ない?」
「そうだ。 東洋人である君に僕の気持ちを伝えたところで、理解して貰えるとは思えない。」
「東洋人?」
「そうさ、君は異邦人だから。 コロン(植民者)の苦しみ、それが君に分かるか? 荒れ果てた滋味に乏しい大地に、自分たちの汗と涙と、時には血も捧げ、ようやく自分たちだけなら食べて行けるだけの作物が育つんだ。 そうやって先代の犠牲と自分たちの勤勉によって、生活の基礎が築かれた。 その自分の身体に等しい大地を、野蛮人どもが奪っているんだ。 何も苦しまずにいて、ただフランスの偉大な恩恵だけを得る、そんな輩が地道に歩んで来た彼らコロンをいたぶり殺しているんだぞ!」
興奮したクロードは手を振りまわしながら室内を歩き始める。
「え? 君は理解できるのか? フランスの権利は守られなくてはならないし、コロンの生存権も尊重しなくてはならない。 何の努力もなく学びもせず、フランスから様々な恩恵を獲たにも係わらず、与えられるだけ受け取ると、今度はその成果ごと独立だとほざく。
一体奴らが何をした? フランスは奴ら未開の土着民に、世界有数の文化を学ばせ、教育を施し、豊かに暮す術を教えた。
その結果奴らはどうしている? 得るものだけ獲たら、彼らの教師であり親であるフランスに石を投げる。 唾を吐いて凌辱する。 多くの罪なきコロンが死んだ。 奴らは思い知らなくてはならないんだ。 え? 分かるのか君に!」
いつの間にかクロードは雅枝の両肩を掴んで、揺さぶっていた。 雅枝は涙を堪え、そのまま彼の顔をじっと眺めた。 クロードは何をしているかに気付くと、さっと雅枝を離し、暫く肩で息をすると、
「すまない。 怖がらせるつもりはなかった。」
雅枝はかぶりを振ると、
「あなたは、ゴーリスト、なの? お父様のように。」
クロードは吐息をついて苦笑いをする。
「どっちの父のことかい? まあ、両方共にドゴールを信じ大戦を戦ったから、どちらもゴーリストだけどね。 僕もそういうことになるだろう。」
そこで彼は頭を振ると、
「でも、僕は父が命を掛けて戦い、フランスの自由と尊厳を守った土地が失われるのを見ていられないのさ。 僕は一度もあの地へ行ったことはないけれど、精神的には、ピエ・ノアール(アルジェリア植民者)なのかも知れない。」
「でも、そのピエ・ノアールでもあちらの人と仲良く共に生きている人もいるわ。」
「ああ、知っている。 君の学校に一人いたよな? 裏切り者のピエ・ノアールが。」
「そんな言い方・・・」
「やめて欲しいか? だから君は分からない、というのさ。 教えてやろう、君の元友人のレイモン・ギエールは2ヶ月前、アルジェで死んだよ。 我が空挺部隊の鎮圧掃討作戦の結果ね。」
雅枝は眼を見開いたまま凍り付く。 クロードはまるでメフィストのように冷たい笑いを浮かべると、
「当然だろう。 彼はれっきとしたフランス人であったのにもかかわらず、国内でテロを起こし、逃亡し、フランス領でフランス官憲に暴力行為をしかけたんだ。 どこがおかしい? え? 僕は何か間違ったことを言っているかい?」
雅枝はよろよろとドアへ行き、さっき脱いだばかりのコートの袖に腕を通す。
「どこへ行くんだ?」
「ごめんなさい。 少し考えたいの。」
「ああ、よく考えるんだな。 僕は僕だ。 誰も変えられない。」
それが雅枝が最後に聞いたクロードの生の声になった。




