§12
この56年、本来なら雅枝は7月ですべての科目を終了し、留学を終えるはずだった。 しかしこの年、雅枝は日本へ帰国することはなかった。
雅枝が留学した美術学校は比較的新しい私学で第一次大戦直後に開校し、クロードが通う保守的な国立大学に対抗し、型にはまらない講義と、モダンアートや写真、工業デザインなども取り入れた新しい芸術教育を目指していた。 そのため、留学生や奨学生を多く受け入れ、学内は多彩な人物と人種の織りなす喧騒で活気に溢れていた。 残念なことにこの活気が仇となり、学園紛争へと突き進んで行くが、それはもう少し後の時代のことだ。 この時代、海外領土問題で対立が生まれたものの、幸いなことに10年後のようにバリケードが築かれたり、学内に内務省の軍隊が突入したりするようなことにはならなかった。
雅枝は、といえば年明け早々、卒業製作に取り掛かった。 雅枝の留学もクライマックスに差し掛かっていた。
彼女は、天気がよければ冬のパリ市内の公園やフォンテーヌブローの森をデッサンしてまわり、寒さに凍えそうな日や雪の日には、部屋に籠もって筆を重ねた。
この一年、絵の方はとんとお留守にしていた、と反省し、真面目な彼女のこと、仕上げに入る4月にはクロードとも3週間会わず、それだけの長い間会わなかったのは、2年前に初めて出会った時以来初めてだ、とても辛い、と正直に書いている。
ところで雅枝は一体何を描いていたのか? 実は分からない。 日記には直接、何の絵を描いているとの記述がどこにもない。
でも、ヒントは日記の隅々にちりばめられている。 2枚1組の連作で、うち1枚は縦40センチ前後×横60センチ前後、いわゆる12号くらいのキャンバスに描かれた油絵、連作から想像するに2枚目も同じ大きさだったのではないか、と思われる。
雅枝は一枚ずつではなく、同時進行で描いて行き、提出期限の3日前、留学生の全提出者11名中5番目に提出した。 こういうことは書いてあるのだけれど、肝心のどんな絵か、は断片をつなぎ合わせ足りないピースは想像力で補わないといけない。
私は自分で様々な絵を想像し、ネットで見ることが出来る古典絵画を漁り、市立図書館で画集を山積みにしてみたりしたけれど、どんな絵だったかは確信がない。 だからここでは微かなヒントだけ並べておく。
雲の色に迷いがある。 エンジがうまく出せない。 右下にあった岩を消してみた。 時間経過を1枚で表現するのは無理がある。 2枚目が必要だ。 キューピットのだまし絵。 光を一本加えた。 もっと青く、深く! 地平に起伏を足す、変化を劇的に見せたいが力不足を痛感・・・などなど。
ちなみにこれらはお祖母ちゃんの生の記述ではなく、例によって私が少し表現を変えているから、それが仇になってますます分かり辛くなってしまったかも。
とにかく、風景画らしい謎の2枚を指導教官に提出し、その日は消耗しきって少し抜け殻のようになった気分で自分の部屋に帰るとベッドの中、何もせずに眠って一日過ごした。
多少すっきりした翌朝、さあ、これでクロードに会えるとはしゃぎ、ワクワクしながら彼に電話して会える日を決める。 すぐに飛んで行きそうなものだが、彼の方も学校の展覧会前、製作で忙しかったのだ。 やるべきことをやって気が楽になった雅枝は、さあ、3日間、どうやって過ごそう?と考えた途端、まるで冷水を浴びるような現実に思い当たり、彼女の気持は一気にどん底に沈んでしまった。
あと3ヵ月でパリを去らなくてはならない、と思い至ったのだ。
そんなばかな、と思いたくなるけれど、日記を読むと雅枝はほんとうにこの瞬間までパリを去る、という現実がすっぽり抜けてしまっていたらしい。 だからなおさら衝撃が大きくなった。
その日から2日間、彼女はあの一年前の風邪以来、初めて学校を無断で休んだ。 一日中自分の部屋で歩き回ったりベッドに寝転んだり窓際で外を見たり、2日目には心配したジャンが様子を見に来たけれど、ドアも開けないで大丈夫だから今はそっとして欲しい、と追い返す。 これはさすがにあとで謝った。
いくら部屋の中で歩き回っても何の解決も浮かばず頭の中はぐしゃぐしゃ、遂に何か押さえ切れないものが外へ出たがっているような、ひどい焦燥感が襲って来て、いたたまれなくなり部屋を飛び出した。
外はもう夕暮れで、街路灯が点き始めていた。 さ迷うように歩いて、気が付いたらセーヌの河岸を歩いていた。 そこにはリラの並木があり、今は蕾が膨らんで開き始めた花房もちらほら、夕暮れの薄暮の中、花の蕾だけが何かの宝石のように赤紫に輝いて、雅枝は思わず立ち止まって眺めた。
この花には楽しいこと感動したこと色々な思い出があり、中でも最初にこの花を見た時にクロードが誇らしげに語った言葉が鮮明に甦る。
「どう? きれいでしょう? この花はパリの象徴だ。 このあとに咲くマロニエもそうだけど僕はこの花の方が好きだ。 この花が咲くと空気まで甘くなって心も浮き立つ。 この花の季節がやって来たら、じっとしていられるパリジャンやパリジェンヌなんていやしないさ、みんな街にくり出して、足取りも軽く歩き出すんだ。
パリにいてよかったと思うことはたくさんあるけれど、この花と毎年出会えるのは幸せなことのひとつだね。」
日本で言うならサクラだろうか? 雅枝はそう書いたあと、いや、サクラにまつわる日本人の感覚と、リラに対するパリジャンたちの感覚は少し違う、と訂正している。
サクラに精神的なものを映し重ねる日本人と、リラに純粋な生の喜びや季節への感謝を見い出すフランス人の違いは完全に文化の違いだ、イコールには出来ない。 そう雅枝は結論する。
雅枝は1年前の感動を思って自然と涙した。 リラの咲く河岸をゆっくりと歩き、否応なしに近付く別離を思い、絶望を味わっていた。
どれくらい歩いたのか。 気が付くと彼女はクロードの住む邸宅街の入り口にいる。 街角の公衆電話にトークンを入れ、パリで暗記した3番目の電話番号を交換手に告げる。 もちろん最初に使用人が出た。 雅枝が名前を告げると、声の調子が事務的なものから明るいものへ変わるのがいつもうれしい。 やがて、
「やあ、僕のかわいい人、ボンソアール。 明日まできみの声を聞けるとは思わなかったよ。」
「ごめんなさい、突然。 すぐ会える? 外で。」
突然切り出した雅枝だったが、クロードは一瞬間を空けただけ、ほぼ速答した。
「いいよ、すぐ行く。 そこはどこ?」
10分後、彼の白いプジョーが彼女の横に止まり、彼女は自分でドアを開け、黙って助手席に座る。
「いいかい? 出すよ。」
クロードは彼女にキスをしたあとに声をかけると、静かに車を出した。
クロードは彼女にただ一言、「行きたいところはある?」と聞き、「静かにお話が出来るところ。」と彼女が答えると、「ウイ。」と言ったきりあとは無言でパリの街を走らせる。
プジョーは軽快に街を縫って行き、やがて雅枝が初めて来る郊外の住宅地に来ると、クロードは乗用車が4、5台駐車している空き地に車を乗り入れ、停めるとドアを開け、素早く反対側に回って雅枝側のドアを開ける。 雅枝は頷くと車を降りて、クロードが鍵を掛ける数秒で、この地区がこの数年で新しく開けたオフィスや工場などが立ち並ぶ地区だと悟った。
クロードは彼女を手招きすると、
「いいかい、離れるんじゃないよ?」
そう言うなり彼女を抱き寄せ腰に手を回すと、
「こっちだ。」
彼が向かった先は、昼間は何かのオフィスで夜は夜警が1人2人付く7階建ての長細いビルだった。 両隣も似たようなビルで、この辺り一帯、まだ宵の口にもかかわらず静まり返っていた。
「ここは?」
「しっ!」
クロードは雅枝の口に指を当てると首を振る。 だからそのあとは彼女は一切口を開けなかった。
クロードはビルの横、非常口へ行くと、その横に開いた警備詰め所のカウンターに肘をついて、
「ボンソアール。」
「誰だ?」
カウンターの狭い窓が開くと警備員の紺色の制服を着た、ヤブにらみで人相のあまりよろしくない男が覗く。
「やあ、モーリス。」
「なんだ、クロードぼっちゃまですか、何です? 今週は、」
「いやモーリス、今夜はちょっと部屋を借りたくてね。」
クロードはモーリスと呼んだ男の話を遮って、肩を抱いていた雅枝にいきなりキスをすると、モーリスにウインクして見せる。 彼女が少しショックだったのはクロードの態度が何か街の不良っぽく、今も少々乱暴に彼女をカウンターの方に押しやった。
「な? いいだろ?」
するとモーリスはクククッといやらしい笑い声をあげて、
「なんだ、ぼっちゃまなら街にいくらでも素敵な場所があるでしょうに。」
「だめかな?」
「いいや、よごさんすよ、どうぞごゆっくり。 3階ならどこでもいいですが、トイレの先の女子更衣室なんかどうです? あそこにはベッドがあるから・・・」
モーリスは再び含み笑いをする。
「ありがとう、お勧めに従うよ。 1時間で降りて来る。」
「1時間でも一晩でも。 わたしゃ一晩中起きてますから。」
「大丈夫だ、1時間で済ますよ。」
「どうぞごゆっくり。」
モーリスの忍び笑いをあとに、エレベーターは電源が切れていたので2人は薄暗く不気味な階段を昇って3階に行く。 3階は会議室と書いたドアが並ぶ場所で、その奥にモーリスが予告したトイレと男女それぞれの更衣室があった。
クロードはモーリスに言ったのとは違って男性更衣室のドアを開け、雅枝を中に案内する。
「どういうことなの?」
更衣室の中、ロッカーが並ぶ真ん中に置かれた長椅子に並んで座ったあと、彼女は抑えていた質問をぶつける。
「ここは、僕の知り合いのビルだ。 あのモーリスは、昔、僕の家で働いていた使用人さ。 昔の誼ってやつだね。」
「ふうん。 でもなんだかあなた、柄が良くないふりをして・・・」
「まあ、ああでもしないと、変な詮索をされるから。 街でエキゾチックな女の子を引っ掛けたプレイボーイのおぼっちゃま、そういう演出だったんだけど。」
「そういう台本は相手役にも知らせて欲しいわ。 アドリブに慣れてないから。」
クロードは笑いながら彼女を抱き寄せ、
「そういうところ、君もすっかりパリ風のシャレが身に付いて来たね、なんだかうれしいよ。」
少し長めのキスになった。 3週間の別離のあとだったから当然だったが、しかし、雅枝はそれ以上先に進むのを我慢して、彼の肩を軽く押して留め、
「お話があるの。」
クロードは頷くと、
「なんだい?」
それから雅枝は、あと3ヶ月で留学が終わり、自分が帰国しなくてはならないこと、その先、2人の仲をどうするか考えて来なかったこと、自分としてはどうしたらいいのか、悩んだけれど結論が出ないこと、クロードはどう考えているか聞きたい、そう彼に話す。
クロードは彼女の話を、時折励ますように彼女の手を握って、しかし口を挟まずに聞いていた。
「ねえ、クロード。 私、どうしたらいいの?」
「そうだね。 正論で言うならば、君は日本に帰った方がいいと思う。」
雅枝は思わず息を呑む。 心の中では引き留めて欲しかったからだ。
「いいかい? 君は何のためにこの国に来たんだい? もちろん絵を学びにだと思うけれど、今まで君から聞いた話では、君は単に日本を出たかったんじゃないか、と思う。 でも、それは二度と戻らない、という決心じゃなかったはずだよね? 国を捨てこの国で生きる、そういう決心じゃなかった。 そうだよね?」
「私は・・・」
本当はどうしたかったんだろう? 雅枝はこの国に来て初めて、自分の本心がどこにあったのか、まったく確かめていなかったことに思い至る。 あやふやな決意、ただ単にあの家から、厳格で縛りつけるような両親から逃げ出す、それだけだったのではないだろうか? 深く考えた先の行動のつもりでも、一時的に好きな道で好きなようにしていられる、たったそれだけでここにいるのではないか。
もちろん、その先に思いもしなかったクロードとの出会いがあり、日本で想像していた以上に素晴らしいパリの生活があった。 でもそれは望外のボーナスみたいなもので、自分には本当にこの国に残る気はあったのだろうか?
そんな雅枝の葛藤を見透かすかのようにクロードは続ける。
「僕が君の人生を決める訳じゃない。 君の主人は君自身なんだ。 だから、君が迷っているのなら、僕は君の決心を揺るがせるような、君が僕の気持で舵を取るようなことをしたくない。 だから今、僕は僕の気持ちを君に知らせるようなことはしない。」
なにかの判決を神妙に聞く未決囚のような気分で、半分放心した雅枝はクロードを見つめていた。
帰りの車の中、2人の口数は少なかった。 食事を取り損ねたが、2人ともとても食べる雰囲気ではなかった。 雅枝のアパートまで来ると、暫く降りずに2人して並んで曇り始めたフロントガラス超しに街路を、歩道を行く人の流れを眺めた。
「じゃあ、明日。」
「ええ。 また明日。」
それは今夜のことは一旦棚上げして、2人の間に垣根を作る事がないようにしよう、という暗黙の了解だった。 明日は3週間振りに再開する恋人同士になる。
おやすみのキスをして彼女は車を降り、クロードは手を振って車を出す。 見送りながら雅枝は想いに沈む。 2人で楽しい思い出をさらに積み重ねて行く。 やさしいクロードに溺れ、刹那的にすべてを忘れ、身を委ね・・・で、その先は? 期日は確実に迫って来るのだ。
結局6月末まで彼女はどうするか決めあぐね、ずるずると結論を先延ばしにしてしまった。 もちろん、それまでの間、悩みに悩み、相談もした。
ジャンは、一度帰ってじっくり考え、また来れば良い、そう言った。
三郎は、雅枝がいなくなるとさびしいね、といいつつ、クロードは正しい、それは君次第だ、と言った。
パリジェンヌのアントワーヌはきっぱり言う。 あなたはパリでクロードと生きるべきよ、どうしてパリを知ってパリから離れられるの?
アンリの答えも彼らしい。 避けられない現実には逆らわない。 しかし自分で選ぶことが出来る選択肢あるときには、どれが後悔しないか考える。 どれも後悔するのなら、誰かのためになることを選ぶ、そうすれば少なくとも何かが自分に戻って来る。
結局、自分の事は自分で決めるしかないのだ。
6月末。 帰国するならそろそろ帰りの手配をしないといけない。 大使館では帰国する日が決まったら知らせるように言われた。 もう彼女に残された時間はなかった。
ぼんやりと諦め半分で思う。
一度日本に帰り、また戻ってくれば良い、結論は、クロードとの未来はその先、再び時間を掛けて考えればいい・・・
そんな優柔不断に陥った雅枝の後ろを押したのは、彼女にとっては意外な人間だった。
7月最初の週末、一通の電報が雅枝に届く。 ローマ字でこうあった。
『 SIKYU, KIKOKU NO NITIJI O SIRASE, MIAINO HANASI ARI. TITI 』
雅枝は顔に血が上るのを感じた。 父は相変わらずだ。
この2年、両親からはまったく連絡はなかった。 雅枝は一応1ヶ月毎に近況を(かなり脚色して)便箋2枚に書いて両親あてに投函していたが、それに対する返事はなかった。 去年の冬から毎月、彼女の銀行口座に父からそれなりの金額が送金されていて、彼女はありがたく使わせて貰い、出世払いで返そうと思っていたが、現在の親子のつながりはその程度だった。 送金にしてもどうせ、口座の残高が本多の子女としては沽券にかかわると感じたからに違いない。
お見合い。 父の考えそうなことだった。 たぶんクロードのことは知っているはず。 あの大使館の小役人たちから、どこかを通じて父の耳に雅枝の行状は知らされているはずだった。
当然父はクロード・ルフェーヴルなる青年が何者か、大使館か外務省か商社か何かは知らないが素性を調べてくれるように頼んだに違いない。 その結果、家柄、人物、背景ともに申し分ないと知り、とりあえずは放置した。 しかし、帰国するとなると、外国で『お手付き』となった子女を放っておく訳にはいかず、急ぎ適当な閨閥に押し込んでしまえ、そう言うことなのではないか?
日本に戻っても、あの生活が待っているだけ。 日本は、世界は自由になったというのに、あの家は未だに戦前のようだった。 雅枝はふと、今のフランス海外領土の独立闘争と自分とを重ねて思う。 そう、どちらも因習やシガラミからの解放を求めるものではないのか? そこで、すうっと気持ちが収まった。 心が決まったからだ。
7月初旬のある日。 雅枝は大使館に行き、9月に切れるビザの延長を、修学ビザから3ヶ月有効の観光ビザに変えて申請する。 雅枝は昨年秋に20歳となった。 だから誰からの承諾や許可を必要としない。 対応した館員に、叶う限り早くお願いします、もし、何らかの遅延や、理不尽と思われる妨害があったら考えがあります、と凄み、館員はいつも雅枝に対応する者ではなかったので、変なことを言う、と思いながらも、出来るだけ早くしましょう、と約束した。 ビザは1ヶ月後にきちんと発行された。 雅枝はこうした事務手続き以外に二度と大使館に行くことはなかった。
大使館から帰った夜、両親宛てに長い手紙を書き、翌朝、寝不足の目を擦りながらポストに投函した。
それはいわば彼女の独立宣言文だった。