プロローグ
「またあの娘のこと思い出してる」
昼下がりの柔らかな陽射しが、静かなテラスを淡く照らしている。
遠くから波の音が聞こえ、頬を撫でる潮風には、ほんの僅かに草木の青い匂いが混ざっていた。
少女はテーブルへ頬杖をつきながら、呆れたように肩を竦める。
向かい側に座る青年は、少しだけ目を伏せる。
「忘れるわけないだろ……」
短い返答だった。
だが、その声には妙に重い感情が滲んでいた。
風が静かに吹き抜ける。
青年は視線を遠くへ向けたまま、ゆっくりと拳を握った。
忘れたことなど、一度もない。
笑った顔も。
怒った顔も。
最後に見た、あの表情も。
どれだけ時間が経とうと、どれだけ遠くへ逃げようと、それだけは胸の奥へ焼き付いて離れなかった。
まるで──、魂そのものへ刻まれているみたいに。
「……じゃあさ、会いに行こうよ」
少女は身を乗り出すと、青年の手を掴んだ───
* * *
───遥か昔。
世界は、命なき星だった。
大地には岩と灰だけが広がり、吹き抜ける風は冷たく乾いている。空には雲もなく、海も森も存在しない。
そこにあったのは、静寂だけ…
神はそんな世界を見下ろし、気まぐれに一本の樹を植えた。
小さな芽。
だが、その樹は長い時をかけて成長し、やがて世界そのものを支える巨大な存在となる。
後に人々から──『世界樹』と呼ばれる存在である。
世界樹は“マナ”を生み出した。
火。
水。
風。
地。
四つのマナは世界へ広がり、混ざり合い、循環しながら星そのものを変えていく。
火は熱を生み。
水は雨となって降り注ぎ。
風は空を巡り。
地は命を育む土壌となった。
灰色だった世界には緑が芽吹き、川が流れ、海が生まれる。
命なき星は、長い年月をかけて豊かな世界へ変わっていった。
そして世界樹は、マナを操る存在として“精霊”を創造した。
火の精霊。
水の精霊。
風の精霊。
地の精霊。
精霊達は自然と共に在り、世界を育てていく。
雨を降らせ。
森を育み。
海を満たし。
大地を整える。
そうして長い時を経て、星は生命に満ちた世界となった。
豊かな世界を見た神は“人”を創造した。
そして世界樹は、人に近しい存在として“エルフ”を創造した。
現在もなお、世界の中央には世界樹が存在している。
それは天を貫くほど巨大な、世界最大の存在。
広がる枝葉は雲海を覆い隠し、その姿は遠く離れた国からでも視認できるという。
世界樹は、世界最大のマナ供給源であり、世界循環の中心でもある。
その大樹から溢れる膨大なマナによって、世界は今も成り立っているのだ。
世界樹周辺には、『世界樹の森』と呼ばれる広大な原生森林が広がっている。
そこは高濃度マナ地帯。
空気中のマナが淡く発光する“マナ視現象”が発生し、幻想的な光景が森一帯を包み込む。
また、精霊活動も非常に活発であり、風もないのに木々が揺れたり、誰もいない泉から歌声が聞こえたりと、不思議な現象が数多く確認されていた。
火、水、風、地。
精霊達は今もなお、自然の中に存在している。
人々は風のざわめきや穏やかな雨、静かな水流や揺れる木々の気配へ、精霊達の存在を感じながら暮らしていた。
しかし実際に精霊の姿を見られる者は少ない。
精霊とは極めて気まぐれな存在であり、自ら望まない限り人前へ姿を現さないからだ。
もちろん例外もいる。
人間と遊ぶことを好む精霊。
街へ降りてくる精霊。
酒場で騒ぎを起こす変わり者まで存在すると言われている。
だが、それすら精霊自身の気分次第。
精霊とは、そういう自由な存在だ。
精霊と契約した者は、精霊の力を借りて“精霊魔法”を扱える。
また正式契約でなくとも、精霊が好意的に寄り添うことで力を貸す場合も存在した。
人々はそれを──『寄り添い』と呼んでいる。
エルフの血には『マナの祝福』が宿っている。
彼らは自然界に存在するマナを感じ取り、それを紡ぐことで“マナ魔法”を行使した。
火を操り。
水を流し。
風を纏い。
地を変える。
精霊の力を借りる精霊魔法とは異なり、マナ魔法は自然界そのものへ干渉する技術体系である。
故に、『マナの祝福』を持たない人間では扱えない。
それは、エルフだけに許された特別な才能だった。
しかし、世界には光だけではなく、闇も存在する。
人々の抱く恨み。
妬み。
怒り。
悲しみ。
絶望。
それら負の感情から生まれた存在──邪神。
人々は恐れを込め、その名を直接口にすることを避けている。
『名前を出してはいけないあの方』
あるいは、
『彼の者』
そう呼ばれる存在だった。
邪神由来の禁忌魔法“呪法”は極めて危険である。
精神侵食。
汚染。
支配。
対象を内側から蝕むその力は、多くの悲劇を生み出してきた。
そして、その力を増幅する危険物質が『魔素』である。
現在の世界は、剣と魔法、そして銃が共存する近代ファンタジー時代へ到達している。
火器技術。
マナ技術。
神聖術式。
様々な文明が発展し、人々の生活は豊かになった。
だが、その便利さは同時に争いも激化させていた。
自然と精霊を重んじる森霊郷エルセリア。
重武装機械軍を擁する鉄機帝国ヴァルグラム。
万年雪に包まれた白雪皇国ルミエール。
多くの国家が思惑を抱え、世界情勢は常に揺れ動いている。
そんな世界の南方沿岸部。
海と緑に囲まれた、小さな港街がある。
『カルディア』
白壁建築が並ぶ街路。
潮風に濡れた石畳。
細い運河をゆっくり進む小舟。
穏やかな空気が流れる、美しい港街。
カルディア周辺には『青霊草』と呼ばれる希少薬草の群生地が存在している。
夜になると淡く青白く発光するその薬草は、薬師達から高い価値を持つ素材として扱われていた。
そして、この街には小さな冒険者ギルドが存在する。
『冒険者ギルド カルディア支部』
人助け。
依頼請負。
街の困り事解決。
地域密着型の小規模ギルドである。
かつては名高いギルドだった。
しかし今では、ギルド長の死と先の戦いによって主力を失い、建物にもどこか寂れた空気が漂っている。
それでもなお。
この街には、その場所を必要とする人々がいた。
──そして、ある日。
そんなカルディアのギルドへ、ひとつの依頼が舞い込む。
それは後に、多くの運命を動かす事件の始まりだった。
失われた記憶。
交差する想い。
魂へ刻まれた過去。
様々な運命が交わりながら、物語は静かに動き始める。
物語はここから始まる───




