第81話 月ではないもの
それから数日、しずくたちは二層の中でも浅い位置だけを回っていた。
一度だけ、ボス部屋までの導線は確認した。
そこから先は無理をせず、ゲートから寝ぐら入口付近までを往復する形だ。
ゴブリンラボの方へは、近寄らない。
やはり協会側でも何か動いたのだろう。
公式アナウンスで、ゴブリンラボ周辺はトラップ関係の挙動が不安定になっているため、当面の間積極的な狩りは推奨しないと出ていた。
表向きは、あくまで安全措置。
けれど、三人は本当の理由がそれだけではないと知っている。
赤い光と壁画。
赤い○に認識されています。
その記憶は、まだしずくの中に残っていた。
それでも、日常は続いた。
学校での中間テスト対策。
浅い二層での軽い探索。
帰宅して、母と少しだけ話す夜。
幸いあの一件以降、おかしなことは何も起こっていない。
ダンジョンの中で見られているような感覚もない。
システムウィンドウも普通に開く。
配信も途切れない。
協会から追加の呼び出しもない。
そろそろいいかな、という話になった。
そして週末。
三人は、二層ボスへ挑むことにしていた。
その日は、すでに配信も告知済みだった。
コメント欄は開始前からざわついている。
『二層ボスきた!』
『ゴブリンリーダー&シャーマン戦』
『三人ならいける』
『ミコト加入後初ボス?』
『しずく盾強化後の本番だな』
『無理はするなよ』
協会内の休憩スペース。
三人は、テーブルを囲んで最後の確認をしていた。
しずく達全員の前には、初級ポーションが二本ずつ。
それぞれ、自分の手元で数を確認する。
ほのかはさらに、小さなケースを開けた。
中には麻痺弾が並んでいる。
「麻痺弾、今回はちゃんと用意した」
「…何発?」
ポーションを腰のポーチに入れながら、しずくが聞いた。
「予備のマガジンまで含めて8発だね」
ほのかは98式軽機弩を軽く叩きながら、端末のメモを確認する。
「基本方針は変えないよ」
「ええ、しずくさんがリーダーを抑える」
「その間にほのかさんがシャーマンを叩く」
しずくとほのかが頷く。
「二体を近くに置くと、支援とか回復とかされる可能性がある」
「だからリーダーをこっちへ引っ張る」
ミコトが、少しだけ表情を引き締める。
「シャーマンが召喚や強化を使うなら、詠唱の気配を見ます」
「魔力の流れが見えたらすぐ共有します」
「ありがと」
ほのかが軽く笑う。
「ミコトの魔力レーダー、ほんと頼りになる」
ミコトは少しだけ照れたように目を伏せた。
しずくは、自分の左腕に装着した銀盾を見た。
縁に走る淡い蒼。
中央の円形ミスリル。
もう何度か実戦で使ったけれど、やはりこれは前の盾とは違う。
受けるより流す。
それを、盾の方が教えてくれる感覚がある。
「…やれる」
しずくが小さく言うと、ほのかが顔を上げた。
「うん?」
「リーダーを止める」
その声は小さかったけれど、前より少しだけ芯があった。
ほのかは、にっと笑いながらしずくの肩に手を置いた。
「頼りにしてる」
ミコトも静かに頷いた。
「わたしも支えます」
一人で前に立つわけじゃない。
後ろに二人がいる。
怖さは完全には消えないけれど、足は前に出せる。
ほのかは満足そうに頷いた。
「よし、準備完了」
『いよいよか』
『三人とも頑張れ』
『ボス戦は慎重に』
『しずく前衛、ほのか火力、ミコト支援、バランスいい』
『今回は撤退判断早めにな』
『ミコトのキュアあるのデカい』
『麻痺弾持ち込みは偉い』
ほのかは、端末へ向かって軽く手を振った。
「はい、というわけで今日は二層ボス行きます」
それだけで、コメントが一気に増える。
ミコトは少し緊張した様子で杖を握り直した。
しずくも、銀盾の固定具をもう一度確認する。
休憩スペースの外では、探索者たちが行き交っている。
その中を三人は立ち上がった。
虹色の揺らぎが、いつものように三人を待っている。
二層ボス、ゴブリンリーダーとゴブリンシャーマン。
勝てば三層への道が開く。
しずくは一度だけ深く息を吸うと、ゆっくりと吐いた。
「行こう」
しずくの言葉に二人が頷いて返した。
ゲートを抜けると、いつもの湿った空気が肌に触れた。
土と岩でできた洞窟。
獣臭と、どこか腐ったようなゴブリンの匂い。
少なくとも、入口はいつもの二層だった。
しずくの前に、システムウィンドウが開く。
【本日の型:アタッカー型】
筋力:大幅に上昇
耐久:大幅に上昇
スキル付与:【強靭な体幹】
体のバランスが向上する。
被弾時やガード時に体勢が崩れにくくなる。
「…アタッカー」
しずくは小さく呟いた。
悪くない。
むしろ、今日の目的にはかなり合っている。
ゴブリンリーダーを前で止めるなら、筋力と耐久の補正はありがたい。
強靭な体幹も、盾で受け流す今のしずくには相性がいい。
ほのかがシステムウインドウを眺めながら、小さく微笑む。
「お、今日は前衛向きだね」
「…うん」
ミコトも頷いた。
「リーダーを抑えるには、かなりいい型だと思います」
視聴者コメントも流れていく。
『アタッカー型きた』
『盾強化後のアタッカーは熱い』
『今日のしずくは、純粋な前衛だな』
『二層ボスいけるぞ』
『強靭な体幹、盾役にめっちゃ合う』
『これはボス戦勝利の流れ来てる』
三人は、事前に確認した道順通りに進んだ。
ゲートから浅い通路を抜け、見覚えのある分岐を曲がり、寝ぐら方面とは少し違う道へ入る。
途中で出てきたゴブリンや吸血蝙蝠は、危なげなく処理した。
以前なら少し苦戦したかもしれない敵も、今は足を止めることなく倒せる。
レベルが上がり装備が強化され、三人の連携も形になってきていた。
けれど、しずくの胸の奥には小さな棘みたいなものが残っていた。
赤い○に認識されています。
あの壊れたシステムウィンドウの文字。
忘れようとしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
二層は、いつもの二層に見える。
何もおかしなことは起きていない。
配信も正常。
視聴者もいつも通り。
それでも、どこかで見られているような感覚が完全には消えなかった。
やがて、三人はボス部屋の前へ到着した。
協会のデータベース通りなら、広場型のボス部屋へ続く大きな石扉だ。
実際、目の前には巨大な石の扉がある。
扉の表面には、ゴブリンの顔を模したような粗い彫刻。
その奥から、かすかに空気が流れてくる。
ほのかが視聴者に目線を送る。
「はい、ボス前です」
コメント欄が一気に盛り上がった。
『来た!』
『二層ボス!』
『ゴブリンリーダー&シャーマン』
『無理せずいけ』
『初見ボスは慎重に』
『ここ突破したら三層か』
『しずくたちならいける』
三人は目だけで頷きあうと、石扉へ手を掛けた。
重い扉が、ゆっくりと開く。
石が擦れる音と共に、向こうの空気が流れ込んで来る。
そして、三人は一歩踏み込んだ瞬間に言葉を失った。
協会のデータベースにあったような、土と岩の広場ではなかった。
明らかに人工物だった。
円形の広場。
床は石畳が敷き詰められていた。
自然の洞窟ではありえない規則性を持っている。
円形の外周に沿って、折れた柱がいくつも立っていた。
古代遺跡の闘技場。
そんな言葉が、しずくの頭に浮かぶ。
「…なに、これ」
ほのかが、啞然とした顔で呟いた。
いつもの明るさが、声から抜けている。
ミコトも、杖を握る手を強めていた。
「データベースと違います…それに上を見てください。」
ミコトの声は震えていた。
天井がなかった。
洞窟の中のはずなのに、頭上には夜空が広がっていた。
黒く深い空。
星は少ない。
けれど、そこには確かに空がある。
ありえない。
ありえないのに、そこにある。
そして、その中央に。
大きな満月が浮かんでいた。
「夜?」
しずくの耳に、ほのかの声がひどく遠く聞こえた。
視聴者コメントも、混乱したように流れが乱れる。
『え?』
『外?』
『ボス部屋こんなんだっけ?』
『データベースと違うぞ』
『天井ない?』
『月?』
『これ二層だよな?』
『待って、なんか変じゃない?』
しずくは、ゆっくりと空を見上げた。
大きな満月。
いや違う、あれは月ではない。
言葉になるより先に、身体がそう理解した。
満月のような白い円。
けれど、それには何もなかった。
本来の月にあるはずの模様がない。
海も影も凹凸も、濃淡もない。
ただ、つるりとした白い円が夜空に貼り付いている。
まるで誰かが、月という記号だけを空に置いたみたいだった。
「…違う」
しずくの口から、小さく声が漏れた。
ほのかが振り向く。
「しずく?」
しずくは、白い円から目を離せなかった。
「あれ…月じゃない」
その瞬間、白い円がほんのわずかに揺らいだ。
見間違いかもしれない。
しずくには、それがこちらを見たように感じられた。
コメント欄の流れが、さらに速くなる。
『今揺れた?』
『月、動かなかった?』
『怖い怖い怖い』
『ボス戦じゃない空気なんだけど』
『配信切れてないよな?』
『赤くなるなよ?』
『これ大丈夫なやつ?』
ミコトの声は硬い。
「魔力反応…あります」
「どこ?」
ほのかがミコトを見る。
ミコトは、ゆっくりと白い円を見上げた。
「上です」
その答えに、誰もすぐには言葉を返せなかった。
二層ボス戦、そのはずだった。
ゴブリンリーダーとゴブリンシャーマンを倒して、三層への道を開く。
そのために来たはずだった。
なのに…。
しずくは、左腕の銀盾を無意識に抱きかかえた。
今までの怖さとは違う。
強い敵がいる怖さではない。
罠にかかる怖さでもない。
もっと遠くて、もっと大きくて。
こちらの理解の外側から、そっと覗き込まれるような怖さ。
白い円は、夜空に浮かんだまま動かない。
ただ、そこにある。
何も語らなければ、何もしてこない。
けどここは、協会のデータベースに載っている二層ボス部屋ではない。
今日のボス戦は、きっと予定通りには終わらない。
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