第70話 赤い月の壁画
小部屋の壁には、いくつもの線と丸が刻まれていた。
ゴブリンが描いたものにしては、妙に整っている。
雑な線も多いし、削り方も粗い。
けれど、ただの落書きではなかった。
中央に大きな丸。
その周りを囲むような線。
離れた位置にある小さな丸。
その小さな丸へ向かうようにも、そこから離れていくようにも見える矢印めいた傷。
しずくには、正直よく分からなかった。
ほのかも同じらしい。
腕を組み、首を傾げている。
「うーん、地図?」
「…地図にしては変な気がする」
しずくが小さく返す。
ミコトだけが、さっきから壁画をじっと見つめていた。
小部屋の中は静かだった。
そのぶん、ミコトが黙り込む時間だけが妙に重く感じられた。
ほのかとしずくは顔を見合わせる。
二人には、壁画を見てもやはりよく分からない。
丸と線。
そして、矢印のようなもの。
雑に描かれているようで、でも何かしらの法則があるようにも見える。
ミコトには、何か見えているのだろうか。
三十秒ほどして、ミコトがゆっくりと口を開いた。
「これ、太陽や月の動きを表しているかもしれません」
「え」
ほのかが、少し間の抜けた声を出した。
ミコトは壁の一角を指差す。
「有名なものだと、フランスのラスコー洞窟の壁画とか」
「マイナーな例だとグアテマラのシュルトゥン遺跡とか」
「昔の人が、天体やその周期を記録したと考えられているものがあるんですけど……」
そこまで言って、少し迷うように首を傾げる。
「これは、どちらかというとネブラ・スカイディスクに近い考え方かもしれません」
しずくもほのかも、頭の上に疑問符を浮かべたままだった。
ほのかが軽く両手を上げ、降参のポーズをとった。
「ごめん、わかんない」
「…わたしも」
ミコトはこくりと頷いた。
「ざっくり説明します」
そう言って、改めて壁画の丸を一つずつ指で追う。
「恐らく、これが太陽です」
一つ目の大きな丸。
「で、これが地球…もしくは、地上を示しているもの」
中央付近の少し大きな丸。
「そして、その近くにある赤い丸。位置関係から見て、たぶん月です」
「月…」
しずくが小さく呟く。
ミコトはさらに、壁の端に近い小さな丸を指差した。
「ただ、この遠くにある小さな丸が何なのか分からないんです」
たしかに、それだけ少し離れた位置に描かれていた。
しかも、そこへ向かうような矢印めいた線まである。
「この矢印っぽいものが本当に移動を示しているなら…」
ミコトの声が、少し低くなる。
「地球の近くにあった何かが、ここまで移動したとも読めます」
ほのかが眉を寄せた。
「つまり?」
「赤い丸が、あとからそこに居座ったような感じです」
「あとから?」
「小さな丸がどいて、その位置に赤い丸が来た」
「そういうふうにも見えます」
小部屋の空気が、少しだけ冷えた気がした。
しずくは、壁画の赤い丸を見つめたまま動けなかった。
地球のそばにある赤い丸。
そして、そこから離れていった何か。
しずくの脳裏によみがえる、母が話してくれたあの遠い未来の話。
月が消える。
地球から離れる。
人類が月を奪う。
しずくの背筋を、ぞくりとしたものが走った。
「しずく?」
ほのかの声で、はっと我に返る。
気づけば、しずくは壁画を睨むように見ていたらしい。
「どうしたの?」
しずくはすぐには答えられなかった。
胸の奥が、妙にざわつく。
ただのゴブリンの落書き。
そう切り捨てるには、赤い丸の位置があまりにも嫌だった。
ミコトもしずくの表情の変化に気づいたのか、小さく首を傾げる。
「何か心当たりがあるんですか?」
しずくは少しだけ迷ってから、ゆっくりと息を整えた。
「ちょっと内々の話になるから…ほのか配信の音声だけ切って」
しずくの様子に何かを感じたほのかが、視聴者に軽く言い訳をしてから音声を切った。
それを確認して、しずくはおずおずと口を開いた。
「…お母さんに、聞いたことがある」
「お母さん?」
ほのかが目を丸くする。
しずくは、壁画から視線を外さないまま小さく続けた。
「月が…地球から、いなくなる話」
その言葉が落ちた瞬間、小部屋の静けさがまた一段重くなった。
「…お母さんが、昔…まだ若い頃」
声は少しだけ掠れていた。
「十層まで行ったことがあるの」
「は?」
ほのかの声が素で固まった。
「え?え?まさかしずくさんのお母様って、佐倉七海さんですか?」
「…あれ、ミコトにお母さんの名前話したっけ?」
「いえ、私もまさかとは思って深くは聞かなかったんですけど…」
「結構有名な話ですよね?史上最年少での人類最深階層到達者」
「当時は、現代の魔女と呼ばれていたとネットの記事で見たことがあります」
「そ、そんなにすごかったんだお母さん…」
「なんで娘であるしずくさんが、知らないんですか…」
「なんかすごそうとは思ってたけど、すごい人なんだね…しずくママ」
「…そ、それはいいから…話を続けるね」
ほのかとミコトは、とりあえず黙った。
しかし、あとで詳しく教えてねと目が語っている。
しずくは二人から視線を外し、壁の赤い丸を見たまま続ける。
「その時、お母さんたちは月の魔女を名乗る女の人に会った」
小部屋の静けさの中で、その言葉だけが妙に重く響いた。
「で、当時の仲間と共に戦ったらしいの」
ほのかが、いつもの軽い調子を少し引っ込めて聞く。
「…勝ったの?」
しずくは小さく首を振った。
「負けたって」
その一言に、ほのかが少しだけ目を見開く。
ミコトは、ただじっと聞いていた。
「お母さんが言うには、月の魔女はすごく強かったって」
「今まで戦ってきたどんなモンスターよりも、ずっと」
しずくはそこで少し言葉を切った。
壁画の線と、母が話していた見せられた未来が頭の中で重なっていく。
「それで…その月の魔女が、お母さんたちに見せたんだって」
「何を?」
ほのかが、思わず問い返す。
しずくは、喉の奥で少しだけ息を整えた。
「未来…かもしれない映像」
ミコトの指先が、わずかに杖を握り直す。
しずくは続けた。
「地球から、月が失われる未来」
ほのかが、すぐには反応できなかった。
ミコトも、壁画としずくを交互に見ている。
「月が…なくなる?」
ほのかが、ようやく絞り出すみたいに言った。
「…うん」
「壊れるとかじゃなくて?」
「お母さんの話だと…地球から離れるみたいな感じだった」
ミコトが、静かに息を呑んだ。
しずくはあの日母が話していた内容を、できるだけそのまま思い出そうとする。
「しかも…」
声が少し低くなる。
「その月を奪ったのは、人類だって」
今度こそ、ほのかの顔色が変わった。
「は?」
「…そう言ってた」
「人類が月を?」
現実感のない単語が、やけに生々しく聞こえる。
しずくは頷いた。
「お母さんも、それが本当の未来なのか幻なのかは分からないって言ってた」
ミコトが小さく呟く。
「でも、月の魔女はそれを見せたんですね」
「うん」
「ただ脅かすためじゃなく?」
「たぶん…違うと思う」
しずくは、母のあの時の顔を思い出す。
からかっているような話し方じゃなかった。
怖がらせるためのホラでもなかった。
もっと静かで、重い話だった。
「そのあと、お母さんはブリムスラーヴスって杖を渡されたんだって」
「ブリムスラーヴス?月の魔女の装備?」
ほのかが確認するように聞く。
「うん」
しずくは頷く。
「仮の証だ、時が来るまで持ってろって」
ほのかが、ゆっくりと壁画へ視線を戻した。
赤い丸。
そして、遠くへ移った小さな丸。
「これ、ただの落書きじゃないかもってこと?」
しずくは、すぐには答えられなかった。
ミコトが静かに口を開く。
「少なくとも、意味があるものを真似した可能性はあります」
「真似?」
「ゴブリンが最初にこれを考えついたとは、ちょっと考えにくいです」
ミコトは、壁の線を目で追いながら続けた。
「でも、どこかで見た」
「あるいは、何かを元に描いた。そうなら説明はつきます」
ほのかが眉をひそめる。
「どこで見たのさ、こんな二層のラボの奥で」
「…それは、わかりません」
ミコトは正直にそう言った。
「でも、ゴブリンラボって、武器や薬だけじゃなくて、知識の断片みたいなものも拾っているのかもしれません」
しずくは、机の上にあった図面を思い出した。
獣に兵器を乗せる発想。
粗末でも、それなりに構造を考えた形跡。
ただ本能で動いているだけではない。
「…じゃあ、この絵も」
「誰かが残したものか、あるいは、もっと深いところから持ち上がってきた情報かもしれません」
ミコトの声は落ち着いていたけれど、その内容は落ち着かないものだった。
ほのかが、壁の赤い丸を指さす。
「で、この赤いのが月っぽいんだよね」
「位置だけ見れば」
ミコトが頷く。
「ただ、普通に考えれば月を赤で描く理由が薄いです」
「だから、そこも気になります」
「血の月とか?」
「かもしれませんし、本来の月ではないことを示しているのかもしれません」
その言葉に、しずくの胸がまたざわつく。
本来の月ではない。
母が見たという未来。
地球から失われた月。
その後釜に座るような赤い丸。
偶然だと言い切るには、あまりにも嫌な並びだった。
ほのかが、壁画を指さしながら言った。
「これ、月島さんとか協会に見せた方がいいんじゃない?」
ミコトもすぐに頷いた。
「写真だけでも残した方がいいと思います」
「全体と細部を分けて」
「……うん」
しずくも頷く。
今ここで答えが出るものではない。
でも、見なかったことにしていい気もしない。
ほのかが端末を取り出す。
「撮るね」
「全体と赤い丸のところ、あと矢印っぽい部分も」
ミコトが補足する。
ほのかが何枚か写真を撮るあいだ、しずくはもう一度壁画を見上げた。
ゴブリンのラボ。
その最奥の小部屋に、こんなものがあるなんて。
ダンジョンが時々思い出したみたいに、深いところの欠片を落としているみたいだった。
「しずくさん」
ミコトが小さく呼ぶ。
「ん?」
「お母さまの話、聞かせてくれてありがとうございます」
しずくは、少しだけ視線を落とした。
「うん」
ほのかも、撮影を終えてから端末をしまいながら言う。
「なんかさ」
「今日はラボ攻略のつもりだったのに、急に話のスケールでかくなったね」
それは、ほんとうにそうだった。
しずくは小さく息を吐く。
「…うん」
「二層で月の話とか、思わないじゃん普通」
「…思わない」
ミコトが、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
その時、小部屋の中央。
石の台の上に、ほんのかすかに光が滲んだ。
三人の視線が、一斉にそちらへ向く。
「え?」
ほのかが目を細める。
さっきまでは何もなかったはずの台座。
その中心に、淡い赤い光が点のように灯っている。
まるで、壁画の赤い丸に呼応するみたいに。




