第40話 また会えるといいな
胸の奥で、警鐘が鳴り響いた。
(——死だ!)
コアを斬り裂いた瞬間、ダリウスは本能で悟っていた。
(戻れ! 速く! 後方に——!)
けれど、足が動かない。
鉛を流し込まれたように、膝が笑い、筋肉が悲鳴を上げる。超集中の反動が、一気に全身へとのしかかっていた。
その隙を、エルダードラゴンは見逃さなかった。
初めて、その巨大な顔に「焦り」の色が浮かぶ。
だが、その視線はダリウスには向かない。
——狙うは、後方の最も危険な魔法使い。
エルダードラゴンが大きく翼を広げる。
次の瞬間、嵐のような突風が戦場を薙ぎ払った。
ミラが張っていた結界が、一拍の抵抗もなく吹き飛ぶ。
「——っ!」
砕けるガラスのような音とともに、光の幕がバラバラと砕け散った。
ミラは思わず一歩下がる。もう片方の翼が、さらに深く息を吸い込むように持ち上がる。
(結界の——貼り直し、間に合わない)
ミラが息を飲んだ、その瞬間。
(——どうする)
オットーは歯を食いしばった。
前線から、ドラゴン、ダリウス、後方の二人。視線が何度も往復する。
(後ろに戻るか!? ダリウスを回収するか!? ちくしょう、迷うな! 正しい判断をしろ!!)
だが、その迷いを断ち切るように、静かな声が響いた。
「ミラ。私の身体を支えてください」
エドガーだった。
魔導書を胸に抱いたまま、ふらつきながらも前へ一歩出る。瞳には、恐怖も迷いも浮かんでいない。ただ、固く決めた覚悟だけがある。
「えっ!?」
ミラは思わず声を上げた。「支えるって——」
「早く!!」
短く、鋭い声だった。
普段は穏やかで皮肉屋なその男が、余白を許さない声音で。
ミラは反射的に動いていた。エドガーの背中に回り込み、その身体を両腕で抱きとめるように支える。
次の瞬間、世界が吠えた。
エルダードラゴンの翼が振り下ろされる。
暴風が一点に叩きつけられ、その直線上にいるエドガーの身体を襲った。
「っ——!」
エドガーの身体が、大地に杭打たれたかのように、その場で風圧を受け止める。
皮膚という皮膚が裂けるような衝撃。鎧の隙間から、細かい切り傷が一斉に開き、全身から血が吹き出す。
肩口が、深く裂けた。
右腕は力なく垂れ下がり、指先から血が滴る。それでも——
エドガーは、魔導書から目を離さない。
「フォル……エルドゥス……アクト……」
唇からこぼれる言葉は震えているのに、その声音だけは寸分の乱れもない。
ページに刻まれた古き文字が、突風に煽られながらも淡く光を帯びていく。
背後で、ミラの腕が震える。
支えているはずなのに、風の力はまだ強すぎる。細い体が押し出されそうになる。
(早く……回復を!)
ミラは、ネックレスをぎゅっと握りしめた。
「——女神の風よ、ひかりを運んで——!」
必死に祈り、女神の加護を呼ぼうとする。
だが、エドガーは短く、焦りをにじませた声を漏らした。
「間に合わない!!」
それでも、詠唱は止めない。
「私の身体を支えるんだ、ミラ!! 倒れないように——それだけでいい!!」
続く突風が、さらに勢いを増して襲いかかる。
ミラは奥歯を噛みしめる。自分の足が、地面から浮き上がりそうになる。
エドガーの背中を掴む。
この人を倒してはいけない——それだけが、頭の中で繰り返されていた。
だが、それでも足りなかった。
突風の刃は、女神の加護よりも速く、容赦がなかった。
「——っ!」
暴風が、二人まとめて薙ぎ払う。
エドガーは真正面から直撃を受け、その細い身体が壁へと叩きつけられた。
鈍い音が響き、魔導書が手から離れ、宙を回転して床に落ちる。
ミラもまた、その陰に隠れるような形で吹き飛ばされる。
致命傷こそ避けたものの、痛みと衝撃で肺の空気を一瞬で奪われ、声にならない悲鳴を洩らした。
ごとり、と乾いた音が響いた。
うつ伏せになったエドガーの口元から、赤黒い血がどろりとこぼれる。
(立て)
頭蓋の内側に、硬い声が響いた気がした。
(立て、エドガー)
誰の声でもない。彼自身の声だ。
(立たなくては。魔導書を持て。詠唱しろ)
視界が揺れ、焦点が合わない。
指先の感覚も薄く、右腕はもう自分のものではないみたいだった。
(お前の役目は、“鉾”だ)
このパーティの構成は、ずっと変わらない。
オットーが盾で、ダリウスが刃で、ミラが命綱で——
エドガーは、“鉾”だ。
全員の命を預かる攻撃の要。
敵を倒す最後の一手。その責任から、一度も逃げたことはない。
(全員の命……預かってるんだ)
喉の奥から、血が沸き上がるようにこみ上げる。
「ごほぉ——っ」
吐き出された血が、床に暗い花を咲かせた。
右腕はぶらりと垂れ下がり、力が入らない。
魔導書に手を伸ばそうとしても、指先が震え、うまく掴めない。
(……腕が、やられた。魔導書が——持てない)
左腕も、壁に叩きつけられた衝撃で感覚が鈍い。
膝は砕けそうに痛く、立ち上がるだけで精一杯だ。
(立てない。魔力も……切れかけているのか)
絶望に近い現実が、冷静な頭に次々と積み上がっていく。
それでも——
エドガーは、まだ自分を諦めていなかった。
耳に、ドラゴンの咆哮が届く。
風が止んだあと、巨体が向き直る先は——前線で踏みとどまり続けている、ひとりの男。
オットーだ。
エルダードラゴンは、満足げに目を細めていた。
まるで、新しいおもちゃを見つけた子どものように。
その顔を見て、エドガーは奥歯を噛み締める。
オットーは、ひたすら前だけを見ていた。
ダリウスが膝をつき、エドガーが壁に叩きつけられ、ミラが必死に立ち上がろうとしている——そんな光景が、すべて視界の端へと追いやられていく。
目の前にいるのは、ただ一体。
自分よりもはるかに巨大で、圧倒的な殺意と愉悦を宿した、エルダードラゴン。
(——時間を稼げ)
オットーは心の中で自分に命じた。
(誰かが起き上がるはずだ。ダリウスでも、エドガーでも、ミラでもいい。
誰かがまた前に出られるまで——)
その瞬間、胸の奥が静かに熱くなる。
(それまで信じて、決して倒れないのが、盾だろうが!!)
それは昔から変わらない、自分だけの矜持だった。
若い頃、まだ筋肉も反応も今よりずっと鋭かった時代。
前線で何度も何度も叩きのめされるたび、心のどこかで何度も折れかけた。
「もっと楽な役割がいい」「火力職の方が格好いい」——そんな考えが頭をよぎったことも、一度や二度ではない。
それでも、最後にいつも残っていたのは、ただ一つの問いだった。
——一番最後まで立っているのは、誰でありたい?
答えは、いつだって決まっていた。
自分の後ろで震える仲間がいてもいい。
自分の背に隠れて泣きそうになる奴がいても構わない。
自分が一歩も退かなければ——その一歩分だけ、誰かの命が伸びる。
(それが、俺の選んだ戦い方だ)
エルダードラゴンの爪が、またひとつ、シールドを叩いた。
ガギィン——!
金属が悲鳴を上げる。
魔力で強化されたシールドが、衝撃のたびにびりびりと痺れる。
「……っぐ」
オットーは呻き声を噛み殺した。
歯が軋み、腕が痺れ、膝の古傷が悲鳴を上げる。それでも足を前に踏ん張り続ける。
(まだだ。まだ折れねぇ)
心のどこかでわかっている。
この盾は、無敵の壁ではない。
時間を稼ぐことはできるが、永遠にはもたない。
それでも——だからこそ——
(“もたねぇ”時間を、どれだけ“もたせるか”が、俺の仕事だろ)
——だが、その覚悟とは裏腹に。
限界は、唐突に訪れた。
シールドの光が、ぱちり、と一瞬だけ強く瞬く。
次の瞬間、明かりが消えるように、完全に暗転した。
「っ——!」
耳を裂くような破砕音とともに、シールドが砕け散る。
魔力の盾も、金属の板も、これまで支えてきたすべての防壁が、一度に消え去った。
その瞬間——
エルダードラゴンの爪が、迷いなくオットーの腹を貫いた。
「……っが——!」
熱い鉄の棒を突き刺されたような衝撃。
臓腑を掻き回されるような痛みが、視界を白く塗りつぶす。
「「オットー!!」」
ダリウスとエドガーの叫びが、どこか遠くで聞こえた。
口の中が生ぬるい液体でいっぱいになる。
ごぼり、と赤黒い血が喉から溢れ出し、顎を伝って滴る。
「ごぼぉ……」
笑おうとすると、血が喉を焼いた。
それでも、オットーは——笑った。
死の痛みの中で、どうしても、そうしたかった。
(あぁ……俺は、ちゃんと“最後まで”立ってたよな)
誰に問いかけるでもなく、そんな言葉が浮かぶ。
シールドは砕けた。腹は貫かれた。もう、立っていることすら難しい。
それでも——仲間が再び戦える舞台は、確かに繋いだ。
(……時間は、稼げた)
それだけは胸を張って言えた。
血の味と一緒に、かすかな悔しさも込み上げる。
(本当はよ、もっと粘りたかったけどな……)
それでも、後悔ばかりじゃない。
だって——最後の最後に、もうひとつだけ手札が残っている。
オットーは、腹に突き刺さった爪を見下ろし、ニヤリと口角を上げた。
「……悪いな」
掠れた声が、喉の奥からこぼれる。
「使うぜ」
それが何を意味するのか、ここにいる三人は誰よりもよく知っていた。
「だめだ!」
ダリウスの声は、悲鳴に近かった。「使うな! 俺が戻る!」
けれど、その足は動かない。
地面に縫いつけられたように、膝がひりつき、筋肉が悲鳴を上げる。
オットーは、腹に刺さったままの爪を見下ろし、ふっと笑った。
その笑みには、悔しさも、安堵も、少しだけ名残惜しさも混じっていた。
これが本当に「最期」かもしれないという覚悟が、静かに滲む。
「……また会えるといいな」
ぽつり、とこぼれた言葉は、誰に向けたものだったのか。
ダリウスか、エドガーか、ミラか——それとも、自分が愛した“冒険者としての日々”そのものか。
答えを求める前に、オットーは低く呟いた。
「《阿修羅》——解放」




