第39話 学習する竜
氷煙が裂け、その向こうに赤い影が現れる。
エルダードラゴンだった。
全身に氷の刃が突き立ち、尾は根元から粉々に砕けている。
腹部には氷の牙で抉られた巨大な裂傷。そこから緑の血と一緒に、どろりと光る“核”が顔を覗かせていた。
ひとつ。
その奥で、脈打つ光がもうひとつ。
さらに、別の箇所でくぐもった明滅が、確かにまだ動いている。
露出したコアは一つじゃない。
腹部の傷から見えたのは、残り二つのコアだった。
「……そんな……」
最初に声を漏らしたのはミラだった。
エルダードラゴンは氷の残骸を踏みしだき、一歩、また一歩と前へ出る。
顔はさっきと変わらない。いや、さっき以上に楽しそうだ。
瞳の奥に、余裕と愉悦が居座っている。
「そ……そんな……に……」
ミラの膝が小さく震える。
喉からこぼれた音は、言葉になる前に崩れた。
「逃げよう……」
本音が漏れる。
「無理だよ……こんなの……」
もちろん逃げ場はない。
背後は閉ざされた扉。
このフロアから外へ出る条件はただ一つ、敵の全滅。それ以外はない。
エドガーは何も言わない。
無言でマナポーションの栓を歯で抜き、喉へ流し込んだ。
苦い液体が落ち、胃がきゅっと縮む。身体の奥に、少しだけ「動け」が戻ってくる。
オットーは、ぎしぎし鳴る腰を捻りながら立ち上がった。
片足を伸ばし、反対側を曲げ、腰をぎゅっとひねる。
「……いってぇな、ちくしょう……」
悪態をつきながらも、手は前へ出ている。
シールドが、確かに構えられた。
ダリウスもふらつきながら立ち上がり、ミラのそばへ歩み寄る。
頭にそっと手を置いた。
小刻みに震える金の髪を、指先で撫でる。
「大丈夫だ、ミラ」
無理やりじゃない。けれど確かな笑みを作る。
「絶対に、生きて帰ろう」
声は震えていない。
震えているのは、ミラの頭に置かれた手の方だった。
ダリウス自身も、怖い。
膝は笑い、肋骨は痛み、超集中の反動で身体が軋む。
それでも背中は見せない。ここで折れたら終わる。
最後まで、みっともなく足掻いてでも生き延びる。
その意地が、彼の足を前へ残す。
その姿を見て、ミラの瞳から怯えの色が薄れる。
代わりに、別の光が宿った。背中に並ぶための、決めた目だ。
「……うん」
ミラはネックレスをぎゅっと握りしめ、一歩前に出る。
震えは止まっていた。
「女神の花よ、輪となって咲き誇り——」
澄んだ声がボス部屋に響く。
「この場所にいるすべての心とからだを、なでてゆけ——
《雫わかちの祝福》!」
足元から淡い光の花弁が咲き広がる。
四人の足元をくるりと巡り、光の輪が身体を撫でていった。
温かなぬくもりが胸の詰まりをほどき、軋む筋肉にもう一度だけ力を渡す。
ミラは息を整え、小さく笑う。
「……ちょっとは、マシだよね」
ダリウスが即座に頷く。眼差しは真剣だ。
「あぁ」
短い返事の中に、感謝がきっちり詰まっている。
オットーも口調を戻す。盾を構えたまま、いつもの調子で。
「これで——楽勝だぜ」
逃げ道を頭で数えていた顔じゃない。
怖さを抱えたまま笑う、中年の顔だ。
ダリウスが振り返る。
エルダードラゴンは、戦いを楽しむ目でこちらを見下ろしている。
腹部の傷から覗く二つのコアが、不気味に脈打っていた。
それでも、ダリウスは笑った。
「さぁ、コアはあと二つ」
仲間の顔を順に見渡す。
「いつも通り行こう」
オットーが短く返す。
「おぅ」
エドガーも魔導書を抱え直し、静かに頷いた。
「えぇ」
さっきまで膝をついていた男たちが、今度は「まだ終わってない」と立ち上がる。
安堵から絶望へ。絶望から、もう一度だけ前を向く覚悟へ。
エルダードラゴンが牙を剥く。
三人の中年と一人の少女が、正面から迎え撃つ。
ミラは一歩後ろへ下がり、ネックレスを握り直す。
「後ろは私の結界で持たせるわ! ダリウスとオットーは前に!」
声は震えない。顔に覚悟が乗っている。
「いくぞ、オットー!」
ダリウスが短く告げる。
オットーは無言で前へ滑り込んだ。焼け焦げた床を踏みしめ、間合いぎりぎりで大斧を持ち上げる。
「間合いで行く! タイミングを合わせろ!」
「わかってるぜ」
ダリウスが一歩、また一歩と前へ出る。
尾を失ったエルダードラゴンは、その代わりに鋭い爪で弄ぶように前脚を振るう。
(尾が無くなった分、詰めて戦える)
喉の奥で息を整え、軌道を測る。
一歩ごとの重さ。爪の角度。刃が届くぎりぎりの線。
ダリウスが「ここだ」と定めた場所に、オットーが背中合わせになる距離で位置取った。
前衛と盾。立ち位置が勝手に噛み合う。
エルダードラゴンが喉の奥で、低く笑った気がした。
次の瞬間、巨躯が揺れ、爪が振り下ろされる。
「——ッ!」
ダリウスは一歩だけ踏み込み、その場で身を沈める。
喉元すれすれを、刃物みたいな爪が通過した。
銀色の軌跡が視界を走り、首筋に冷たい汗が伝う。
後ろには下がらない。
エルダードラゴンは嬲るように連撃を繰り出す。
縦、横、斜め。フェイント。軌道のずらし。
狙いは一貫してダリウスだ。
(くっ……流石にきつい)
呻いても足は止めない。
一歩踏み込み、半歩ずらし、紙一重で外し続ける。頬をかすめ、髪を揺らすだけで抜ける。
やがて、ほんの一瞬。攻撃が鈍る。
「……今だ!」
ダリウスの短い号令。
オットーが地面を蹴った。
「おおおおっ!」
巨体に似合わぬ軽さで跳ぶ。
露出したコアへ、大斧が振り下ろされる。
カキンッ!
金属でも石でもない、硬質な音が高く響いた。
刃はコアの手前で弾かれ、火花が散る。
「チッ……」
着地と同時に舌打ち。
その横をダリウスが駆け抜ける。
「《スラッシュ》!」
露出したコアへ突き立てる。
だが、
ガキィン!
剣も同じ音を返した。
刃はコアに触れる前に、透明な“何か”に阻まれている。そこに確かな壁がある。
(……弾かれた!?)
痺れが腕に走る。ダリウスは即座に間合いを切った。
「いったん下がる! オットー、シールドバッシュ!」
「おう!」
オットーが斧を背へ回し、前へ滑り出る。
交代。シールドが展開され、爪がぶつかり火花と衝撃が弾けた。
エルダードラゴンは「守ってみろ」と言わんばかりに、盾を引っかき回す。
悪意を固めた連撃だ。
「はっ……調子に乗りやがって……!」
オットーは歯を食いしばり、盾を引かない。
背後でミラの結界が青白く揺れ、後列を守っている。
ダリウスは背中越しに、短く息を吐いた。
「……普通のコアじゃないぞ、あれは」
「ご丁寧に、 結界張ってやがるぜ……」
オットーが乾いた笑いをこぼす。
腹の奥で、コアが脈打つ。見えない障壁が“必殺”を弾く。
ダリウスはシールド越しにドラゴンを睨み、横のオットーへ視線を向けた。
「オットー。俺の超集中は……あと何秒、使える?」
オットーは一瞬目を閉じ、感覚で数える。
そして盾の裏で指を二本立てた。
「限界まであと三十秒。安全マージンを取って、二十秒だ」
ダリウスが、ほんの一瞬だけ口元を緩める。
「俺の師匠は、東の国の剣士でな」
「はっ?」
オットーが思わず目を瞬かせる。
「無の境地に入ると出せる技がある。……分厚い鋼も、両断できるってな」
オットーの喉が鳴った。
「お前も、できるのか?」
「見ただけだ。……だけど、やる」
迷いも冗談もない。
「無茶だろ……と言いたいが」
オットーは一度だけ笑い、すぐに顔を締めた。
「それしか、なさそうだな」
ダリウスが盾の陰で目を見る。
「頼むぞ、オットー」
オットーがにやりと笑う。
「任せとけ、リーダー」
ダリウスは息を吸い込み、意識をさらに沈める。
(いつものじゃ、足りない。もっと深く——思考を潜れ)
耳鳴りが遠のき、炎や咆哮が薄くなる。
視界の中心が研ぎ澄まされ、エルダードラゴンの動きだけが鮮明になる。
次の瞬間、足が強く床を蹴った。
懐へ疾走。
爪を剣先でそらし、刃を滑らせ、身体をひねり、屈み、跳躍して抜ける。
一撃ごとに命が削られる距離を、滑り込むように進んだ。
エルダードラゴンの右腕の付け根に、一瞬だけ「止まり」が生まれる。
その隙を逃さず、ダリウスは剣を鞘に納めた。
鞘鳴りが耳の奥で鋭く響く。
腕へ飛び乗り、鱗の凹凸を蹴って駆け上がり、露出したコアのある胸部へ跳躍する。
「——《月下無痕》」
抜刀の軌跡が鋭く走った。
居合から放たれる音速の二撃。一撃目の後、二撃目が“避けた位置”へ追従して刺さる。
(入った——!!)
確信した。間合いもタイミングも完璧。
だが。
空を裂く音だけが虚しく響いた。
剣先は届いていない。
エルダードラゴンが、ほんのわずか後ろに滑った。その微小な「下がり」だけで、二撃は空振りに変わった。
黄金の片目が、愉悦をたたえてダリウスを見下ろす。
まるで「その技は見た」と言うみたいに。
(こっ……こいつ)
背筋が冷える。
(俺の間合いを——学習しやがった)
次の瞬間、爪が背中へ迫る。
「戻れ!!!」
オットーの怒鳴り声。
ダリウスは無理に身体をひねり、直撃だけ避けて地上へ落ちる。
床を転がり、滑り込むようにシールドの裏へ飛び込んだ。
膝と手が床に沈む。肺が熱い。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「クソが!」
オットーが盾越しに怒鳴る。
「学習力もあるってかよ、 あのバケモン……!」
爪が叩く振動が全身を揺らす。
硬さでも強さでもない。覚えて、楽しんで、次を作る相手だ。
それでも折れない。
「オットー、もう一度行く」
「無理だ、 あと十五秒もねぇ!」
残り時間。さっきの一撃は読まれた。
だがダリウスの目はまだ死んでいない。
「間合いを使うんだろ」
「……?」
「あの技の弱点は……俺が一番わかってる」
盾越しにオットーを見る。
「オットー。限界までシールドを前線に押し上げてくれ」
「できれば——奴の懐まで」
オットーが鼻で笑う。
「無茶言いやがる」
そして、すぐに続く。
「……わかったよ、リーダー」
オットーはシールドの光を全開にし、じり、と前へ出た。
爪が盾を叩く。火花。床のひび。
それでも一歩、また一歩。
「……っ、くそ……これ以上は……!」
目前まで来た。懐だ。
殺気と熱が直で刺さる距離。
「——今だ、行け!!」
叫びと同時に、強烈な一撃がシールドを打ち据えた。
オットーの身体が後ろへ吹き飛び、シールドが床を削って滑る。
その瞬間、ダリウスは走っていた。
崩れ落ちる盾の影を抜け、距離を詰める。
腕へ飛び乗り、鱗の間に爪先を引っかけ、駆け上がる。
露出したコア。
自分が穿った傷口がまだ開いている。
「——《月下無痕》」
低く告げた。
エルダードラゴンがびくりと反応し、一歩後ろに下がる。
だがその瞬間、ダリウスの剣はまだ鞘の中だった。
斬撃は来ない。
ただ、コアの真正面で眼を見ているだけ。
(虚だよ!)
ドラゴンの重心が揺れた。
「避ける一歩」が無駄になった刹那。
「《月下無痕》!!」
鞘走りが走る。
一撃目が、ドラゴンが下がった場所をなぞる。
二撃目が、逃げ道を塞いだ位置へ刺さる。
十字の二閃。
二つ目のコアが、真正面から十字に切り裂かれた。
ガラスが砕けるような硬質音。
眩しい緑光が吹き出し、緑の血と混じって噴き上がる。
飛沫が視界を染め、肌を打つ。
「——っ!」
ダリウスは体勢を崩しながらも飛び退く。
膝が笑い、視界が一瞬揺れる。
それでも、割れた手応えだけは残っていた。
(捉えた!)
エルダードラゴンの咆哮が、濁る。
苦痛と怒りと焦燥が混ざった声。
緑の血が胸元から滝のように流れ、巨体がよろめく。
その一撃で、戦いの温度が変わった。
遊びだったものが、殺し合いへ移った。
ダリウスも、オットーも、エドガーも、それをはっきり理解していた。




