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【完結済】息切れ・痛風・老眼おっさんパーティ、“老齢の塔”に挑む 旧:塔の頂きへ  作者: けんぽう。


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第38話 安堵のあとに


 その背後で——


 ダリウスは、一度だけ深く息を吸い込んだ。


 肺に入る空気はまだ熱い。喉がひりつく。

 だが、その熱を、まるごと燃料に変えるように、呼吸を整えた。


「行く」


 そう呟いたときには、もう身体が動いている。


 地を蹴る。

 足元の砕けた石片を飛び越え、焼け焦げた床の上を滑るように駆け抜ける。


 再び、エルダードラゴンの懐へ。


 ダリウスの意識は、再び静かな海へと沈んでいった。


 巨体が、ぐるりとこちらへ頭を巡らせた。

 残された片目が、わずかに愉悦を滲ませて細められる。


 ——来る。


 ダリウスの視界の端で、尾が大きくしなった。


 巨大な鞭のような尾が、地面をえぐりながら横薙ぎに迫る。


 ダリウスはそのまま踏み込み、跳躍した。

 全身をひねり、空中で回転しながら、その一撃の軌道をわずかに外へ逃がす。


 尾の風圧だけで、頬を殴られたような衝撃が走った。


(……現役時代から、一度も成功してない技だ)


 回転の最中、ふっとそんな言葉が脳裏をよぎる。

 同時に、胸の奥が妙に静かになっていく。


(でも——今なら、できる気がする)


 空中で身体をひねりきったダリウスは、そのままエルダードラゴンの懐へと落ちるように潜り込んだ。


 左胸の鱗が、目の前に迫る。


 着地と同時に、足腰に溜めていた力を一気に解放した。


「——《オーバースラッシュ》!」


 低く沈み込んだ姿勢から、上へ、斜めへ、爆発するような斬撃が走る。

 刃が鱗と肉をまとめてえぐり上げ、分厚い皮膚が裂けた。


 緑色の血飛沫が、噴水のように吹き上がる。

 熱い液体が頬にかかり、視界の端を染めた。


 エルダードラゴンが低く唸り、巨体をのけぞらせる。


 ダリウスの身体は、斬り上げた勢いのまま再び宙へ舞い上がった。

 回転しながら、さっき刻みつけた傷口へと視線を向ける。


 ——見えた。


 裂けた肉の奥、胸腔のさらに奥。

 そこに、暗闇を押しのけるように、淡い光を放つ球体が脈動していた。


 ドクン、ドクン、と。

 生き物の心臓のように規則的に——しかしどこか機械的な、不気味なリズムで。


(あそこだ……)


 静かな思考の海の中で、ダリウスは確信する。


 全身の筋肉をまとめて一本の線に絞り上げるように、剣を振りかぶった。

 重力も、風圧も、痛みも、今はどうでもよかった。


「《オーバースラ——》」


 その言葉が最後まで紡がれるより早く。


 視界の下から、影が襲いかかった。


 エルダードラゴンの尾だ。


 さきほど躱した軌跡とは違う角度。

 さっきの一撃を分析し、“次”を見越した軌道。


(——くっ)


 ダリウスは空中で無理やり身体をひねった。

 刃の軌道を捨て、尾から逃げる方を優先する。


 だが、間に合わない。


 尾の先端が、逃げようとした腰をかすめた。


 「かすめた」だけ——それでも、その威力は桁違いだった。


「……っ——!」


 肺から空気がまとめて吐き出される。

 衝撃とともに、身体が弾丸のように吹き飛ばされた。


 硬い石壁が、容赦なく背中を叩きつける。


 鈍い音が響いた。

 視界の端で、石が砕け、粉塵が舞い上がる。


(……あ——)


 何かを考える前に、意識が暗闇に引きずり込まれていった。


 ダリウスの身体が、ずるりと壁から滑り落ち、その場に崩れ落ちる。


 声も、息もない。

 剣だけが、かろうじて手から離れず、地面にかすかに触れていた。


 エルダードラゴンは、わずかに首を傾げた。


 床に転がる小さな人影を、片目で見下ろす。

 興味深げに、ひとつ鼻息を漏らしたが、床に転がるダリウスを一瞥しただけで、エルダードラゴンは興味を失ったらしい。


 ゆっくりと、愉しげに口角が吊り上がる。


 巨体がきしむように向きを変え、その黄金の片目が、まっすぐオットーへと向けられる。

 巨大な胸郭が、ゆっくりと大きく膨らんだ。


「……ブレス第二波、来るぞ」


 オットーは前だけを見据えたまま、低く呟いた。

 喉の奥でごくりと唾を飲み込む音が、自分でもはっきり聞こえる。


「——シールドバッシュ、全開ッ!!」


 雄叫びと同時に、シールドが眩い光に包まれる。

 その瞬間、エルダードラゴンの口腔から、再び炎が爆ぜた。理不尽なまでのブレス。

 それが一直線に、シールドへと叩きつけられる。


「ぐぅうううううううっ……!」


 衝撃が、腕から肩、背骨へと貫く。

 オットーの足が床を削り、靴底ごと石をめり込ませていく。それでもなお、押し戻される。


 炎は、ただ熱いだけではなかった。

 シールド越しでさえ、息を吸えば喉を焼かれるような痛みが走る。

 皮膚の表面が、じりじりと炙られていくのがわかる。


「ファイ……エルン……キヌ……」


 その灼熱の中、背後から聞こえてくるのは、かすれながらも途切れないエドガーの詠唱だった。

 炎の咆哮に紛れながらも、一音一音を必死に拾い上げているのがわかる。


「エドガーっ……俺っ……を支えてくれ!!」


 オットーは、歯を食いしばったまま叫んだ。

 もはや自分一人の踏ん張りでは受け止めきれない——そんな確信が、膝の震えと共に迫ってくる。


 詠唱が、ぴたりと止まる。


 次の瞬間には、エドガーの両腕が、背中と腰をがっしりと支えていた。

 魔導士としての細い腕なのに、その力は驚くほど強い。


「下がりませんよ……オットー!」


「おおおおおおおっ……!」


 ずるずる、と。

 二人まとめて床を引きずられ、靴が砕けた石を蹴り飛ばしていく。

 それでも、膝は折らない。シールドも、倒さない。


(……最後の、一絞りだ……!)


 肺が焼ける。視界が赤く滲む。

 それでもオットーは、腹の底から残りの力を絞り出した。


「くぅぅううう……そがぁあああああっ!!」


 叫びと共に、シールドがさらに明るく輝く。

 炎と光と衝撃の渦の中で、ほんのわずか——本当に、寸分だけ——押し返した。


 次の瞬間、ブレスが途切れた。


 重圧がぴたりと消える。

 代わりに、焦げた空気の匂いが一気に鼻腔を満たした。


「……っはぁ、はぁ……」


 オットーは肩で息をしながら、視線だけで敵を見上げた。


 エルダードラゴンの片目は、恍惚とした光を帯びている。

 まるで、ようやく手応えのある遊び相手を見つけた子どものように。


「完全に……遊んでやがる……」


 喉の奥から、乾いた笑いがこぼれた。


 その横で、エドガーは支えていた手をそっと離し、すぐさま魔導書を開く。

 ページをめくる指は震えていたが、その瞳には冷静な光が戻っている。


「……行きますよ」


 短くそれだけ告げて、再び詠唱を紡ぎ始めた。


 その頃、床に倒れていたミラが、うっすらと瞼を震わせる。

 鈍い痛みと共に意識が戻り、目に飛び込んできたのは——壁際で動かないダリウスと、満身創痍のオットーの姿だった。


「ダリウス!!」


 ミラは思わず立ち上がろうとし——足に力が入らず、膝をつく。


 その瞬間、エルダードラゴンの爪が、遊ぶような速度でオットーへと連撃を浴びせ始めた。


 シールドと爪がぶつかり、金属を軋ませるような音が何度も響く。


「行くな、ミラっ!!」


 オットーの声が飛んだ。

 余裕のない声。だからこそ、言葉が鋭くなる。


「大丈夫だ、奴は俺に興味を移したっ……ダリウスは無事だ!

 お前が動くとっ……邪魔だ!!」


 ミラは唇を噛み、爪をぎゅっと握りしめる。

 それでも足は前に出せない。

 彼女の目には、爪とシールドの閃きしか映っていなかった。


「エドガー! 発動までの時間は!?」


 爪を受け止めながら、オットーが怒鳴る。


「四十秒です!!」


 エドガーは冷静に答えた。

 声は震えていない。けれど、その眉間には深い皺が刻まれている。


 四十秒——。


 あの巨体の前で耐え抜くには、あまりにも長い時間だった。


「万が一のときは……俺のスキル、使うぞ」


 オットーは前だけを見たまま、低く言い放つ。


 その言葉に、エドガーの目が細くなった。


「使わせません」


 魔導書から目を離さぬまま、はっきりと言い切る。


「絶対に、使わせませんからね」


 ダリウス不在の戦場。

 今、この場を支えているのは、オットーの盾とエドガーの詠唱だけ。


 四十秒という数字が、永遠にも等しい重みをもって、三人の肩にのしかかっていた。


 エルダードラゴンは、まるで“試し叩き”でもするかのように、意図的にゆっくりと爪を振るい始めた。


 がぎ、とシールドに爪が擦れる。

 次は、がん、と真正面から叩きつける。

 さらに、横薙ぎ、斜め、すくい上げ——。


 そのたびに、オットーの腕と肩に、凶悪な衝撃が流れ込んだ。


(……強度を、確かめてやがるな)


 ドラゴンの黄金の片目が、愉快そうに細められる。

 まるで新しい遊具の耐久度を確かめる子どものように、徐々に、徐々に——攻撃の速度が上がっていく。


 爪の残光が、連なって見えるほどになった頃。


「へっ……どうだ!?」


 オットーは、血の味がする口内を無理やり笑みに変えた。


「俺のシールドは、堪能できたか……?」


 苦笑い。虚勢。そのどちらともつかない笑み。

 それでも、その一言には「まだ倒れてねぇぞ」という意地が詰まっている。


 だが、その背中に浮かぶ汗の量は、限界の近さを雄弁に物語っていた。


 シールドの光が、じわり、じわりと点滅し始める。

 輝きは弱まり、輪郭がちらつく。


(……あと十秒ってところか)


 自分の感覚で、オットーはおおよその残り時間を測っていた。

 膝が笑い始める。腰に鋭い痛みが走る。握った指が痺れ、感覚が少しずつ遠のいていく。


「オットー! 私にできることは!!?」


 背後から、ミラの叫びが飛んだ。

 声は震えているが、瞳は必死に何かを探している。


 オットーは、視線をドラゴンから外さないまま答えた。


「……腰を揉んでくれ。限界だ」


「えっ——」


 けれど、迷っている時間はない。


 ミラはすぐさまオットーの背後に回り込み、両手で腰を掴むと、必死に揉みほぐし始めた。

 ふくらはぎから太腿、腰へとのしかかっていた重さが、ほんのわずかに和らいでいく。


「っ、そこだ……! そこは今いじるな、逆に膝が笑う!! ……よし、そこ! そこだけ集中的にやってくれ!!」


「こ、こう!? こうでいいの!?」


「いいっ……! ……っぐ、今のであと五秒は延びた……はずだ……!」


 ミラは涙目になりながらも、全力でオットーの腰を揉み続ける。

 それは滑稽にも見える光景だが、当人たちは至って真剣だった。


(あと五秒……)


 シールドの光は、いよいよ心許なく揺らぎ始める。

 明滅の間隔が短くなり、消えそうになっては、ミラの手とオットーの意地で無理やり持ち直す。


(……あと三秒)


 オットーは、自分自身にそう宣告した。

 そのタイミングを、あざ笑うかのように——


 エルダードラゴンが、大きく腕を引いた。


 今までよりも、はっきりとわかる“溜め”。

 まるで、ここまでの爪撃がすべて“前置き”だったと言わんばかりに、筋肉が膨れ上がる。


(——来る!)


 次の瞬間、鋭い爪が、先ほどまでとは比べ物にならない速度と重さでシールドへと叩き込まれた。


「——ッ!!」


 凄まじい衝撃。

 光が、一瞬だけ白く弾け、その直後——


 バキィィィンッ!!


 耳をつんざく音とともに、シールドが粉々に砕け散った。

 光の破片と金属の残骸が宙を舞い、石畳の床へと降り注ぐ。


「——あ」


 オットーの視界いっぱいに、巨大な爪が迫る。

 とどめの一撃。その軌道は、確実に彼の胸と頭部を引き裂く位置をなぞっていた。


(終わったな……)


 腹の底で、静かな諦めが笑った。


(——《阿修羅》、使うぜ)


 そう決めた瞬間——


 オットーの視界の端に、影が飛び込んできた。


 よろけながらも、それでも誰より速く、前へ。

 限界をとうに超えた足取りで、オットーの前へ滑り込む影——。


「——《シールドバッシュ!!》」


 聞き慣れた声が、怒号のように響いた。


 ドゴォッ!!!


 砕け散ったはずのシールドとは違う、別の盾が、横から叩きつけられるように爪をはじいた。

 衝撃で軌道がわずかに逸れ、殺到していた爪は、オットーの頭上すれすれを、凶悪な風圧だけを残して通り抜けていく。


 オットーの髪が、風にあおられて立ち上がる。背筋に冷たい汗がつうっと流れた。


「……っぶねぇ……」


 かすれた声で、オットーは呟く。


 自分の前に立つ影——。


 息を切らし、膝を震わせながら、それでも剣ではなく盾を構えている男がいた。


 ダリウスだった。盾越しにこちらへ迫る爪の気配を感じながら、喉が裂けるほどの声を絞り出した。


「——エドガーーー!!」


 叫びというより、それは“託す”ための雄叫びだった。


 その声に、即座に重なるように——


「——《断絶の氷獄神葬》」


 エドガーの低い詠唱が、静かに、しかし確かな響きで世界に刻まれた。


 その瞬間だった。


 大部屋から、音が消えた。


 ブレスの余韻も、エルダードラゴンの咆哮も、オットーの荒い息も——

 すべてが布で覆われたように、唐突に遠のく。


 視界の色が、すっと薄くなった。

 赤い炎も、黒い影も、線画だけを残したみたいに淡くなり——その中で、エルダードラゴンの背後の“空間”だけが、不自然に濃く、重く見えた。


 そこに、黒い亀裂が走る。


 ピシッ——と、空間そのものに罅が入ったかのような線。

 そこから、青白い霧が、ゆっくりと噴き出してきた。


 冷気は霧というより、“毒”めいていた。

 這うように床を覆い、エルダードラゴンの足元へ絡みつくと、その巨大な脚の影から、ざらり、と氷の鎖が伸びる。


 一本、また一本——。


 鎖は足首に、膝に、尾の付け根に、翼の骨に、そして首へと絡みつき、ぎちり、と嫌な音を立てて締め上げる。


 エルダードラゴンが咆哮しようと口を開いたその瞬間には、顎の付け根にも氷の鎖が巻き付き、下顎を強引に押しとどめた。


 拘束が完成する。


 それと同時に、鎖から鎖へと、青白い光が走り抜けた。


 次の瞬間、鎖ごと、ドラゴンの周囲の空間が——閉じる。


 氷でできた監獄が、一瞬にして形成された。

 それは城壁のように分厚く、棺のように静かで、光さえも凍らせてしまうような、完全な“獄”。


 中からは音がしない。

 それでも、何が起こっているかは想像できた。


 氷獄の内部に、無数の光の線が走る。

 それは一本一本が“刃”の形をしていた。氷でできた薄い刃が、雨どころか嵐のような勢いで弾け飛んでいる。


 影絵のようなシルエットだけが、氷壁越しに見えた。


 巨大な竜の輪郭が、内側から細切れにされていく。

 尾がもがき、翼が暴れ、顎が吠えようとして、すべてが氷の刃に呑まれていく。


 やがて——氷獄全体に、静かな凍結が広がった。


 ひび割れが走る。

 腹部に相当するあたりから、大きな断層が生まれ——


 どん、と低い音を立てて、氷獄が崩れ落ちた。


 粉々に砕け散った氷片の中から現れたのは、無様にのたうつエルダードラゴンの姿だった。


 その尾は、付け根から先がまるごと凍りつき、そのまま粉雪のように崩れ落ちている。

 青白い氷が、一瞬だけ光を反射し、次の瞬間には細かな粒となって床に散った。


 腹部には深々とした裂傷が走っていた。

 氷の刃が内側から何度も何度も引き裂いた傷。その隙間から、緑色の血が泡立つように溢れ出し——


 同時に、その奥で光るものが砕け散るのが見えた。


 コアだ。


 先ほどダリウスが開けた傷口。そこに、氷の刃が容赦なく殺到し、むき出しになっていた魔力の核を粉々に破壊していた。


 エルダードラゴンの咆哮が途切れ、氷の霧がぱらぱらと崩れ落ちていく。


 その場に、どさり、と二つの影が腰を落とした。


 オットーとダリウスだ。


「……っはああああああ……!」


 ダリウスは、さっきまで剣を握っていた右手をそのまま地面について、肩で荒く息をした。

 全身が鉛みたいに重い。腕も脚も、さっきの一撃の感触をまだ覚えている。


「……腰が……終わった……」


 隣でオットーも、シールドを前に倒したまま、その上にもたれかかるようにへたり込む。

 さっきまでエルダードラゴンのブレスを受け止めていた脚は、もうまともに力が入らない。膝が笑う、というより、膝が泣いている。


 それでも、口元には同じ表情が浮かんでいた。


 ——笑いだった。


「……やったか……?」


 オットーが、ひくひくと頬を引きつらせながら、笑いとも泣きともつかない声を漏らす。


 ダリウスも、天井を仰いで息を吐いた。


「……あぁ。やった」


 そう言葉にした瞬間、胸の奥にぎゅっと詰まっていた何かが、ようやくほどけていく。

 恐怖、緊張、焦り、後悔——いろんな感情が泥団子みたいに固まっていたそれが、汗と一緒にゆっくり流れ出していく気がした。


 エドガーは少し離れた場所で、ふらり、とよろめいた。


 足元がわずかに揺れたように感じて、慌てて魔導書を杖代わりにして踏ん張る。


「……ふ……」


 喉から漏れたのは、ため息とも、笑いともつかない声だった。

 全身から魔力を抜かれたあとの、あの空虚なだるさ。それでも、今だけはその脱力すら、心地よく思える。


「やりましたよ……ダリウス」


 そう呟いて顔を上げると、向こうで座り込んでいる二人と目が合う。


 ダリウスは、汗と血と埃にまみれた顔のまま、にかっと笑った。

 オットーも、相変わらず息は荒いのに、親指をぐっと突き上げる。


 ミラは少し遅れて、ふらふらとエドガーの傍へ駆け寄ってきた。


「みんな……無事……?」


 震える声でそう訊ねながら、ひとりひとりの顔を確かめるように視線を巡らせる。

 ダリウスは片手をひらひらと振って見せ、オットーは「腰は死んだ」とぼやきながらも笑い、エドガーは小さく頷いて見せた。


「……よかった……ほんとに、よかった……」


 ミラの目尻に、ぱっと涙が浮かぶ。

 その涙は、さっきまでの恐怖ではなく、張りつめていた糸が切れたあとの、どうしようもない安堵の涙だった。


 大きく息を吸い込むと、ダリウスは天井を見上げた。


 煉瓦造りの天井。等間隔に並んだ松明。

 さっきまでは、そこすべてが敵の縄張りに思えたのに——今は、ただの「ダンジョンの天井」にしか見えない。


「……三十階層、突破……か」


 ぽつりと零した言葉は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに三人の胸に、同じ重さで落ちていった。


「ははっ……」


 オットーが、遅れて笑い出す。


「ドラゴンだぜ? エルダードラゴンだぜ? よくもまあ、中年の身体で……」


「文句言うな。倒したのは事実だ」


 エドガーが苦笑しながら言えば、ダリウスも肩を揺らして笑う。


 限界まで追い詰められた末の、どうしようもない笑い。

 けれど、その笑いの底には、確かな誇りと、生き延びたことへの深い感謝があった。


 全員の肩から、目に見えない重しが、ゆっくりと外れていく。


 ——このとき、四人の胸に満ちていたのはただ一つ。


 “やりきった”という、甘くて、少しぼんやりするような安堵だけだった。


 だが——。


 白い霧の向こうから、ずるり、と重い何かが動く音がした。


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