第22話 内緒の革袋
洞窟の天井から、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる音がしていた。
その合間を埋めるように、焚き火がぱちぱちと小さく弾ける。
火の上には、いくつもの串が並んでいる。
ダリウスが手際よくそれを回し、指先で塩と香草、砕いた胡椒をつまんで振りかけると、表面に浮いた脂がじゅうっと音を立ててはねた。
パリッと焼けた肉の表面から、透明な肉汁がじわりとにじみ出し、熱で細かく揺れている。
スパイスが焦げる香りは、焚き火の煙と混じり合い、さっきまで冷えて湿っぽかった洞窟の空気を、いっぺんに「飯の匂い」の空気に塗り替えていく。
「……で、ダリウス。さっきのはなんだったんだ?」
焚き火の向こうで、オットーが素足を火に向けて温めながらぼやいた。
つま先が真っ赤になっているが、本人は気持ちよさそうにため息をついている。
その隣では、ミラが毛布にくるまり、鼻先だけ出してもぞもぞしていた。
「そうだよダリウス! なんかこう——」
ミラは毛布からぬっと顔を出し、両手で謎のポーズを取る。
「『ふふふ……あなたの攻撃パターンは、すべてこのミラ様の脳内に記録されているのだ!』みたいな感じだった!」
「いや、誰だそれは」
ダリウスは吹き出しそうになりながらも、串をくるりと返した。
「『ミラ様』じゃなくて俺が動いてたんだが……」
「細かいことはいいの! でも本当に、そんな感じに見えたんだよ。
ミノタウロスの攻撃ぜーんぶ『はい、次これ来るでしょ』って避けてる感じ!」
ミラが興奮気味に身振り手振りで再現するたび、毛布がずるずる落ちていく。
「……いや、正直なところ、俺にもよくわからないんだ」
ダリウスは少し真面目な顔に戻り、串の焼き具合を確かめながら言った。
「気づいたらな、相手の動きがやたら遅く見えてきてさ。
頭の中がやけに静かで、先に“こう来る”ってのが分かる、みたいな……」
言葉にしながらも、自分でも腑に落ちていない様子だった。
エドガーは、焚き火の明かりで魔導書のページをぱらぱらとめくりながら口を挟む。
「昔読んだ本に、似た話がありましたね。
極度の緊張と、極度の脱力が同時に噛み合った時……『超集中状態』と呼ばれるものに入ることがあるそうです」
「超集中……?」
ダリウスは串を一本ずつみんなに配りながら、首をかしげた。
「そんな大層な名前で呼ばれるほどのもんかね」
「事実、大層でしたよ」
エドガーは淡々と言う。
「怪物相手に、あの間合いで生きていられる人間は、そうそういません」
オットーはというと、もう説明そっちのけで串にかぶりついていた。
口いっぱいに肉を詰め込みながら、慌てて飲み込む。
「んぐっ……ごほっ……んん! ……確かにあれは神がかってたぞ!」
「……神がかってたって言われると、妙にむず痒いな」
ダリウスは肩をすくめ、焚き火の炎を見つめる。
「……ただ、なんとなくだがな。超集中の……もう一段先がある気がする」
「先?」
ミラがもぐもぐしながら首を傾げる。
「またあの状態に入れるかどうかも怪しいくせに、欲張りですね」
エドガーが少しだけ笑った。
「ともかく、あの状態を“前提”に戦術を組むのはやめておいた方がいいでしょう。
『ないもの』としてプランを立てて、それでも勝てる形を考えた方がいい」
「だな」
ダリウスもうなずく。
ふと、焚き火の赤い光がオットーの顔を照らした。
彼は串を持ったまま、少し俯いている。
「……あと、登山の時はオットーの腰のケアもしないとな」
「めんもくねぇ……」
オットーが珍しく、しょんぼりとした声を出した。
「あれはほぼぎっくり腰ですよ。年相応に自覚を持ってください」
エドガーは、目線をそらしながら、どこか照れたように続ける。
「……次から、荷物は……私も半分持ちます」
「おお、エドガーが優しい……雪でも降るのか?」
「えぇ、がっつり降ってましたよねさっきまで」
軽口を叩くダリウスに、エドガーがため息を混ぜて返す。
ダリウスも、串をかじりながら言葉を足した。
「俺も持つさ。
よく考えたら、盾と斧だけでも相当な重量だ。あの中でシールドバッシュ連発させたのは、こっちの采配ミスだよ」
「……そう言ってもらえると、少しだけ気が楽だな」
オットーは焚き火を見つめながら、小さく笑った。
そんな大人たちの会話を聞き流していたのか、ミラは突然、別の疑問を投げる。
「ねぇ、話は変わるんだけどさ」
「ん?」
「ダンジョンのお宝箱って、なんでみんなスルーなの?
魔物の素材とかも売れるんでしょ? お金、もったいなくない?」
もっともな疑問だった。
エドガーは、あっさりとした口調で答える。
「私は特に、お金に困っていませんからね……。
研究に必要な範囲は、とっくに賄えていますし」
「俺もだなぁ」
オットーが寝転がり、頭の後ろで手を組んだ。
「引退した時の貯えがあるからよ。酒とつまみ程度なら、一生困らねぇ」
「……」
ミラの眉が八の字に曲がる。
ダリウスはくすりと笑い、ミラの方を見た。
「そういうことだ、ミラ。
荷物がこれ以上増えたら、そのぶん動きが鈍るだけだ」
焚き火の光に照らされながら、ダリウスは穏やかな口調で続ける。
「俺たちの目標は、宝箱でも魔物の素材でもなく——塔の最上階にある薬だ。
それを手に入れられれば、それでいい」
「……うーん」
ミラは頬をふくらませる。
「なんか、やっぱりもったいないと思うんだよね……」
そうブツブツ言いつつも、手はしっかり串に伸びている。
食事がひと段落すると、ダリウスは立ち上がり、焚き火の周りを片付け始めた。
「よし、皿はこっちに……スープの鍋はあとで湯を足して……」
「なぁミラ、ちょっとこっち来い」
その隙を見計らったように、オットーが声を潜めて呼びかける。
テントの裏側、焚き火の明かりが届きにくい影の中へと手招きした。
「ん? 何?」
ミラが小走りで近づく。
その背中を追うように、エドガーもこそっとついてきた。
オットーは周囲をちらりと確認すると、腰のあたりから小さな革袋を取り出した。
「ダリウスには内緒だぞ」
袋の口を開くと、中には宝石や指輪、装飾の施された留め金などがぎっしり詰まっていた。
どれも軽くて、換金しやすそうなものばかりだ。
「わ……!」
ミラの目が、一気に星のように輝く。
「すごい……!」
「俺たちが宝箱をスルーしてたと思ったか? するわけねぇだろ」
オットーがニヤリと笑う。
「見つけた時に、換金しやすそうなもんだけ、こっそり抜いておいたのさ」
それは四十を過ぎてから覚えた、“ほどほどのズルさ”だった。
「私も」
エドガーが、別の小袋を取り出した。
中には、丁寧に包まれた魔物素材がいくつも詰められている。
「魔物の素材を少しずつ集めておきました。
ここを出る時、まとめてミラに渡します」
「え、本当に!?」
ミラは目を丸くし、二人の顔を交互に見た。
「でも、なんでダリウスに内緒なの?」
「はぁ……」
オットーが深く息を吐いた。
「あいつに言ったら、まず間違いなく『受け取らない』からだよ」
「ダリウスらしいですね」
エドガーが苦笑する。
「他人にはやたら優しいくせに、自分には驚くほど厳しいんです。
引退の時だってそうでしたよ——『俺はこんなにもらう資格はない』って言って、功労金を突き返そうとしたんですから」
「えっ……そこで受け取らないの?」
「そう。だから、結局みんなで相談して“後から郵送”しました」
エドガーは肩をすくめる。
「そしたら今度は、丁寧すぎるお礼の品が全員に返ってきましてね。
あれはあれで、処理に困りました」
「……ダリウスって、ほんとそういうとこあるわよね」
ミラは、困ったような、でもどこか誇らしそうな笑みを浮かべた。
「だから、これは“内緒”なんだ」
オットーは小袋をミラの手に握らせる。
「ここから出る時、お前が換金してくれ。
必要な時に、必要な分だけ——自分のために、あるいは……あいつのために、使ってくれ」
「……うん」
ミラはぎゅっと袋を握りしめた。
その時——
「おーい、何こそこそ話してるんだ?」
ダリウスの声がテントの向こうから飛んできた。
三人がびくっと肩を跳ね上げる。
「なななななな、なんでもないよ!!!」
ミラが明らかに挙動不審な動きで両手をぶんぶん振る。
オットーは平然を装い、ニヤリと笑った。
「ちょっとな、恋の相談に乗ってやってただけだよ。
大人のビターな意見ってやつをよ、教授してたんだ」
「保護者には言えない悩みもありますからね。お年頃ですよ」
エドガーも目を閉じ、肩をすくめてみせる。
「……そうなのか?」
ダリウスは首を傾げつつも、それ以上は追及しなかった。
ミラは二人の顔を見て、ふっと笑う。
「みんな、ありがとね」
それが、宝石のようにきらめく感謝なのだと、焚き火の明かりがそっと教えてくれていた。




