第20話 地味でいい
再び、十三階層。
空は雲ひとつない快晴。陽光をたっぷり吸い込んだ草原が一面に広がり、その先には——二千メートル級はあろうという山が、どっしりとそびえ立っていた。
斜面はごつごつとした岩と濃い緑に覆われ、頂は遠く、かすんで見える。
四人は装備を少し軽くし、新調したマントの留め具を確かめながら、無言で山を見上げていた。
風が吹くたび、四人のマントが同じ方向へはためく。
「……さぁ、行くか」
山頂をじっと見つめたまま、ダリウスが短くそう言った、その時。
「ちょっと待って」
ミラが、探偵が推理を始めるときのように顎に指を当てて、ダリウスを制した。
「ん? どうした」
オットーが、気の抜けた声で振り向く。
ミラはくるりと草原側を向き直ると、両腕を大きく広げた。
「よく考えたらさ、こんなに広い草原なんだよ?
“山を登れ”って、誰も言ってないじゃない。
草原の奥に、次の階層の入り口があるかもしれないでしょ?」
どこか「登山はできれば回避したいです」という本音がにじむ声だった。
オットーは一瞬きょとんとしたあと、腹の底から笑い出す。
「はっはっは! こういうのはなぁ、山の頂上か、途中の洞窟か——その辺にあるって相場が決まってんだよ」
「むー……」
ミラは、どうにも納得いかないという顔で頬をふくらませる。
ダリウスはそんな彼女に向き直り、やさしくなだめるように微笑んだ。
「ミラ、ちょっとでいい。草原の方に向かって、まっすぐ歩いてみな」
「??? いいけど……」
首をかしげながらも、ミラは言われた通り草原へ歩き出す。
さらさらと草を踏む音が遠ざかっていった。
十メートル、十五メートル——
「わっ!?」
およそ二十メートルほど進んだところで、ミラの身体が、何か“見えないもの”にぶつかり、そのまま後ろにひっくり返った。
「いたた……!」
尻をさすりながら立ち上がると、ミラは目の前の空間を両手でぺたぺたと触り始める。
「なにこれ……ほんとに、何か壁がある!!」
掌に伝わるのは、硬い感触。
透明な壁は、そのまま山のほうへ向かって、まっすぐ伸びているようだった。
ミラはダッシュで戻ってくる。
「ダリウス、どういうこと!? ねぇ、どういう仕掛けなの!?」
目をきらきらさせたミラに、ダリウスは「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりに講義口調になる。
「転移型ダンジョンの特徴だよ。
広い空間に見えても、実際に進める範囲には“限界”がある」
「見た目だけ広く見せて、おあそびさせてくれるんですよ」
エドガーは肩をすくめて続ける。
「性格悪っ!」
ミラが顔を膨らませた。
「厄介なのはですね、その透明な壁が——途中で曲がったり、分岐したりすることなんです」
「だから、エドガーの出番ってわけだ」
オットーがニヤリと笑った。
エドガーは得意げに胸を張り、羊皮紙を取り出す。
「えぇ、“地図の魔法”を使います」
そう言うと、魔導書を広げ、いつものように虫眼鏡を取り出し、小さな文字を追いながら詠唱を始める。
「シェル……う……ドゥ……ん……」
ぼそぼそとした声が風に流れた、そのとき。
パンッ、と小気味よい音が響く。
「よし、じゃあお茶の準備でもするか」
ダリウスが手を叩きながら立ち上がる。
「そんなにかかりませんよ!!」
エドガーの焦りと怒りの混じった声が、草原にむなしく響いた。
*
それからしばらくして。
ダリウスたちは折り畳み椅子に腰かけ、山から少し離れた位置で、必死に詠唱を続けるエドガーを遠目に見ながら、優雅にコーヒーをすすっていた。
湯気とともに立ちのぼる香りが、風に乗ってふわりと漂う。
「ダリウスの入れたコーヒーって、本当に美味しいね」
ミラはカップを両手で包み、指先を温めながらほっと笑う。
「本当だぜ。これにアルコールが入ってりゃなぁ」
オットーは真顔でつぶやいた。
「おいおい」
ダリウスは呆れつつも、どこか嬉しそうに肩をすくめる。
そんな中、少し離れた場所で、エドガーの声が高まった。
「……<地界記章>!」
羊皮紙の上に淡い光が走り、エドガーを中心とした半径三十メートルほどの地形が、線と記号で描き出されていく。
見えない壁の位置も、くっきりと示されていた。
「よし……ちゃんと出ましたね」
エドガーは額の汗をぬぐい、ほっと息をつく。
「おつかれ、エドガー。コーヒー飲むか」
ダリウスがカップを差し出すと、エドガーは少し息を切らしながら、それを受け取った。
「……お、お願いします」
声には、少しだけ「本当にそんなに時間かかってましたか」という悔しさが滲んでいる。
こうして——四人は登山前から、しっかり目のティータイムをとることになったのだった。
山肌をなめる風が、ざらついた岩を擦るように吹き抜けていく。
「——さぁ、今度こそ行くか」
ダリウスが腰の剣に軽く触れながら、山頂を一度だけ見上げて言った。
エドガーは手にした羊皮紙を広げ、位置を確かめるように目を細める。
「ひとまず、まっすぐですね。ここから先は……登りが続きますよ」
四人は岩だらけの山道へと足を踏み入れた。
足元はごつごつとした岩だらけで、土の柔らかさはほとんどない。
一歩踏み出すごとに、脚へじわりと負荷がかかる。
ダリウスは、歩きながらそっと腰を落とし、いつでも剣が抜ける体勢になった。
「……そして、前方七体。来るぞ」
その言葉と同時に、山の上方からぴょん、ぴょん、と影が跳ねながら近づいてくる。
岩の上から岩の上へ、鳥のような軽さで跳躍する小柄な影たち。
エドガーは魔導書のページをめくり、その姿を確認するとすぐに口を開いた。
「レッサーモンキーですね。投石が得意な小型種です」
「オットー、シールドバッシュ」
ダリウスの短い号令。
「はいよ」
オットーは肩からずらしていた大盾を前に構え、一歩前へ出る。
淡い光が盾の表面を走り——
「<シールドバッシュ>!」
目に見えない力場が、盾の前面にぴたりと張り付くように展開される。
その瞬間を待っていたかのように、レッサーモンキーたちは距離を詰めず、やや高い位置から一斉に腕を振りかぶった。
——カンッ、カンッ、カンッ。
無数の石が弾丸のような勢いで飛来し、オットーの盾に雨あられとぶつかる。
しかし、盾は微動だにしない。石は全て、弾かれて地面へと転がり落ちていった。
「やっぱり、そう来るか……」
ダリウスは小さくため息をつく。
「昔やった“あれ”で行くか」
「やれやれ……」
エドガーは肩をすくめ、しかしすぐに頷いた。
「今の私たちには、最善手ですね」
甲高い声を上げながら、レッサーモンキーの一部が、側面から回り込もうと斜面を駆け下りてくる。
ダリウスは振り返りもせず、落ち着いた声で言った。
「ミラ。左右からの攻撃に対して、簡易結界を張ってくれ」
「了解!」
ミラは嬉しそうに一歩前へ出て、ネックレスを握りしめる。
「女神の息吹よ、罪なき者を囲い守れ——《聖遮のヴェール》!」
瞬間、パーティの左右に薄い光の幕が立ち上がる。
完全防御ではないが、横合いからの石の軌道をわずかに逸らし、威力を削ぐには十分だった。
それでも、それを力づくで突破しようと、何体かのレッサーモンキーが突撃してくる。
「来たな」
ダリウスは低く呟き、剣を抜いた。
しかし、その剣筋は“斬り捨てる”ためではない。
迫る猿の腕を弾き、足を払って転ばせ、盾の前面に近づけることなく押し返す——
ただひたすら、オットーが展開するシールドバッシュの「内側」に敵を入れさせないための剣戟だった。
無駄な深追いも、有効打を狙った大振りも一切ない。
一歩踏み込み、一歩戻る。
呼吸とともに、最小限の動きだけで軌道を逸らしていく。
「はっ、はっ……!」
息は上がりつつも、ダリウスの体幹は微動だにしない。
その横で——
「さて、と」
オットーは盾を前に出したまま、じり、じり……と歩を進めた。
最初は真正面。
そこから少しずつ角度を変え、斜面を横切るように移動し——
やがて、レッサーモンキーたちより、わずかに高い場所を取る形になる。
「……はぁ、疲れた」
ダリウスは額ににじんだ汗を拭いながら、ぽつりとこぼした。
「しかし、これで勝ちですね」
エドガーは冷静に言う。
口調は落ち着いているが、その胸元はうっすら上下していた。
「え? ただ場所を変えただけじゃないの?」
ミラは首をかしげている。
ダリウスは、そんな彼女に片手を伸ばした。
「まぁ、ミラ。これを持ってくれ」
「え?」
渡されたのは、拳を三つ分ほど合わせた大きさの、ずっしりとした岩だった。
「え、これで殴るの?」
「投げるんだよ」
そう言うなり、ダリウスは片手で岩を持ち、レッサーモンキーたちの方へとしなやかに腕を振るった。
ひゅっ——ごつん。
投げた岩は鋭い弧を描き、一体のレッサーモンキーの肩を直撃する。
猿は悲鳴を上げて転げ落ち、慌てた仲間がよろめきながら避けようとして、さらに二、三体が巻き込まれて転んだ。
エドガーも無言で岩を拾い上げると、さながら仕事の延長のような無表情で、淡々と投石を始めた。
ひゅっ、こつ。
ひゅっ、こつ。
派手さはないが、一投ごとに一体ずつ、じわじわと数を削っていく。
「え、えっと……こう?」
ミラも慌てて岩を持つが、投げ慣れていないのか、ひょいっと放った石は前へ飛ばず、坂をコロコロ転がっていった。
「あ、下に行っちゃった」
その“外れ玉”が——ちょうどレッサーモンキーの頭上に転がり落ちる。
ごつん。
「きゃっ!?」
脳天直撃。猿はひっくり返り、そのまま転がった岩が別の個体の足元に当たって滑らせ、さらにもう一体が避け損ねてぶつかる。
ドミノ倒しのように、レッサーモンキーたちが次々と派手な悲鳴を上げて転げ落ちていく。
「……なんか、当たった」
ミラがぽかんと呟く。
「結果オーライだ」
ダリウスは苦笑しながら、次の岩を手に取った。
それでも、しびれを切らした数体は怒りに任せて突進してくる。
だが、それはオットーの“領域”へ飛び込むことを意味していた。
「ほらよ!」
オットーはシールドバッシュの力場を前へぐっと押し出す。
突っ込んできたレッサーモンキーたちは、弾かれたように跳ね返され、地面を転げ回った。
投石は盾と結界に防がれ、突撃は盾で潰される。
高所を取ったダリウスとエドガーの投石は淡々と数を削り——
やがて、レッサーモンキーたちは悲鳴を上げながら、一斉に山の下方へ逃げていった。
静寂が戻る。
息を吐きながら、ダリウスは岩を地面に置いた。
「……よし、一息入れよう」
岩に腰を下ろし、額の汗をぬぐいながら呟く。
「なんか、地味だったね」
ミラが、ほんの少しだけ肩透かしを食らったような顔で言った。
さっきまで飛んだり跳ねたりしていた分、余計にそう感じるのかもしれない。
「……あぁ」
ダリウスは苦笑する。
「でも、これが一番消耗が少ない。派手にやった分だけ、あとできっちりツケが回ってくるからな」
すると、エドガーがふっと視線を遠くに彷徨わせた。
「……これを初めて使った時は、ペース配分なんて言葉すら知らない若造でしたよ」
独白のような、静かな声だった。
「体力も魔力も、ギリギリどころかマイナスにまで落として……」
オットーが顔をしかめ、苦笑混じりに続ける。
「みんなヘロヘロでよ、最後の方なんてエドガー、魔法どころかその辺の木の枝振り回して魔物殴ってたからな」
「……やめてください。忘れたい黒歴史です」
エドガーは咳払いをひとつしてから、少しだけ表情を和らげた。
「生き残るためとはいえ、あのときは本当に死ぬかと思いました。
まさか何十年も経ってから——今度は“体力温存のため”に同じ戦法を使うことになるとは、夢にも思いませんでしたよ」
どこか諦めと自嘲をまぜた、しかしどこか誇らしげでもある言い方だった。
「へぇ〜」
ミラは目を丸くして、三人の顔を順番に見つめる。
「みんなもいっぱい失敗とかしてたんだ。なんか……“百戦錬磨おじさん”って感じで、最初から完璧だったのかと思ってた」
「たくさんしたよ」
ダリウスが、ぽつりと言った。
青空を仰ぐ。
高くそびえる山の稜線の向こう側に、過去に置いてきた顔がいくつも浮かんでは消える。
「……たくさん失敗して、たくさん怪我して。たくさん……仲間も、失った」
その声音には、笑いでも泣きでもない、静かな重みがあった。
次の瞬間、その背中に、大きな手がぽん、と乗る。
「しんみりすんなよ」
オットーだった。
いつものように乱暴で、けれどどこか優しい力加減で、ダリウスの肩を叩く。
「俺たちは“昔話をしに”ここに来たんじゃねぇだろ。生きて帰るために、ここにいるんだろ、リーダー?」
そう言って、にっと笑う。
「ついてくぜ。どこまでもな」
「……全く」
エドガーも、どこか照れくさそうに笑った。
「身体にはガタが来ていますがね。
その分——リーダーの知恵は、昔よりずっと冴えてますよ」
「買いかぶりだ」
そう言いながらも、ダリウスの口元は自然とほころんでいた。
視線が、改めて山の頂へ向かう。
果てしなく遠く思えた斜面が、ほんの少しだけ近く感じられた。
「……地味でいい」
ダリウスは、仲間たちの顔を一人ひとり見回しながら言った。
「派手じゃなくていい。ズルくたって構わない。
俺たちのやり方で——一歩ずつ、登っていこう」
ミラが力強く頷く。
オットーは盾の柄を握り直し、エドガーは羊皮紙を胸に抱えた。
老いた脚で、一段一段。
その山を登るために。
四人は再び、前へと歩き出した。




