第12話 また同じことをする
それまでびくともしなかった光の壁に、初めてヒビのような揺らぎが走りオットーのシールドが——揺れた。
「……すまん」
オットーは苦笑しながらも、汗が滝のように流れている。
「俺も……もう限界みたいだ……!」
ドンッ、ドンッ、ドンッ!!
巨大な光壁が、鼓動のように点滅する。
ゴブリンたちの咆哮が狭い通路にこだまし、
次の瞬間、全員が一斉にシールドへ飛びかかった。
ガガガガガッ!!!
光壁が、はちきれそうな悲鳴をあげる。
(まずい……!)
ダリウスは歯を食いしばる。
手にはオットーの予備の斧——だが、この通路の幅では振れない。
(斧もダメ、前衛は崩壊寸前……
エドガーは倒れたまま……
どうすれば……?
俺たち、準備した。揃えた。
なのに……こんなところで……?)
頭が真っ白になり、呼吸が荒くなる。
——その時。
「待って!!」
ミラの声が通路全体に響きわたった。
「私に、作戦があるわ!!」
その顔は、震えながらも“覚悟”の色で満たされていた。
ダリウスとオットーは同時に固まる。
「ミラ……?」
ミラはそれぞれにポーションを放り投げた。
「ダリウス! オットー!
これ飲んで!! 少しでも前線維持して!!」
オットーは受け取って呆然とする。
「い、いけるが……作戦って……?」
ダリウスは戸惑いながらもポーションを握りしめる。
「……任せてもいいのか?」
ミラは強く頷き、言い切った。
「任せて……! 私がなんとかする!!」
ダリウスは迷わずシールド前へ戻り、
オットーは全身から湯気が出るような勢いで光壁を支えた。
「くそぉおおおおおお——ッ!!」
腕が震える。
膝が折れそうになる。
それでもオットーは後退しない。
シールドは点滅を繰り返し、いつ崩れてもおかしくない。
その——刹那。
「……ん、ぁ……?」
微かな声が、通路の後ろから聞こえた。
「エドガー!?」
ミラが振り返ると、エドガーがゆっくり身体を起こしていた。
目はまだ虚ろだが、唇が動いている。
「……詠唱……途中で、途切れてましてね……
もう少しで……全部……」
エドガーは震える手で、虫眼鏡を拾い上げた。
そして、もう一度魔導書を開き、残りの詠唱を紡ぎはじめる。
その声は弱いが——確かな魔力が宿っていた。
ミラが叫ぶ。
「ダリウス!! 下がって!!」
ダリウスはミラの声に反射して退避。
オットーは限界のシールドを張ったまま踏ん張る。
「エドガーーーッ!!」
ダリウスの叫びが背に届く。
エドガーは片目を細め、低く呟いた。
「——《焔葬陣》」
ズォォォォォォォォ!!
轟く炎が通路いっぱいに解き放たれた。
狭い洞窟が灼熱の炉と化し、ゴブリンたちは悲鳴を上げる間もなく——
消し炭になった。
残ったのは、焦げた匂いと静寂だけ。
戦闘が終わっても、しばらく誰も動けなかった。
狭い洞窟に立ち込める焦げた匂い。
消し炭になったゴブリンの残骸。
そして——静寂。
オットーは地面に手をつき、肩で荒い息をした。
エドガーは壁にもたれ、まだ意識がふらついている。
ダリウスは片膝をつき、刺さった矢の痛みに呼吸も定まらない。
ただ一人、ミラだけがしっかりと立っていた。
ダリウスは苦しげに顔を上げ、絞り出すように言った。
「ミラ……魔物が来ると……やばい。
頼めるか……?」
ミラは、戦いの中とは思えないほど穏やかに微笑んだ。
「えぇ、もちろんよ」
彼女は胸元のネックレスに手を添えた。
それは小さな女神像の彫刻が施された銀の飾り。
ミラは静かに目を閉じ、その像をぎゅっと握りしめる。
「——女神よ、御手にて視線を覆い給え
《見えざる聖幕》」
ほんの一瞬、冷たい風が洞窟を撫でた。
次の瞬間、パーティの周囲に透明な膜が張り巡らされる。
魔物が気配を探るように遠くで唸る声がしたが、近づく気配はない。
ダリウスはほっと大きく息を吐いた。
「……助かった」
「次はダリウスの番よ。足、見せて」
ミラは迷いなくしゃがみ込み、ダリウスの足に刺さる矢をそっと掴んだ。
ダリウスは覚悟を決めて頷く。
「頼む」
ミラは矢を見つめ、真剣な表情で宣告した。
「死ぬほど痛いからね」
ダリウスは口角を上げて笑う。
「……慣れてるよ」
ミラは一気に矢を引き抜いた。
ズバッ!!
「——ッ……くっ!」
ダリウスの顔がひきつり、呻き声が漏れる。
血が地面に滴り落ちる。
「はい、次——」
ミラはすぐにネックレスを握りしめ、目を閉じた。
先ほどよりも柔らかな声が洞窟に響く。
「女神よ、痛みを撫で給え
《癒光》」
淡い金色の光がダリウスの足を包み込む。
みるみるうちに血が止まり、傷口がふさがり、
やがて——傷は跡形もなく消えた。
ダリウスは驚きに目を瞬かせる。
「……すごいな。全然痛くない」
ミラは胸を張って微笑んだ。
「でしょ?」
その表情は、戦場の緊張とは無縁のように優しかった。
しばらく、誰も言葉を発せなかった。
洞窟には、ただ三人の荒い息遣いだけが残っている。
焼け焦げた魔物の匂いと、湿った岩壁の冷気が混ざり合い、
戦いの余韻が薄く漂っていた。
ようやく呼吸が整ってきた頃——
オットーが不思議そうに眉を寄せた。
「しかし……ミラ。どういうカラクリだ?」
ダリウスも腕を組み、ミラの方へ首を傾ける。
「どうやってエドガーを起こした?
マナポーション飲ませられなかったろ?」
視線が一斉にミラへ向けられる。
エドガーは、自分の名が出された瞬間に視線を逸らし、
何も言わずに口をへの字に曲げた。
ミラは——満面の笑みを浮かべた。
ほんの一瞬だけ、”震えるような泣き顔”が見えた気がしたが、
すぐにいつもの輝く笑顔に戻る。
「どうって口移しよ! それしかないじゃない!」
ダリウスとオットーは同時に叫んだ。
「「なっ!?」」
ダリウスは、顔を真っ赤にし、保護者としての何かが爆発した。
「そ、それって……キ、キス……。
だ、大丈夫……なのか!? その……問題とか……!」
ミラは胸を張って言い放った。
「平気よ!
ちょっとだけ——エドガーの息が臭かっただけだよ!」
エドガーの表情は真っ白になり、
ふらり、と横に倒れそうになる。
「そんな……馬鹿な……私は毎朝……ミント……ティーを……」
オットーは腹を抱えて笑い、
ダリウスは呆れたように頭を抱えた。
「そ……そうか……」
だが、すぐに真剣な顔に戻り、仲間たちを見回す。
「……今日はここで野営にしよう。
全員消耗が激しすぎる」
オットーは無言で頷き、
エドガーは心の傷を抱えながらうなだれ、
ミラは結界の中でにっこりと微笑む。
戦いの終わりの静けさ。
その中で、四人はようやく生き延びた実感を噛みしめていた。
洞窟の夜は、外の世界と違って「夜らしさ」がなかった。
暗闇はずっと暗闇のまま、朝も夕も曖昧で、
ただ湿った岩肌に響く水滴の音と、時折通るモンスターの足音だけが
時の流れを教えてくれる。
——その足音も「見えざる聖幕」の結界に触れることなく通り過ぎていく。
最も消耗していたオットーとエドガーは、
それぞれ毛布にくるまり、完全に寝息を立てていた。
酒と疲労に沈むオットーの豪快な寝息と、
エドガーの規則正しい浅い呼吸が、一定のリズムで洞窟に響く。
ダリウスも横になり、腕を枕にしながら天井を見つめる。
今日の戦いが、脳裏を離れない。
(……危なかった。ミラがいなければ——)
その時だった。
隣から、小さく押し殺した啜り泣きが聞こえた。
最初は、洞窟の水滴かと思った。
だが、それは柔らかく震える声で、
はっきりと“ミラ”のものだった。
「ミラ……」
ダリウスは天井を見たまま静かに呼びかける。
ミラはダリウスに背を向けたまま、震える声で返した。
「……なに、ダリウス……」
呼吸を整えようとして、整えられない。
そんな声だった。
「お前がいなければ……全員、死んでた」
ミラは返事をしない。
肩だけが小さく揺れている。
「それに……お前の“大切なもの”を使わせた」
ミラの啜り泣きが、少し強くなる。
ネックレスの女神像を握り締めていた、その小さな手を思い浮かべて
ダリウスは胸が締めつけられた。
「もう、こんなことには……しない。絶対にだ」
少し間があった。
ミラの声は、泣き声のまま震えていた。
「……うん……。でもね……
もし同じことが起こったら……
わたし……やっぱりまた同じことすると思う……」
背中越しに言葉が届く。
洞窟の闇よりずっと深い、少女の決意だった。
「だって……みんなに……死んでほしくないから……」
涙声が、結界の薄い光の中に沈んでいく。
ダリウスは息をゆっくり吐き、言った。
「……ありがとう」
「……うん……」
ミラの啜り泣きは、すぐには止まらなかった。
涙が尽きるまで、声が枯れるまで続いた。
その間ずっと、ダリウスは優しく声をかけ続けた。
叱りもせず、励ましも強要せず、
ただ隣にいる仲間として、温度を少しでも分け与えるように。
やがてミラの呼吸は落ち着き、
規則正しい寝息へと変わっていく。
結界の淡い光の中で、
ダリウスは静かに目を閉じた。
(……絶対に守る。絶対にだ)
洞窟の夜が、ようやく深まった。




