7.
森から抜け出し首尾よく帰途に着いたニコラは、何とかマナーの授業時間内に学校へ戻ることができた。
マナーの講師には具合が悪くて医務室で休む旨を伝えていたので、拝借した馬を馬房へ戻すと水を飲ませ、乗せてもらったお礼にと丁寧にブラッシングを済ませる。
そこから誰にも見つからないようにこっそりと、あらかじめ開錠しておいた医務室の窓から校舎へと身体を滑り込ませると、何食わぬ顔でベッドへ潜り込んだ。
具合が悪くて休んでいた体なので、服の襟元を少しだけ緩め、額に汗でも浮かんでいないかと慎重に拭い、秘密裡に行った活動の痕跡を消した。
ちょうどひと息ついた頃合いに授業の終了を告げる鐘の音が校内に鳴り響くと、講義室経由で医務室へとやって来たと思われるテオドールが、心配そうな顔でニコラを迎えに来た。
その表情を見た瞬間、しなくてもいい心配を彼にさせてしまったことに、ニコラの胸はチクリと痛んだ。また迷惑をかけてしまった、と森の中でも感じた何とも言い知れない歯がゆさが胸に去来し思わず唇を噛みしめると、それが逆にテオドールの心配に輪をかけてしまったようだった。
「ニキさま、大丈夫ですか? まだ具合が悪いんじゃ…。何なら馬車まで横抱きで運びましょうか?」
ニコラの様子を窺いながら提案してくるテオドールの気遣いなのか何なのかよくわからない妙にずれた内容に、ニコラは渋い顔でかぶりを振った。
大体、横抱きなどと言い方を変えているが、つまるところ俗にいう『お姫さま抱っこ』ではないか。そんなことを従者にされて馬車まで運ばれる公爵令息がどこの世界に居るというのだ。いや、広い世の中にはもしかしたらやむを得ない事情によって横抱きスタイルで運ばれる令息も居るのかもしれないが、実際に横抱きなどされたら目立って仕方がない。
たとえば端正な顔立ちが目立ってしまうのは仕方ないとしても、学校では常に立派な公爵令息を演じなくてはならないニコラにとって、そんなことで目立つのは不本意極まりないことだった。
男装をして女子と見破られまいと必死で立ち振る舞っているニコラが、そう思うことを知っていてわざと提案してくるのだったら、それはきっとテオドールのちょっとした報復なのかもしれない。
具合が悪かったことをテオドールには黙って医務室へ行ったことを怒っているのだ。心配は顔に出しても、怒りは顔に出さないテオドールなので非常にわかりにくいけれど。
「……大丈夫だ。ほら、明日…試験のほかに体力測定と身体検査があると聞いたから、つい頭が真っ白になって…それだけだ」
謝罪の代わりに具合の悪くなった理由を告げれば、納得したのかテオドールは神妙な顔で軽く頷いた。
その後は何ごともなかったかのようにいつもどおりに帰宅して、恙なく時間が過ぎていった。
どうやら学校を抜け出したことは気づかれなかったようだ。そう思いすっかり安心しきって、ニコラは自分でも就寝時間になって部屋に掛けられた制服にふと視線を向けるまで、辺境の森へ行ったことを忘れてしまっていた。
「あ…」
制服の胸元が、ほんのりと光って見える。
気のせいだろうか?
もしかするとそこに仕舞われているヒイラギの葉が発光していることを知っている自分だけが、そう思うのかもしれない。そうでなければ、疾うにテオドールによって指摘されていたはずである。
今の今まで、今日の出来事であったはずなのに記憶から抜け落ちるように辺境の森でのことを忘れていた。
今思い返すとそれほどあの森の存在自体が異質で、不気味なものであった。まるで異世界のような、そんな印象だけが残っている。
微かに震える手で上着の懐を探ってハンカチを取り出す。そしてそれをそっと開くと、包んだときと何ら変わりない状態で、まるで摘みたてのように瑞々しいヒイラギの葉が、やはり仄かな光を放っていた。
ニコラは思わず息を呑み込んだ。
このヒイラギの葉で、終極の魔法使いへの道が開かれる。
根拠のない自信だが恐らく失敗はしないだろう。
こういうときのニコラの勘というのは、何故か昔から外れたことがなかった。これもまた魔術師としての素質というやつなのだと、テオドールに言われたことがあった。彼の場合はいわゆる野生の勘というやつなので、テオドール談という時点で真偽は怪しいものなのだけれど。
暫しの間、発光するヒイラギの葉を見つめてから、ニコラは意を決してそれを枕の下へ差し入れた。
時計に視線を遣ると、眠るにはいつもより少し早い時間だったけれど、この妙に落ち着かない状況では何も手につかないと判断して、早々に眠ってしまうことにする。
きっと今夜、ニコラは目的の場所へ辿り着くだろう。
それが自分にとって吉と出るか凶と出るか、まだわからないけれど。
それでも縋るよりほかになかった。
誰のため? 何のため?
思考を巡らせるものの、ベッドに入り目を閉じて浮かぶのは決まってひとりの人物だけだった。しかしそれを無意識に遠くへ追いやる。
それを言い訳にはしたくない。それを理由にするわけにはいかない。
何しろこれは、ニコラ自身の夢なのだから。
だから――……。