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1-1

 冬の井の頭公園は、葉の落ちた木々の枝と、行き交う人々の小さな会話のさざめきと、その人々が吐く白い息に満ちていた。


 十二月の、曇って寒さの厳しいとある午後だった。僕と彼女は冷え切った井の頭池を左手に眺めながら、公園の中の歩道を歩いていた。彼女は僕の少し斜め前を、ブーツのヒールをコツコツ鳴らしながら、ゆっくり進んでいく。彼女はいつものように口数が少なくて、何もしゃべってはくれなかったが、僕はその横顔を見て一緒に歩いているだけで幸せを感じていた。


 僕たちは池のほとりをずっと歩き、やがて池の真ん中に架かっている木の橋を渡った。橋を渡りきると、その先には動物園の分園と小さな水族館がある。僕たちは水族館に入り、中を見学した。


 水族館を出ると、池の西側に広がっている雑木林を通り、今日のデートの目的である動物園の本園に入った。彼女はフクロウとモルモットの檻の前を無言で通り過ぎ、その先の獣舎で足を止めた。僕が見てみると、そこにはヤマアラシが三頭入っていた。


 ヤマアラシの獣舎は檻ではなく、プリンのカップを底が小さい方を下にしたような円錐台形のコンクリートの獣舎になっていて、その円い壁の中にヤマアラシがいた。壁に囲まれた獣舎の地面には、小さな山があったり草が生えている部分があったり切り株があったり、ヤマアラシが住みやすいよう、また観る人間の目に楽しいよう工夫されているのだった。ヤマアラシたちは七、八畳ほどしかないその獣舎の底を、ぐるぐるぐるぐる意味も無くひたすら歩き回っていた。


 彼女はそのヤマアラシをじっと見つめて、


「なんていうか、徒労だと思いません?」


隣の僕に話しかけてきた。


「とろう?」


僕が言葉の意味が分からずにオウム返しに返すと、


「徒労。だってこの子たち、ずっとこんな狭いところを歩き回ってるんですよ。きっとエサを食べる時と眠る時だけ止まって、それ以外はおんなじ場所をひたすら歩き回って、それで時が経ってそのうちおじいちゃんになって死んじゃうんですよ。嫌だ、私生まれ変わっても絶対ここのヤマアラシにはなりたくない」


「ふうん」


 彼女にはこういうところがあった。普段はまるでしゃべらないが、自分の興味を引く、ツボに入った話題が出来ると、静かな、落ち着いた調子でぺらぺらぺらっと話し出すのである。その話題も普通の女性とは少しかけ離れていて、哲学的というか、人生とか世界のこの先とかを考えさせられるようなものが多かった。


「それから、さっき水族館で見た、オオサンショウウオ」


「ああ、オオサンショウウオ、いたね」


「そのオオサンショウウオの水槽の中にたくさんいた、ちっちゃい魚」


「ちっちゃい魚?そんなの展示されてたっけ」


「たぶん、サンショウウオのエサ用の魚なんですけど」


「ああ」


 彼女はヤマアラシの獣舎の手すりに両腕を置いて、寄りかかるようにしながら、僕の方を向き社交的な笑顔を浮かべて話し続ける。


「あのエサにされてる魚たちの人生って、なんなんだろうと思いません?オオサンショウウオ、夜行性だからさっき見た時はほとんど動かなかったけど、きっと夜になると、魚を食べに水槽の中を泳ぎだすんですよ、ウワーッて。それをあの魚たちは、水槽に閉じ込められているから逃げきる方法も無くって、ただ毎晩毎晩、ああ、昨日は仲間のあいつが食べられた、今日はこいつが食べられた、きっと明日は自分が・・・、って思って暮らしてるんですよ。それで魚の数が少なくなってきたら、飼育員が新しい魚を水槽に足す、その繰り返し。恐ろしいったらありゃしない」


「ふふ、そうか」


僕はそんな彼女独特の考えを、少し面白いと思いながら聞いた。


 それからヤマアラシの獣舎を離れて、象のいなくなった象舎やサル山やリスを放してある人工の小規模な林などを見て回った。動物園を一回りし終えた時には陽が沈みかけて、辺りは薄暗くなっていた。


 動物園を出ると、僕たちは吉祥寺の街中に行き、大通りから一本狭い路地に入り、こぢんまりとした喫茶店に入った。二階に上がり、窓際の席に座った。席は向かい合わせではなく、窓に正対して椅子が二つ横に並んでいた。僕はコーヒーを、彼女は紅茶を頼んだ。僕と彼女は特に話すことも無く、椅子の前に備え付けられた細長いテーブルに頬杖をついて、窓の外の路地を寒そうに行き交う人々を眺めた。


 コーヒーと紅茶は同時に運ばれてきた。コーヒーはカップの口から、紅茶は小ぶりのポットの注ぎ口から、ほかほかと温かい湯気をあげていた。


「わあ、いい匂い」


半径五メートル以内くらいにいる人間は全て、ぱっと明るくさせてしまうような笑顔を咲かせつつ、彼女はポットからカップへ一杯目の紅茶を注いだ。赤茶色の液体が音も無く白いカップに満たされて、湯気と香りが広がった。彼女は紅茶に何もいれず、そのままカップを口元へもっていき、ふうふう吹いた。


――と、その時、喫茶店の壁が、他の客たちが、僕の座っている椅子が、隣に座る彼女の姿が・・・僕の周囲の事物全てが、突然すっと色あせ、僕から遠のき始めた。


(嫌だ、まだここに居たい)そう思う僕の心も虚しく、喫茶店の風景はどんどん色あせていく。それに気づいた彼女がカップを口元から下ろして、僕の方を向き、さみしげな顔で、


「時間ですね。・・・また」


と呟いた。その彼女の顔も、色あせ、遠のいていった。


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