Euphoric ―最後の王―
此処は何をか惹き寄せる地である。
そう、主塔の記憶にある。
城の主塔は、この地にトルコロルという国が興ってからの全ての記録を持つ。
遠い昔、天の原にきらめく星の一つが、海へと隕ちた。
隣の大陸と、こちらの狭間にある海だ。
現在のように、潮の満ち引き頼りな道すら存在しなかった遥かな昔、国どころか人すら到達していない場所だったはずだが、初代の三人の王が調べたのだ。
そして、初代副王の一人であり魔術師でもあったルウリーヴ王は予言を残した。
――良しも悪しきも、多くのものを惹き寄せる場となろう。
その星が、原因の一部であると仄めかしているのだが、それが何故かは語られていない。確かめ除去しようにも、海底の深くに沈んでいることだろう。到底、人が潜れぬ場所だ。
その予言を頭の隅に浮かべて、現在の主王であるノンビエゼ王は、主塔内に設けた謁見の間を出ると前通路を横切った。
城下の街並みを見下ろせる、大きく張り出した開口部の縁へと歩み寄る。
街の向こうに微かに見える海より吹き上げる風が、主王家特有の、真っ白の髪を揺らした。
日々領土と守るべき人々を胸に留める、ノンビエゼ王自身が己に課した密かな儀式だ。それが常だが、この時は違った。
王は、空を見ていた。
だが、よく晴れた冬の空と同じく、どこまでも遠くを見通しそうに澄んだ青い瞳が捉えているのは、別のものだ。
その顔は緊張に強張り、日に焼けた健康的な肌は色を失って見えた。
海向こうの大陸には、かつて風の神を崇める者達が暮らしていた。その者らは、大きな変化が身に及ぶとき、風が届ける声を聞いたという。
その加護が私に備わっていたならばと、王は心中で呟く。
これまで王は何かを当てにしたことなどない。それがおとぎ話の類なら尚更だ。
常に自らが光たれと努めてきた。
しかし今は、小さくも心に影が差している。それだけの懸念があるのだ。
その時、主王城の主を訪ねてきた男は、誰もいない廊下を一人で歩き、通路の窓から王の姿に気付くと足を止めた。
衛兵にも咎められず、気安く城内を訪れ歩き回ることのできる人物は、王の補佐を務める二人の副王だけだ。その主王を支える副王の一人であるマヌアニミテ王は、違和感に眉をひそめた。
いつもの光景のはずだ。
ノンビエゼ王の風に任せて揺れる白い髪と、足元まで丈のある外套は、陽を受けて白く眩む。はためく外套の背には、藍色で染められた国の紋章が踊っている。
海を渡った先にある、商人の国であるアィビッド帝国は、主に色とりどりの織物などを西側諸国へ売り歩き富を築いたと伝えられている。その彼らでさえ、目にしたことがなかったという純白の布だ。トルコロル建国時に漂白の術を得、当時は技術力を見せるためにも採用した正装だった。
その代々受け継がれてきた、白く輝く後ろ姿に陰りが差したようで、マヌアニミテは訝しんだのだ。
そしてバルコニーへと踏み出した。
「なにが気がかりなんだ」
ノンビエゼの背後へと声をかけながら、マヌアニミテは近付いた。騎士団の長でもある彼は、堂々とした体躯のノンビエゼよりもさらに頭一つ飛びぬけた背丈を持ち、見事な肉体を今も軍規定の制服に身を包んでいる。暗く赤みを帯びた髪色は彼の厳つい雰囲気を際立たせるが、やや波打っており、わずかながら印象を柔らかに変えていた。
髪同様に赤茶けた瞳には、不思議なことに、光の加減によって表面に青みが反射する。それはトルコロルの民に見られる特徴だが、王の血筋の者に顕著だ。その瞳が鋭く細められ、ノンビエゼの背を睨む。得体の知れない不安を払いのけるように、マヌアニミテは肩口で揺れる髪を手荒に払いのけた。
周囲に他の臣下はいない。友としての心配を隠すことなく面に浮かべ、隣に並び立つ。
ノンビエゼは手すりの縁に手をかけたまま、振り返らずに答えた。
「遠い、未来の記憶だ」
マヌアニミテは困惑を浮かべた。この世に時を駆ける術などない。
だが、生まれてよりの長い付き合いだ。彼のこういった物言いが、ただの戯言ではないと知っている。
「覚えているか、子供の頃」
「悪戯ばかりして叱られていたことか?」
続いたノンビエゼの言葉を、マヌアニミテは遮った。軽口で内心の不安が消えたならと、淡い期待を込めてだ。無論、逃れられた試しはない。
誤魔化すまいというように、ノンビエゼはやや声音を強めた。
「不吉な予感に、気が付いたときだ」
ノンビエゼは、生まれついての堂々とした王だ。
幼き日より、誰もが彼の即位を疑うことなどなかった。それはノンビエゼ王自身もだ。
「金色の光が、大地を飲み込む」
緊張した面持ちで呟いたノンビエゼ王の言葉に、青褪めて震えながら同じ言葉を呟いた幼い日の顔が重なった。
マヌアニミテは甦った記憶に息をのんだ。その時の事は、よく覚えている。
寝室を抜け出して夜の庭園を探検していたとき、突如、弾かれたようにノンビエゼは立ち止まり、空を見上げたのだ。
今ならば不穏な言葉にも、黄金が手に入るなど運が良いと言ってからかうこともできたのだろうが、間近に見ていたマヌアニミテとルウリーヴは、何事にも動じることなどないと思っていたノンビエゼの様子に動揺した。
そんなノンビエゼを見たのは、後にも先にもない。いずれ、このことが再び彼の口に乗るだろうといった予感はあった。
そうだ。なぜか、それだけの記憶が、はっきりと甦ったのは異様なことだ。
それは己もまた王の一人であるためなのだと、マヌアニミテは事の大きさに眉間を寄せる。
説明など、その一言で十分だとでも言うように、ノンビエゼは現在の役目による言葉へと切り替えた。
「いつでも動けるよう、準備をしてくれるか。民を守り導く役は、君にしかできない」
それは友から臣下へと向けた言葉、命令するつもりである内容だ。
「受け入れかねる」
しかしマヌアニミテは反対した。何を言われるか予想はしていたのだ。
命令ではあるが、玉座の前ではない。できれば期待に応えたかった。だが承服しかねた。常に自信に溢れ泰然と振る舞ってきたノンビエゼが、消極的な策を告げたのだ。大いに疑わしい状況だった。
副王として、騎士として、忠誠を誓った主である。もしノンビエゼが主王として正式に命令を下すならば、否がおうにも頷くしかないが、これが説得する最後の機会だ。
マヌアニミテは負けじと声に力を込める。
「それだけの災いがあるというのならば、我ら三人の――王の印が、揃わねばならない有事ではないか」
ノンビエゼは微かに顔をこわばらせ、縁にかけた指先には力がこもった。それをマヌアニミテは見て、表情を引き締めた。どれだけの災いであるか、その態度から恐ろしさが見てとれたからだ。
よほどの悪しきものが降りかかるのだと、マヌアニミテも腹を括った。
友が口にしたことは正しいと、ノンビエゼは思う。普段マヌアニミテは小難しく考えることなどないが、却ってその真っ直ぐな精神に助けられてきた。そして、その性格ゆえに、国のために留まろうとする頑固な民をも、混乱なく速やかにまとめ上げ、避難を誘導してくれる。それをノンビエゼ王は期待した。
それは隣に立つ、今はこちらを射るように見下ろすマヌアニミテも理解したのが分かる。それでいて、なおも反駁している。
ノンビエゼは苦笑した。
この期に及んで、隙を見せてしまった己の甘さなのだと。
人らしい気持ちは私にもあるはずだと、そう考えども、玉座の前に立てば全ては心の奥底に追いやられる。
この国そのものといえる守りの加護。
王であろうと、ただ、その仕組みの一部となるのだ。
それを後悔はしない。受け継いだものを守ることに、躊躇いはない。例え多くの命を散らすことになれども、私は使命を果たす――そう、固く決意していた。
ただ、少しばかり、悲しみが胸を過ることは避けようもない。
ルウリーヴ王は執務を終えて戻り、主王城へと報告を兼ねて訪れた。
先に出迎えたマヌアニミテを一目見て、何かが起こったことを捉えた。いや、これから起こるのだろうと気を引き締め、ノンビエゼの座す玉座の前へと歩み寄る。
訳の分からぬ不安から来る緊張に、ルウリーヴは己の黒い髪をなでつけた。
謁見の間に居るのは、三人の王だけだ。
側近も置かずに話すことなど、即位してから滅多にない。二人の目は何事かを決断した後だ。
問おうと口を開きかけ、先にマヌアニミテが切り出した。
「戻ったところ悪いが、至急進めてほしいことがある」
「その前に、私はあなたがたの決断と共にすることを忘れないでくれ」
マヌアニミテは眉根を寄せ、忌々し気に口を歪めた。
「貴様という奴は、いつもいつも……まだ何も言っていまい!」
「まずは分かり易い、その単純な顔を改めたまえ」
いつもならばルウリーヴとマヌアニミテの下らぬやり取りを、ノンビエゼは微笑んで眺めるだけだ。だが、彼の顔に笑みは浮かばなかった。
それを見てルウリーヴは率直に問うていた。
▽
これまでノンビエゼ王は、何が起ころうとも死を予感したことなどなかった。我らには連綿と続く王の加護がある。この地と、我らの血を守る、防衛の加護だ。
初代の王が発現させたという漠然とした加護は、代々の王によって洗練され、現在の形となったのはほんの数世代前だという。
王の魔術式。
如何様な災いであろうと退けると伝えられているものだ。現在も国境の警備に関する式を自身で利用し、身をもって知ってはいる。しかし、文献に残されているような大規模な効果など体験したことはない。ここ数十年は周囲に争いもなく、天変地異もなかった。
平和だったのだ。
危機が起きて初めて応える加護ならば、無論平時に働くことはないだろう。
だとしても、その加護の力を疑ったことはない。
疑ったことなど、ないはずだった。
ただ、その全てが、己に正しく宿っているのか確かめたこともなかった。
子供の頃に見た凶兆。その不安が、真実を知りたくないと遠ざけさせたのだろうか。いや、即位時にのみ伝えられる秘匿された事柄は多い。いたずらに利用してはならない、人の身に余る大きな力だ。
しかし今は、来たる日に正しく力を行使しうるのかと、いささか不安であった。
光のように翳ることなく、代々の王に恥じぬように生きてきた自信はある。常に自信を持って座していなければならぬ立場だ。民にわずかな不安をも与えないために、様々な形で国力を内外に見せてきた。
しかし、自然がもたらす国の危機ほどの何事か――それらから、一体どれだけの民を守ることが叶うというのか。
そのことが、築いてきた自信に小さな穴を穿ち、影が差していた。
その影こそが滅びを呼び込みかねんと叱咤しようとも、ついぞ退けることは出来なかった。
ノンビエゼは、ミッヒ・ノッヘンキィエ元老院へと連絡を取ることにした。
危機の際に、横やりではなく手を貸す可能性のある組織は他にない。
元老院は精霊力と魔術式の研究機関で、各国とは中立の立場を表明している。無論、言葉通りの中立ではないが、トルコロルにとってそうであるように助成はしてきた。
海を渡れば、大国であるアィビッド帝国の領土だ。力関係を偏らせたくない思惑が、二者にはあったのだ。やや踏み込んだ協力関係を築くことになった。
トルコロルは、王族の中から精霊力の資質が高い者を預けて技術を得、元老院は盟約の証である人質を得た。
所詮は、そのような関係でしかないのだが。
しかし、ノッヘンキィエの名を継いだ現在の長老を思い返す。会ったのは、その男が訪れた一度だけだ。
清廉潔白な男だなどと考えてはいない。だからこそ、元老院の権威を守るべく手を尽くしてきただろうことは確かだ。
ノッヘンキィエの態度には、国を守ろうという固い意志が表れていた。
ノンビエゼ王は、それに期待する他ない。
転話道具にて、近く訪れるであろう凶兆について伝える。
「信ずるは求めぬ。時が来れば知れよう」
ノッヘンキィエは聞き終えると、心得たと頷いただけだ。非常時に民をノッヘンキィエ領へ受け入れ願いたい旨も、ノッヘンキィエは、今後は即座に転話を取り次ぐよう手筈を整えておくと告げて話は終わった。
王は見返りとして、主塔の古い記憶から魔術式や精霊力の知識を授ける用意をしていた。だがそれを伝える前に、ノッヘンキィエは、ただ了承した。
理由を問うつもりはなかったが、ノッヘンキィエは重い口ぶりで言った。
『精霊力の状態に、これまでとは違う兆候が観測されるのです。もしや、それが関係するのかと思いましてな……大きな災難でないことを、祈るとしましょう』
着々と危機に相対する準備を進めていたノンビエゼら三王だが、いつ、なにが、どのように起こるかは分からないのだから難しいことは多い。
そして時は、待ってはくれなかった。
日が傾き始めた頃だろうか、臣下より報告を受けていたときだ。ふいに足元の地面が消えたような不快感に襲われ、ノンビエゼは玉座の肘置きを掴んだ。
「……空が、揺れる」
「いかが、なされましたか?」
手を伸ばしかけた側近を遮り、緊急警報を発令した。
命を受けて駆け出した臣下の背を見送ると、側近へは副王の二人を呼び出し、転話道具を元老院へ繋ぐよう指示する。
ノンビエゼ王は、正面で開かれたままの扉の向こうに見える、空を睨んだ。
瞬く間に雲が覆い隠した空に、異様な揺らぎがある。
予言の通り、予兆の通りに、海の道の上だ。
王の体を冷ややかな空気が掠めると、部屋の床に光が集まっていく。
謁見の間には、巨大な魔術式を刻んである。玉座を通して、王の莫大な精霊力が通り抜けていった。
「私が王である必然が、これだ」
謁見の間は、まるで真っ白の光に満ちたような空間へと姿を変えていた。
王の魔術式を起動するとき、その場には、まるで現世とは異なるような空間が現れる。確かに現世に居ながら、別の空間が重なるようだった。
そこは、王の精霊力で編まれた仮想の空間。精霊力が物質を通過する際には、微かに抵抗があるのだが、この場所ではそれがない。
無駄なく王の力を伝える空間で、彼の力はいかんなく発揮されるだろう。
間もなく、それぞれの城、その三つの塔の中、三人の王の空間が揃った。
玉座に座すノンビエゼの右手にマヌアニミテが現れ、状況を確認する。
「始まったのか」
そして、ルウリーヴが左手に立つ。
「待たせたね」
各々の城で、それぞれの王の間に立つ離れている三人だが、王の空間の中では、まるで同じ一部屋に存在するかのよう並んでいた。
三人は、災厄を見た。
それは余りに、強大だった。
王は怯んだ。
彼の生きた人生など塵芥と呼べるほど、悠久の時が敵だと悟った。
重く、押し潰すような空気を押しのけるように、ノンビエゼは声を絞り出す。
「我々が、逃げることは、許されない」
その声に、マヌアニミテの瞳にも力が戻る。
「あれが相手では、逃げようもなかろう」
三人の王は共に、海の方角を見据えていた。人の手にはどうしようもない自然の驚異に、畏れを抱くと同じく魅入られるようだった。
ルウリーヴは、先祖の魂へと祈りを捧げる。眼前の脅威に平伏すのではなく、己の信じた神のために抗うためだ。
「さあ、行こうではないか。死地へ」
楽観的なルウリーヴでさえ、生きて戻ろうとは言わなかった。
圧倒的な存在を前にしては、無理だった。この世と同等の存在力が、海の道という小さな場所へと顕現している。
その凝縮された存在を肌で感じては、到底無理だった。
答える代わりにノンビエゼ王は、優雅に腰かけたまま視線を動かしもせず、魔術式へと精霊力を送る。床の式が淡く輝き、信号は二城の床へも届いた。
三つの王の間に据えられた魔術式が連結し、全ての始まりを告げた。
領境である海沿いから城下までの全てを、精霊力による見えない壁で厚く覆う。
それらの層には数多の魔術式を刻んだ、難攻不落の防壁だ。いかなる魔術式や、精霊力によるものは、針ほども通すことはできない。
王の防衛行動を読んだかの如く、雲が渦巻き、空が割れていく。
濁流が降り注いだ。
蜃気楼のように空間が揺らぐ。
それは、目に見えぬはずの精霊力の振動だ。
あまりにも凝縮されたそれは、可視化するほどの力を蓄えている。
空を覆う精霊力の衝撃波は、港町を砕いた。
「まさか、そんなことは……ありえん!」
間違いなく、あれは精霊力だ。
そして精霊力ならば、通しはしないはずの防壁が、容易く散っていく。
あの精霊力が、この世のものであるならば。
穿たれた穴から、甲高く乾いた音が空間に満ちた。
硝子を砕いたように高く、破片で引っかいたように耳障りな音が。
「この世のものでは、ないのか……?」
二人の動揺の声を耳に、ノンビエゼは即座に穴を塞ぐ精霊力と式を重ねていく。
それらでは足りない術を、主塔より引き出し、式を作成し続ける。
しかし感覚は、違うものだと捉えていた。これまで触れたことのない、まったく質の違う精霊力だ。
幾ら、身命を賭して抗う覚悟といえども、なんの策もなくぶつかるだけでは意味がない。命を超えた先に、道がなければならないのだ。
成す術など、ない――ノンビエゼ王は、ただ主塔から記憶を引き出し続けるだけでは、間もなく万策尽きると感じていた。焦りが、王の額に汗を結ぶ。
それは、心の内の叫びとなり、神に届いたのだろうか。
指示もなく、眼前に魔術式が浮かび上がって、揺らめいた。
思い出せというように、白く淡い光の線が王の前でたなびく。
それは、光の文字を紡いだ。
《――始まりの王より、危難の王へ託す。我が呪いは、果ての過去も、果ての未来までも、時の流れに因らず必ず守られるものなり――》
目を瞠った。
魔術式が語ったのは、まさに今、欲していた言葉なのだ。
迷うな、それだけの力がある。
そう、語っているのだ。
そして主塔の奥底から、別の魔術式が呼び出される。
王は、それを掴んだ。
「起動」
うなじに刻まれた王の魔術式へと、情報を送り命令する。式は発動し、代々が受け継いだ記憶と式の網が連動する。全ての力に通じたとき、王にも見えた。
あの、海より来るものに匹敵する力を――。
「守護の強化を」
白い光で描かれた幾百の魔術式が、王の間を流れる。王の指示に従い、過去に積み上げた危機への対処情報を呼び出し、構築する。今目の前にある危険へは、すでに精霊力の網を投げている。
そこから得られた情報は、未知のものだ。過去の記録に対処法は見つからない。
敵は人を超越した意志だ。所詮は人の子に過ぎない王が扱いきれる力ではない。
迷う時も残されていない。いや、赦しを請う祈りを捧げる時が。
あれを排除する記憶がないなら、見当たらない情報は目の前から得ればよい。
先ほど得た緊急時の式は、それを成せる。
人の体に刻んだ式が連結することで、本来どれほどの力を出しうるのかを王に知らせたのだ。
城にある、全ての王にまつわる魔術式を解放した。
王の血に連なり、体に印を刻まれた全ての者を媒介する必要があった。
王の式は巨大化し、より大きな力を制御する。
それでも、足りない。
城住まいの者だけでなく、王の血筋にあるものの、街で暮らす者をも巻き込む。
領土防衛に回していた力、何もかもを剥ぎ取り集約していく。
空を、大地を、震わす精霊力の暴風。
港町フルウォアの一部が、土砂となり巻き上げられていく。
その勢いのままに、眼下に広がる城下町オルテフエルを削りとっていく。
「領土すべての防衛式の力を、城へ結集する」
もはや、後はない。国土全体に巡らせていた精霊力を、すべて手元へと集める。
城下町の空全体を覆うように、幾千、幾万もの魔術式が連なり重なる。落下物の衝撃を吸収する式や、暴風を逸らす式を幾つも重ねながら、元凶であるものの質を分析し続ける。
しかし、あまりに異質で、片鱗さえ掴むこともままならない。
拮抗していた力は、未だあれが顕現の途中であるためだった。じりじりと、押し負けていき、大通りの美しい石畳の道は、蜘蛛の巣の如く亀裂が走り、砕けては跡形もなく消えていく。
王は、降ってきた力の凄まじさを知った。
全容の見えない圧倒的な存在に、より強大な力を手にと望む。
その指示を受けて、精霊力の集積を担っていたマヌアニミテが、体を折った。赤い雫が床へと散る。どうにか倒れることなく踏みとどまったマヌアニミテは、一言呟いた。
「無念」
言葉と共に体は、火の粉となって崩れ落ちた。
そして左隣からも。
「先に、行くよ」
友の存在が、かき消えた。
王の間に、命の粒子が舞う。存在そのものを精霊力に変えた、強力なものだ。その温かな金色の光を、鍵となる魔術式へと注いだ。
未だ、人の温もりを残したような精霊力。
ノンビエゼ王は胸を衝く痛みを押しやり、玉座から立ち上がる。
右手を、前方へと伸ばした。
「印の力を、我が手に」
最後の線を超える、命令を下していた。
印の力とは、命の力だ。
王の印を持つ者達へ、命をも差し出せと命じたのだ。城住みの者達の全霊の力をもって、衝撃を押しとどめるために。
それだけのことをしても、得られるのは僅かな猶予だと知っていながら。
精霊力を流した魔術式は、効果を発動するときには冷ややかな手触りを伝える。
その冷気を感じていながらも、手のひらには、人の温かさが触れる。
彼らの刻印に、手のひらの魔術式を同期する。
その肉体に宿る力をすべて差し出すように、命令を下し続ける。
命令としながらも、心は願いと赦しを請うていながら。
受け取る度に重なる温もりは熱となり、手のひらを焼く。
それは錯覚だ。
誰かの体に手を伸ばし、そのまま直に心臓を握りつぶすような行為。
取り返しのつかない粉々に砕けていく感触が、頭の奥に追いやった感情を乱し、焼け付くように傷つける。
息子、娘、共に歩んでくれた妃の穏やかな笑みが、手の内で弾けた。
一瞬のことだ。
彼らの印は次々と、命と共に砕けていく。
王にとっては、長い、気の遠くなるように長い、一瞬だった。
家族も、友も、臣下も、全ての命を手にかけて、得たものを掴む。
そこまでしても、この一戦での収束は望めないのだと、王の力は告げているというのに。
王の間の力さえ消え、別の空間から元の部屋へと姿が戻る。
塔の屋根が軋む音が鳴る。
傾いだ天井に描かれた空が、ひび割れるのを見上げた。
本物の空が覗いた次には、金の光の杭が、王の体を貫いていた。
光は容易く、胸元を、腕を、腿を刺し貫き、視界に赤い雫が舞う。
これまでか――見上げた光は、まるで春の陽気を湛えているようでいて、体の芯が凍えるほど鋭利で冷たい。
災厄の主がなんであるか、王が知ることはないだろう。
「我が、ノンビエゼ王家は、絶える……だが、その血と、民は残る」
極々微かな希望だった。
多くの命によって得た一時。
絶望にも似た狂おしい輝きに、悲壮な笑みが浮かぶ。
王の手には、一つの魔術式が光り輝いていた。
一つに見えるが、途方もない数の式を重ね、凝縮したものだ。
命の式は多くが砕けながらも、破壊の主の弱点を探り続けた。瞬きの間にありながら、果てしのない攻防が繰り広げられた結果だ。
災厄の正体、その欠片を得ることはできたのだ。
王自身に、それを調べて退ける時間はないが、まだ託せる者の存在はある。
国外に居る王の血筋の者たちだ。
残された希望を手渡す。
己が救うことはできずに、伝えるだけ。
ノンビエゼ王の人生は、たったそれだけのものだった。
視界の赤は増えていき、体の限界が来ようとしていた。
幾千、幾万の魔術式を重ねた右手を、宙に伸ばした。
◇◇◇
始まりの王の言葉は守られた。
数百年の後、トルコロル共王国は未曾有の危機に遭う。
空を割って落ちてきた衝撃。巨大な何かの意志が、人々を、街を、大地を砕き飲み込んでいった。
このままでは滅ぶと直感した末代のノンビエゼ王の頭に、初代が残した言葉が過った。
伝承はこれを指していたのだと、唯一知ることのできた王だ。
城に連なる者の体に刻まれた魔術式。
それらは、大規模な術を組み上げ発動させることができるものだ。
式は発動したすべての者の命を喰らいながら精霊力を集め、災厄と力を拮抗させる。
だが、それだけではいずれ押し負けると、王の力は見極めていた。
あの力の元を断たねばならぬ――そうして王は、自らの式をも起動するため、制限を解除する。
ひとたび起動すれば、主王の式は空の災厄を体の内に取り込み、本質から分解する力を得る。
だが主王の力は、主王の体があってこそ。
主王の式へ災厄は抗い、式が解析を失敗する度に命は失われていく。
王が死すれば、即座に王の力は継承順位順に体へと移り、解析を続け災厄の無効化を試みるだろう。
主王の血を受け継いだ最後の者に、行き着く前に間に合うか、賭けであった。
いや、賭けなどであってはならないのだ。
王が体を血に染め苦悶を浮かべていたとき、涼やかな音が耳を掠めていた。
土鈴が、からからと鳴るような音。
それは、言付けだ。
――この地とあなたに宿ったのは、絶対防御の力。この時のために、情報は蓄えてあります。ご指示ください。
王は迷いに気付かされた。
得た式を絶望の中で見下ろしたのは、はたしてこれから行う術が真に希望となりうるのかと、信じ切れていなかったのだ。
迷いを断った王は、煌々と輝く手のひらを掲げる。
破壊の主を見据えながら、手のひらの鍵を元に、城の時を止める魔術式を組み上げる。
そして、最後の式を発動した。
「王の印よ、我が国を、民を、子孫を守れ――」
眼前が金の光に呑まれる。
発動した力は、手のひらを焼きながら体を喰らっていく。
王の生命を消費し、式は放たれた。
――認証しました。解を適用中です。数代の媒介が必要ですが成功します。初代ノンビエゼ王が、そう定めた以上、必ず成し遂げられるのです。
精霊力の一部となり、光となりゆくとき、その言葉を聞いていた。
まるで赤子をあやすように柔らかな、音のゆりかごの中へと沈んでいく。
始まりの王は全てを見極めていたのだ。
子供の頃の予兆が、なぜ王だった父ではなく、即位前の私に見せられたのだろうと疑問だった。それは、私が最後の代だったためだと、今なら理解できる。始まりの王が、運命を受け入れる猶予を与えてくれたのだと、ノンビエゼ王には思えた。
民だけでなく、この愚王までも、あなたは救おうというのか――これまで信じ敬ってきた者は、想像をはるかに超えた存在だった。
そうか、希望は、繋いだのだ――王の心の内に差し込んでいた影は、ようやく光を点していた。
始まりの王とトルコロルへの賛美を、ノンビエゼ王は呟いた。
呟きは紡がれる端から、音とも光ともつかぬ粒となる。
王の肉体は光の塵となり、大地へ吸い込まれるように掻き消えていった。




