帝都の片隅にある宿
アィビッド帝国帝都フロリナセンブル内の、貧民が住まう区域にも宿はある。
その一つが、月の砂漠亭だ。
小さな黒ずんだ木造家屋が隙間なく入り組んで建つため、日の射さない路地を歩かねばならず、その印象通りに泊り客などあまりない。
その静かな軒を、くぐる男の姿があった。
「やあ砂漠亭の旦那。久方ぶりだね」
魔術式道具を作製する工房の使いとしてきた職人は、宿の主人に声を掛けた。
しかし、前の面会から大して期間が空いていたわけではない。この男はいつもそう呼びかけてくる。
だから砂漠亭の主人も、困惑しつつ同じように答える。
「ああ、久しぶりだ」
主に符を作る工房だが、原料を精製する釜の設置を許可された、数少ない施設の一つでもある。
原料は魔術式道具を動作させるのにも必要だ。
魔術式灯の需要が高い帝都では、そちらの方が主な仕事かもしれなかった。
常に様々な人々と会っていれば、気忙しいのだろう。
いつ同じ人間に会ったかなど覚えてなさそうである。
それで、久しぶりだと挨拶をするようになったのだろうか。
なるほど、理に叶っていると言えば、そうかもしれない。
お客さんの気分がどうのと、そんな気遣いが必要な商人ではないのだ。
「案内を頼みたい。明日からの旅だが今晩には集合だ」
職人はいつものごとく突然ながら、依頼書と前金を置いて予定を告げると、さっさと帰っていった。
砂漠亭の主人が出かける準備をしていると、妻が声をかけてくる。
「あちらさんも、いつも無理を言うわね」
「そのお陰で、こうして暮らしていけるんだ」
妻は愚痴を言いたいのではなく、夫の身を案じているに過ぎなかった。
それを彼も承知しているので、滅多なことを言うなと咎めることはしない。
妻の方も、お得意様や夫の機嫌を損ねたいわけでもないので、その一言で気持ちを宥めているだけだ。
「留守を隣に言付けておく。何かあれば遠慮なく頼れ。あいつには飲み代の貸しがある」
「ええ、そうします」
飲み代の貸しとだけ彼は言ったが、もっと荒事だ。
信頼を得たのは、酒場で隣人が飲んでいたときに、柄の悪い者に絡まれたところに居合わせた。
隣同士で知らない仲でもないから手助けしたのだが、それから勝手に気にかけてくれるようになった。
貧民街の住人同士ではあるが、月の砂漠亭の主人は、あまり受け入れられているとは言いがたかった。
理由は単純なことで、宿に『砂漠』と名付けたからだ。
この国、アィビッド帝国は随分と長い間、砂漠の国々と対立してきた。
その対立が国の歴史を形作っているというのも過言ではないだろう。
敵対する国に関連する言葉をつけたのだから、ただの単語とは言えない。
どこの出身かを明確にしたようなものだ。
長い歴史の中で、初の停戦条約を結んだのは、ほんの十年ほど前のことだ。
北で大異変が起きたことで、周囲の安全を確かにしたかったのだろう。
それまでは休戦しつつも、なるべく国同志は関わらないようにしてきただけで、不確かな関係でいた。
そもそも砂漠の国々は、国と言いつつ昔ながらの民族で固まった暮らしを貫いている。
隊商で暮らしてきた国だ。様々な国の価値観を知ってさえ何故あてのない暮らしを維持するのかと思うが、一々他の国に感化されていては、民は分散してしまっていただろう。
もちろん数百年のうちに、周囲からの圧力で変わらざるを得なかったこともある。
定住地を持たず、砂漠から草原の広大な範囲を、移動しながら暮らしていた民だ。
それは、遥かな昔に偉大なる者から恵みを賜った土地だといった伝承による。
人は住まわせてもらっているだけだ。そう伝えられながら生きてきた。
自然は自然のものであり、人の持ち物ではない。
しかし、砂漠の民が移動の範囲としながらも我等のものではないと言えば、周囲の国は、所持しないならと住み着こうとしてきたのだ。
その度に戦ってきた。
しかし周囲の国々は、家や畑を作りそこに管理する民を置く。
その周りは、守るように壁や砦を築く。
自然が、あるがままではいられないのだ。
長い戦いと商いの狭間で、難しい状況に追い込まれた砂漠の国々は、妥協策として拠点を築くことにした。
小さな城塞都市だ。
それらを荒野の中、隣国の国境を見張るように点在させることで、ようやく他国からの侵入を押し留めるに至った。
土地に縛られるもの達は、その価値観で解決せねば、彼らには理解できないのだ。
砂漠の国々の者達は、商いに出かけた際に、彼ら自身の価値観を押し付けることは一切なかったというのに。
それが、彼らの中に他者への強い不審を生み、周囲へは気難しい国と映っている。
月の砂漠亭の主人は、砂漠の民でありながら、数少ない一箇所に留まって暮らしたいと考えた者だ。
はじめは城塞都市での生活を考えはしたが、ほとんどの活動が警戒業務で、商いだけで暮らすことはできない。
そのため決死の覚悟で砂漠を越えた。砂漠の移動には慣れているが、他国へ入ろうとすれば襲撃を受けるのではといった心配だった。
苦労して辿りついたのが帝都だった。
心配は杞憂に終わる。
当時の帝国に入ることに大した制限はなかった。
そもそも帝国側の商人も、情勢がどうだろうと行商に出ている。休戦して長かったこともあるのだろう。
妻と二人だったこともあるし、行商も真実ではあったことのおかげだろうか。
実際に駱駝に引かせた小さな幌付きの荷台には、国で作られた織物などの商品を乗せていた。
割合にあっさりと滞在を許されたのだ。
幸運が重なり、帝都へ着いたのは天の采配だといって滞在を決めた。
後に彼が知ったことだが、アィビッド帝国は商人が支える国である。
商人の権利は、非常に優遇されていたのだ。
一方的に売りつけに行くなど煙たがられるだけといって、取引にも積極的だった。商品や情報の鮮度にも敏感だったためもある。
物品や人の移動に寛容だったのだ。
それを補うようにか、軍への力の注ぎようも並々ならない。
かつて傭兵の国が中心となって帝国を束ねたというのも、商人らが奔放すぎたためだろうかなどと、砂漠亭の主人は考えた。
ともかく、しばらく真面目に商いをしている内に滞在資格を得ることが叶い、暗く道の入り組んだ不利な立地ではあるが、小さいながらも宿を構えるに至った。
場所が場所だけに、さして泊り客はない。
商いをしている内に知り合った工房が、他の町から来た工房宛の客を、たまに紹介してくれる。
そういったこともあるから、何かにつけて工場街へと顔を出す。
工房は、当然ながら魔術式符だけでなく、鍛冶関係など様々にある。
都なだけあって、地方の町からの訪問客が多い。
普通の泊り客達は、表通りや、そこから程近い場所の宿を選ぶ。
しかし地方からの職人は、商人ほどの予算を持たず、場所が悪かろうとも砂漠亭で満足してくれる者が多かった。
だから砂漠亭の主人は、職人関係の客をあてにして営業がてら出かけていく日々を送っていたのである。
とはいえ、それだけでは、宿の維持だけで精一杯だ。
他にも仕事の口はないかと訊ね歩いているうちに、臨時の依頼を受けるようになっていた。
今回は工房からだが、工場街の知り合いから舞い込む依頼とは、砂漠を渡る行商人への案内役兼護衛だった。
砂漠に慣れた旅人の護衛も存在するが、行商人の規模に対して多くはない。
そこで、たまに思い出したように依頼があるのだ。
依頼形式は旅人の護衛依頼と変わりないが、旅人組合を通さない。
それは砂漠亭の主人が商人組合に属しているからである。
商人組合と旅人組合は、民間で国々を渡ることを許されている二大組織だ。
歳による体力の低下はあれど、砂漠亭の主人も腕は鈍っていないつもりだ。
使い慣れた半月刀を確かめると、砂色の布で全身を覆い、宿を後にした。
砂漠亭の主人は待ち合わせ場所へと向かいながら、浮き足立つ心について思いを馳せる。
どこかで店を構えて落ち着きたいと思い、砂漠を出た。
だからといって、子供の頃の生活によって育まれた感性が完全に消えることはない。
それともこれは、脈々と受け継がれた血に思い起こされるものだろうか。
砂漠に暮らす氏族の中に、これは一族の願いだと唱える者達がいた。
一つ所に留まってはいられない、止むに止まれぬ事情なのだと。
ときに、自身の中に湧き上がる思いは、それなのだろうかと考える。
腰を据えて宿を構えて暮らすことも、心底に望んだことではあるし、満足もしているのは誓って言えることだ。
それにも関わらず、こうして案内役を受けることにより、旅立ちたい衝動を宥めるのだ。
元の砂漠の民に戻ることは、微塵も考えたことはない。
戻れば後悔することだけは理解している。
だからこれは、妥協策なのだろう。
時おりでいいから、こうして砂漠の空気を吸う。
それでまた、宿での静かな生活を続けられるのだ。
やはり、恵まれた環境だと改めて思う。
とうてい豊かな生活でなくとも、こういった機会が得られるのだから、来た当事に幸先が良いと考えたのは正しかったのだろう。
妻はなにも言わないが、恐らく自分と同じ想いがあるはずだ。
戻ったら、食事にでも連れ出さなければなと、心に書きとめる。
今までも戻るとそうしてきた。
そして明らかに妻の機嫌が良くなるのを思い出すと、主人の顔に自然と笑みが浮かんだ。
考え事をしながら歩いていると、待ち合わせ場所へと到着していた。
気持ちを切り替えると、旅の主導をする顔なじみの行商人と挨拶を交わし、大きな幌馬車に乗り込んだ。
いつもと様子が違うのは、同行者に帝国軍の黒い制服を着た男がいたためだ。
旅人の護衛の数も多い。
道中に話を聞いた限りで知ったことは、大量の魔術式符を運んでいるとのことだ。
どうやらまた、精霊溜りなどという厄介なものが砂漠側へ出だしたらしかった。
不安なことではある。
過去には、異変によって町が丸ごと消えたことよりも、それを知った民の暴動の方が問題だった。
頭の痛い話だが、それは帝国民だけの問題ではない。
未知の不安の下にあった民の暴動を引き起こしたのは、これを良い機会と捉え、国境を越えてなだれ込んできた者達のせいだった。
砂漠の国々は、手を取り合ってはいるが、帝国側ほどまとまってはいない。
中には好戦的な国もある。
北方に拠点を持つそれらの民族は、乗り込むと国境沿いの町を落とした。
その町からの避難者が東へ流れ、異変で北から逃げてきた者達とぶつかった。
そんな話を、人の口に上る様々な噂や愚痴から知った。
疑心暗鬼に陥った北方が、その後しばらく混乱していたとの話に、軍の動きなどを考えれば真実なのだろう。
あの頃は帝都の空気もぴりぴりとしていたと思い出す。
その以前から信頼を得ていたお陰か、主人が砂漠の民だと知っていた都の住人から非難を受けたことはなかった。
あからさまな非難を受けなかったのは、周辺の住人からだけだったが、そのことには感謝してもしきれない。
旅立った砂漠亭の主人を含む一行が、砂漠を通る街道の側で野営中のことだ。
端に座る主人へ、軍の男が話しかけてきた。
主人が砂漠出身ということに含むところがあると、その雰囲気は告げている。
「宿を営んでいるそうだが、なぜわざわざ砂漠亭などと名付けた」
「月の砂漠亭だよ。軍人さん」
周囲の会話が止む。
馴染みの商人は、いざとなれば口を挟もうと考えている態度だ。
それを首を振って必要ないと伝え、遠くへと視線を移した。
冷たくも見える月の光が、砂の波を照らし出す。
その光景を目に留め、主人は呟いた。
「どこかに定住したくてね。必死で砂漠を越えたとき、これを見た。忘れ難い光景だろう。そう思わないか」
何の目印もない砂漠の中、自分だけが取り残されたような錯覚を覚えることもある。
月と風は、まるで導くようにそこにある。
主人の言わんとしていることに頷くように、皆は黙って幻想的でありながら、どこか胸の痛くなる景色を眺めていた。