後編
「朝よ、もう起きて」
「んーあと少し……」
そう言って、再び眠りに入ろうとする***を私は揺り動かす。しかたがないわねぇ、と布団ごと引っ張り落として、無理矢理叩き起こす。そうでもしないと***は中々起きてくれないからだ。
「痛い寒いっ!?」
「ようやく起きたわね?ねぼすけさん?」
床に転がってブルブルと震えている***を見て、おかしくなって笑みが零れる。ポリポリと頭を掻きながら、情けない表情を浮かべて上半身を起こして胡坐をかく。その際、あくびも忘れずに。
「もうちょっと優しく起こしてくれ」
「あら、そんな事言って。優しい内に起きないのは貴方の方よ?」
そう言ってウインクすると、参りました、と両手をあげる***。もうここまでが朝の風景とまで言われる程だ。
***はこの国の騎士で、かなり腕利きな上に厳しいと噂だが、私の前では形無しだといわれている。私にはもうこの***しか知らないので、真偽のほどはわからないのだが。私には可愛らしい旦那なので、あまりピンとこないけれど。でも、確かに頼りになる時もある。
ナンパに絡まれた時も、余裕の態度で追っ払ってくれた。あれは確かに恰好良かった。
でもそれ以外は意外と情けない所ばかりで、でもそんな彼の事が憎めない。幸せに暮らしていたのだが、最近妙な気配を感じるようになった。
じっと誰かに見られているような、そんな不気味な感覚。気配に聡い訳ではないので、本当に見られているかなんて分からない。私の気のせいかもしれない、そう思って***には言っていなかった。仕事で疲れて帰ってくるのに、余計な心配は掛けさせたくない。
そう思っていた。
「あれ?ない」
置いてあったはずの櫛がなくなっていた。いつも同じ場所に置いているから、失くすはずがないのに。
「気のせいかしら」
たまにモノを失くすこともあるので、ほうっておけばいつかひょっこり出て来るだろう。探しモノというのは大抵そんなものだ。
「こんにちは」
「あら。ラケト……」
艶やかな黒い髪の美しいその男はラケトという。
買い物に出かけると、良くみかけるし、優しくて気遣いの出来る男であると評判だ。いつもさり気なく手伝ってくれる***とは大違いで、大変モテている。
「今日もお綺麗ですね」
「もう、やだわラケトったら……うまいんだから。褒めても何もでないわよ」
「何もでなくても構いません。貴方が傍にいてさえくれればね」
「もう、相変わらずね。うちの旦那に見習わせたいところだわ」
「……旦那」
「もういっそラケトみたいな男前が旦那だったら良かったのにね」
冗談半分で、クスクス笑いながらそんな事を言った。その時の彼の暗い瞳にも気づかずに。
「あれ、……ないわ」
気付くと、またモノがなくなっていた。
1つ、2つならまだ「どこかにおいちゃったのかしら」で済ませていたかもしれない。けれど、今回は棚にあったモノがごっそりと抜け落ちてしまっている。
これは流石におかしいと、とうとう***に相談した。
「なんでもっと早く相談しなかったんだ」
「だ、だって、気のせいだったらって思って」
怒鳴られて、目に涙が溜まる。
***はそんな私を見て、「すまない」と謝った。
「心配なんだ。もう隠しごとはしないでくれ」
そう言ってそっと私を抱きしめる。
それはとても優しくて暖かい抱擁で、今まで我慢していたものがとかされていくのが分かった。***の広い胸にすがりついてたくさん泣いてしまう。私を安心させるように、ポンポンと背中を叩いてくれているのが、さらに涙腺を緩ませる。
ひとしきり泣いた後、照れくさくて何となく顔を背けようとするのだが、***はそれを許してくれない。
優しく、それでいて逸らす事を許さないような強さを含んだ瞳に私はまた惚れ直した。
「アリッサ、君の事は、俺が守る……」
「……?」
ズキリと頭が痛む。違う、私は、私は……リサよ。
ねぇ、***。
あれ?***?
名前が分からない。
『ベルドだよ!忘れたってのか?お前の夫だぞ』。
あれ?これは、いつのセリフなの?
私がぼんやりとしていると、心配になったベルドが私の頬に優しく触れる。温かくて節くれだった男の手に痺れる程の幸福感が訪れる。
ずっとそうしていたかったのに、ベルドから穏やかな雰囲気が消えた。
「誰だ、お前は。何の用だ」
「……」
黒いローブを羽織っていて顔はよくみえない。どこからどう見ても怪しい人間が、私達の家に侵入してきていた。
「まさか……お前、ラケト?お前か、最近家を荒らしているのは!どういうつもりだ!」
「……アリッサ」
ラケトはベルドが見えないかのように私だけしか見ていなかった。そのローブの奥の闇にゾクリと震える。
恐ろしくて腰が抜けてしまい、その場に座り込んでしまった。
「……!貴様、気安く俺の妻の名を呼ぶな」
ベルドは剣を取り出し、威嚇する。怒ってはいるが、本気で斬りかかるような事はしないだろう。なにせラケトは彼の同僚で、死線を潜り抜けた仲間だと自慢していたのだから。けれど、どうにもラケトの様子がおかしかった。
1歩、ギシリと音を立ててこちらに近づく。
「ラケト、そこで止まれ!さもなくば……」
「ベルド!まさか、やめて」
「……こいつが何もしなければしないさ、ただ……」
小さな声でそんな事を言っているが、不安が拭えない。ずっと私だけを見つめてくる瞳が暗くて、恐ろしいのだ。ベルドの後ろに隠れて、震える事しか出来ない。
「止まれ!」
それでもラケトは止まらず、右手を出して口を動かす。これは魔法を使っている状態で、何をしようとしているのかと思うと、ぞっとした。ベルドはすぐに飛び出して、ラケトを斬りつける。
鮮血が飛び散り、悲鳴をあげる。
悲鳴をあげたのはラケトが斬られたせいではない。ベルドがその場に崩れ落ちたからである。
びちゃびちゃと壁や床に血がふりそそぎ、命の危険がある事はすぐにわかった。
けれど、怖くてベルドに近寄る事も出来ない。
べちゃりと血で濡れた足でこちらに向かってくるラケトに身が竦む。
「あ、あ、やめて、ころさないで、お願い……」
「何言ってるの?アリッサ、どうしてそんな目で見るの?」
何も映していない黒い瞳がこちらを見ている。私をみているはずなのに、どこか遠くを見ているようなその瞳が恐ろしかった。
「どうして?どうして?どうして?ねぇ、どうしたの?何をそんなにおびえているの、ねぇ」
彼の細い指が私の首に巻きついてきて、きつく締められていく。
「ねぇ……」
「あ……ぁ……っ!」
ゆっくりと視界が狭くなる中、彼が暗い笑みを浮かべているのが見えた。
「いや、いやああああああ!」
私が愛した男は、私の夫を殺そうとした男だった。
ラケトは、私を騙していたのだ。
白々しく助けたふりをして、夫だと偽って。
私はあの男を、あの男と、ああ、ああ、あああ。
もう分からない、もう何もかも。
私は裏切っていた、夫を、何も知らず、ただあの男の言われるままに。
「……!?アリッサ!?……ぐ、あっ!?」
一瞬の油断だった。
ベルドから大量の血が吹きこぼれる。
私はただそれを、ただそれを呆然と眺める事しか出来なくて。
あいした男の暖かな血が流れおちる所を、2度も見る事しか出来なくて。
ラケトが私を見据える目はとても愛おし気で、背筋が凍るのに。
ラケトがくれた優しさを確かに思いだせる事に吐き気がして。
ラケトが私に触れる手が愛おしいという気持ちが沸き上がって、死にたくなった。
私が愛したのは、だぁれ?
「さぁ、今日のご飯はオムライスだよ」
「……」
人形のように動かない女性に男が話しかける。
ご飯をのせたスプーンを口に運んでも、開くことはない。
ただ口元が汚れて、それを拭きとって、クスクスと男はおかしそうに笑う。
「リサは本当に可愛いね」
彼女のベッドの下のには大量の魔法陣がえがかれており、死なないように、逃げないように、ただそこに縛りつけられている。
人形のような女の前で、マフラーを巻いた男だけが幸せそうに笑っていた。
ハッピークリスマス!
ラケトとの生活で寂しいと感じていたのは、ベルドが手のかかる旦那だったから。
記憶にはなかったが、体に染みついた慣れが寂しいと思わせていた。