二
ある日、同じく藩邸に身を隠している岡田という同僚が、紘太郎の素行に苦言を呈した。
「お屋敷の金を持ち出しているようだが、大丈夫なのか?あれは山陵御修補に充てる資金のはず」
紘太郎と近しい間柄にある岡田は、先の坂下門外の計画でも重要な役割を果たした過激派である。
「お前のような跳ね返りが後を断たん。彼らを奉行所から身請けするために必要な金だ」
紘太郎は強気を装いそう言い繕ったが、おそらく岡田には見透かされていた。
「本当に?お前の色里通いはもう屋敷内に知られているぞ?戸田忠至様(山陵御修補を指揮していた人物)が不審を抱く前に金を戻しておけ」
紘太郎の背中を冷や汗が伝った。
「そんなのじゃない!お、俺が自分の金で誰と遊ぼうが、お前の知ったことか」
「お前は、その女を落とせると思っている自分に酔っているだけではないのか」
友人として忠告は、熱に浮かされる紘太郎の耳には届かなかった。
逢瀬は十度目を越えていた。
手渡された鼈甲の簪に視線を落としながら、明里は軽く眉を寄せた。
「こんな高いものばかり…本当に平気なの?」
まるで岡田の台詞だった。
「なに、これも甲斐性のうちだ」
紘太郎の健気な献身をさすがに不憫と思ったか、明里はため息とともに、ある秘密を漏らした。
「けれど、廓なんかで遊んでいていいのかしら?お屋敷に内偵が入るって聞いたわ」
床柱に背中を預けていた紘太郎はとっさに身を起こし、明里に這い寄るとその瞳をまじまじと覗き込んだ。
「そ、それはほんとうか?」
「…さあね」
「なぜそんなことを私に教える?」
明里は紘太郎の耳元に、吐息のような甘い声で囁いた。
「…そう教えてやれと言われたの」
心臓が鳴った。
「…だ、誰に?」
「聞くのは野暮よ。お上は不逞浪士を捕まえたい。けれど御陵の普請を任された大名邸に踏み込んで、大事にするのは本意じゃないってこと」
「ど、ど、どういうことだ?」
酒と色情で霞のかかった紘太郎の頭では、その行間に隠された意図まで読み取れない。
「貴方が連中を屋敷から追い出し、門の外で彼らが捕縛されても、それは主家の関知するところじゃない。そうでしょ?お屋敷も厄介払いができて清々する」
「つまり、私に裏切れと?」
「お家を騒動に巻き込むのは裏切りじゃないの?もっとも、貴方自身が連中の仲間だと言うなら話は別だけど」
「そ、そんなことはないさ」
「そう?けど、京都守護職は本気みたいよ?」
紘太郎は慌てて上着を羽織ると、藩邸へ駆け戻り、そこに巣食うお尋ね者たちを追い立てた。
「ここに居ては危ない。一刻も早く逃げるんだ!」
彼らを裏切るつもりはなかった。
しかし、ここにいても早晩浪士組が踏み込んでくる。
同僚の岡田が反駁した。
「面の割れている俺たちに、いったい何処へ行けと言うのだ」
そう。 問題はそれだった。
潜伏先を追われて集まってきた彼らには、もう行く宛がない。
「だが!」
紘太郎は、角屋で聞かされた話を打ち明けた。
「だから、京を離れろ。京都守護職の手が届かない場所へ逃れればいい」
岡田は笑い飛ばした。
「お前は女に揶揄われているのさ。お上も我らのような小藩にかまっている暇はなかろう」
今で言うところの確証バイアスが皆の判断を狂わせていた。
明里のもたらした情報は退けられ、紘太郎は不安を残したまま引き下がるほかなかった。
胃痛と不眠は募り、それを紛らわせようとまた遊里に足が向く。
そんなある日。
明里が盃に酒を満たしながら尋ねた。
「胸の支えはとれた?」
それどころか。
明里と初めて分かち合った秘密は、紘太郎の背負う荷をさらに重くしていた。
酌をする明里の首筋から漂う白檀の香り。
紘太郎はついに我を失い、 甘美な欲望に身を任せて、明里を押し倒そうとした。
「明里」
が、酔っていたせいか足をもつれさせ、明里の膝頭に額を打ちつけた。
「大丈夫?」
明里がそっと肩に手を置いた。
これでは、まるで組み伏せられた格好ではないか。
もう恥も外聞もなかった。
「おまえは、私が嫌いなのか?」
紘太郎がすがりつくと、明里は少し考えた。
「…そんなことはないかも。けれど、今のは横紙破りね」
涼しい顔をしているのは、こうしたことに慣れているせいだろう。
その日も朝帰りをした紘太郎を、同僚の岡田が玄関に仁王立ちして出迎えた。
「その額の傷はどうした?」
紘太郎は慌てて額を抑える。
「これは…なんでもない」
「おおかた、例の女にこっぴどく袖にされたんだろう?」
「バカ言え」
岡田は紘太郎の醜態を見兼て忠告した。
「いつまでそんな商売女に入れあげてるのだ」
「彼女は商売女ではない。それどころか指一本触れさせんのだ」
岡田は目を丸くした。
「は!これは驚いた。おまえは手も触れたことのない女に金を貢いでいるのか?」
「うるさい!これは、俺と明里の手合い(ゲーム)なのだ」
「益体もない。これでも飲ませてさっさと手籠めにしてしまえ」
岡田は懐から取り出した小さな陶磁器の壺を、紘太郎の手に握らせた。
「…これは?」
「舶来のカンタリスという薬だ」
闇の商取引にも通じる岡田は、何処からか怪しげな媚薬を手に入れていた。
「馬鹿にするな。こんなものに頼らなくても落として見せる」
「ふふ、ではお手並み拝見と行こう」
岡田は笑いながらその場を立ち去り、媚薬は紘太郎の手元に残された。
その夜の明里は、どこかいつもと違っていた。
まるで陽炎のように縮まらない二人の距離が、なぜか今夜だけは近い。
なぜだろう。
「今日はずいぶんもの静かなのね」
明里の言葉が、形になりつつあったかすかな違和感をかき消してしまった。
「それは褒めているのか」
明里が薄く頬を緩める。
行燈の薄明かりが、その横顔の輪郭を柔らかく縁取っていた。
滅多に見せることにないその笑みが、紘太郎にはまるで誘っているように感じられた。
彼の内にある黒い炎が、僅かばかりの良心の呵責と、自らの節を曲げることへの挫折感を凌駕して、
なにかのタガが外れる音がした。
どうしてもこの美しい女を自分のものにしたい。
明里の目を盗み、銚子に舶来の媚薬を垂らす。
「お前も飲め」
時の過ぎるのが、妙にゆっくりと感じられた。
階下で酔客が騒ぐ声に混じって鈴虫の声が聴こえてくる。
二本の銚子が空になり、
やがて明里のうなじに薄く紅が差した。
「変ね。酔ったみたい。なんだか暑いわ」
打掛と掛下を脱ぎながら、明里が妖しく微笑む。
あの媚薬が効いている?
目のやり場に困った紘太郎は、床の間に生けられた芙蓉に視線を泳がせた。
気が付けば、明里は襦袢姿になっている。
紘太郎の心臓が早鐘のように打った。
注釈
・色里:遊郭がある地域のこと。島原などを指す。
・角屋:京都・島原にあった代表的な「揚屋」(高級な宴席や遊興を提供する施設)。
・横紙破り:道理に合わないことを押し通すこと。強引なふるまい。
・カンタリス:ツチハンミョウ科の昆虫から抽出される成分を元にした媚薬・薬物。
・確証バイアス:自分の仮説や信念に合う情報ばかりを集め、反対の意見や都合の悪いデータを無視・軽視する認知の偏り




