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剣詩舞  作者: 子父澤 緊
2/3

二

ある日、同じく藩邸(はんてい)に身を隠(かく)している岡田という同僚(どうりょう)が、紘太郎(こうたろう)の素行(そこう)に苦言(くげん)を呈(てい)した。

「お屋敷の金を持ち出しているようだが、大丈夫(だいじょうぶ)なのか?あれは山陵(さんりょう)御修補(ごしゅうほ)に充(あ)てる資金のはず」

紘太郎(こうたろう)と近しい間柄(あいだがら)にある岡田は、先の坂下門外(さかしたもんがい)の計画(けいかく)でも重要な役割(やくわり)を果たした過激派(かげきは)である。

「お前のような跳ね返りが後を断たん。彼らを奉行所(ぶぎょうしょ)から身請(みう)けするために必要な金だ」

紘太郎(こうたろう)は強気を装いそう言い繕(つくろ)ったが、おそらく岡田には見透(みす)かされていた。

「本当に?お前の色里(いろざと)通いはもう屋敷(やしき)内に知られているぞ?戸田(とだ)忠至(ただゆき)様(山陵(さんりょう)御修補(ごしゅうほ)を指揮(しき)していた人物)が不審(ふしん)を抱(いだ)く前に金を戻しておけ」

紘太郎(こうたろう)の背中(せなか)を冷や汗(あせ)が伝(つた)った。

「そんなのじゃない!お、俺が自分の金で誰と遊ぼうが、お前の知ったことか」

「お前は、その女を落とせると思っている自分に酔(よ)っているだけではないのか」

友人として忠告(ちゅうこく)は、熱に浮かされる紘太郎(こうたろう)の耳には届かなかった。




逢瀬(おうせ)は十度(じゅうど)目を越えていた。

手渡された鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)に視線を落としながら、明里(あけさと)は軽く眉(まゆ)を寄せた。

「こんな高いものばかり…本当に平気なの?」

まるで岡田の台詞(せりふ)だった。

「なに、これも甲斐性(かいしょう)のうちだ」


紘太郎(こうたろう)の健気(けなげ)な献身(けんしん)をさすがに不憫(ふびん)と思ったか、明里(あけさと)はため息とともに、ある秘密を漏(も)らした。

「けれど、廓(くるわ)なんかで遊んでいていいのかしら?お屋敷(やしき)に内偵(ないてい)が入るって聞いたわ」

床柱(とこばしら)に背中を預けていた紘太郎(こうたろう)はとっさに身を起こし、明里に這(は)い寄るとその瞳(ひとみ)をまじまじと覗(のぞ)き込んだ。

「そ、それはほんとうか?」

「…さあね」

「なぜそんなことを私に教える?」

明里(あけさと)は紘太郎(こうたろう)の耳元(みみもと)に、吐息(といき)のような甘い声で囁(ささや)いた。

「…そう教えてやれと言われたの」

心臓(しんぞう)が鳴った。

「…だ、誰に?」

「聞くのは野暮(やぼ)よ。お上(かみ)は不逞(ふてい)浪士(ろうし)を捕(つか)まえたい。けれど御陵(ごりょう)の普請(ふしん)を任された大名邸(だいみょうてい)に踏み込んで、大事(おおごと)にするのは本意(ほんい)じゃないってこと」

「ど、ど、どういうことだ?」

酒と色情で霞(かすみ)のかかった紘太郎(こうたろう)の頭では、その行間に隠された意図まで読み取れない。

「貴方(あなた)が連中(れんちゅう)を屋敷(やしき)から追い出し、門の外で彼らが捕縛(ほばく)されても、それは主家(しゅけ)の関知(かんち)するところじゃない。そうでしょ?お屋敷(やしき)も厄介(やっかい)払いができて清々(せいせい)する」

「つまり、私に裏切れと?」

「お家(いえ)を騒動(そうどう)に巻き込むのは裏切りじゃないの?もっとも、貴方(あなた)自身が連中(れんちゅう)の仲間だと言うなら話は別だけど」

「そ、そんなことはないさ」

「そう?けど、京都(きょうと)守護職(しゅごしょく)は本気みたいよ?」


挿絵(By みてみん)


紘太郎(こうたろう)は慌(あわ)てて上着(うわぎ)を羽織(はおり)ると、藩邸(はんてい)へ駆け戻り、そこに巣食(すく)うお尋(たず)ね者たちを追い立てた。

「ここに居ては危ない。一刻(いっこく)も早く逃げるんだ!」

彼らを裏切るつもりはなかった。

しかし、ここにいても早晩(そうばん)浪士組が踏み込んでくる。


同僚(どうりょう)の岡田が反駁(はんばく)した。

「面(めん)の割れている俺たちに、いったい何処(どこ)へ行けと言うのだ」

そう。 問題はそれだった。

潜伏先(せんぷくさき)を追われて集まってきた彼らには、もう行く宛(あて)がない。

「だが!」

紘太郎(こうたろう)は、角屋(すみや)で聞かされた話を打ち明けた。

「だから、京を離れろ。京都守護職の手が届かない場所へ逃れればいい」

岡田は笑い飛ばした。

「お前は女に揶揄(からか)われているのさ。お上(かみ)も我らのような小藩(しょうはん)にかまっている暇(ひま)はなかろう」

今で言うところの確証バイアスが皆の判断を狂わせていた。

明里のもたらした情報は退けられ、紘太郎(こうたろう)は不安を残したまま引き下がるほかなかった。



胃痛(いつう)と不眠(ふみん)は募(つの)り、それを紛(まぎ)らわせようとまた遊里(ゆうり)に足が向く。


そんなある日。

明里が盃に酒を満たしながら尋(たず)ねた。

「胸の支(つか)えはとれた?」

それどころか。

明里と初めて分かち合った秘密は、紘太郎(こうたろう)の背負う荷(ストレス)をさらに重くしていた。

酌(しゃく)をする明里(あけさと)の首筋(くびすじ)から漂(ただよ)う白檀(びゃくだん)の香り。

紘太郎(こうたろう)はついに我を失い、 甘美(かんび)な欲望(よくぼう)に身を任せて、明里(あけさと)を押し倒そうとした。

「明里(あけさと)」

が、酔(よ)っていたせいか足をもつれさせ、明里(あけさと)の膝頭(ひざがしら)に額(ひたい)を打ちつけた。

「大丈夫?」

明里がそっと肩に手を置いた。

これでは、まるで組み伏せられた格好ではないか。

もう恥(はじ)も外聞(がいぶん)もなかった。

「おまえは、私が嫌いなのか?」

紘太郎(こうたろう)がすがりつくと、明里(あけさと)は少し考えた。

「…そんなことはないかも。けれど、今のは横紙(よこがみ)破りね」

涼しい顔をしているのは、こうしたことに慣れているせいだろう。



その日も朝帰りをした紘太郎(こうたろう)を、同僚(どうりょう)の岡田が玄関に仁王立ちして出迎えた。

「その額(ひたい)の傷(きず)はどうした?」

紘太郎(こうたろう)は慌てて額(ひたい)を抑える。

「これは…なんでもない」

「おおかた、例の女にこっぴどく袖(そで)にされたんだろう?」

「バカ言え」

岡田は紘太郎(こうたろう)の醜態(しゅうたい)を見兼(みかね)て忠告(ちゅうこく)した。

「いつまでそんな商売女(しょうばいおんな)に入れあげてるのだ」

「彼女は商売女(しょうばいおんな)ではない。それどころか指一本触れさせんのだ」

岡田は目を丸くした。

「は!これは驚いた。おまえは手も触れたことのない女に金を貢(みつ)いでいるのか?」

「うるさい!これは、俺と明里(あけさと)の手合い(ゲーム)なのだ」

「益体(やくたい)もない。これでも飲ませてさっさと手籠(てご)めにしてしまえ」

岡田は懐(ふところ)から取り出した小さな陶磁器(とうじき)の壺(つぼ)を、紘太郎(こうたろう)の手に握(にぎ)らせた。

「…これは?」

「舶来(はくらい)のカンタリスという薬だ」

闇の商取引(しょうとりひき)にも通じる岡田は、何処(どこ)からか怪(あや)しげな媚薬(びやく)を手に入れていた。

「馬鹿(ばか)にするな。こんなものに頼(たよ)らなくても落として見せる」

「ふふ、ではお手並み拝見(はいけん)と行こう」

岡田は笑いながらその場を立ち去り、媚薬(びやく)は紘太郎(こうたろう)の手元に残された。




その夜の明里(あけさと)は、どこかいつもと違っていた。

まるで陽炎(かげろう)のように縮まらない二人の距離が、なぜか今夜だけは近い。

なぜだろう。

「今日はずいぶんもの静かなのね」

明里の言葉が、形になりつつあったかすかな違和感をかき消してしまった。

「それは褒(ほ)めているのか」

明里(あけさと)が薄く頬(ほお)を緩める。

行燈(あんどん)の薄明かりが、その横顔(よこがお)の輪郭(りんかく)を柔らかく縁取(ふちど)っていた。

滅多に見せることにないその笑みが、紘太郎(こうたろう)にはまるで誘っているように感じられた。

彼の内にある黒い炎が、僅かばかりの良心の呵責(かしゃく)と、自らの節(せつ)を曲げることへの挫折感(ざせつかん)を凌駕(りょうが)して、

なにかのタガが外れる音がした。

どうしてもこの美しい女を自分のものにしたい。


明里(あけさと)の目を盗み、銚子(ちょうし)に舶来(はくらいい)の媚薬(びやく)を垂らす。

「お前も飲め」


時の過ぎるのが、妙にゆっくりと感じられた。

階下で酔客(すいきゃく)が騒ぐ声に混じって鈴虫の声が聴こえてくる。

二本の銚子(ちょうし)が空になり、

やがて明里(あけさと)のうなじに薄く紅(べに)が差した。

「変ね。酔ったみたい。なんだか暑いわ」

打掛(うちかけ)と掛下(かけした)を脱ぎながら、明里(あけさと)が妖(あや)しく微笑む。


挿絵(By みてみん)


あの媚薬(びやく)が効いている?


目のやり場に困った紘太郎(こうたろう)は、床の間に生けられた芙蓉(ふよう)に視線を泳がせた。


気が付けば、明里(あけさと)は襦袢(じゅばん)姿になっている。

紘太郎(こうたろう)の心臓(しんぞう)が早鐘(はやがね)のように打った。



注釈

・色里(いろざと):遊郭(ゆうかく)がある地域のこと。島原などを指す。

・角屋(すみや):京都・島原にあった代表的な「揚屋(あげや)」(高級な宴席や遊興を提供する施設)。

・横紙(よこがみ)破り:道理に合わないことを押し通すこと。強引なふるまい。

・カンタリス:ツチハンミョウ科の昆虫から抽出される成分(カンタリジン)を元にした媚薬・薬物。

・確証バイアス:自分の仮説や信念に合う情報ばかりを集め、反対の意見や都合の悪いデータを無視・軽視する認知の偏り

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