一
初めてその女を見たとき、松本紘太郎は息を吞んだ。
やはり都は、国許の宇都宮とはわけが違う。
揚屋の一室。
その天神が入って来たとき、たしかに座敷の空気が変わった。
「松本先生?」
まるで睥睨するような視線。
客であるはずの紘太郎が気後れした。
「先生はよしてくれ」
「今日はお一人?」
「大勢で騒ぐのは苦手でね」
「初見のお客様と二人きりなんて…」
紘太郎は主導権を取り返そうと、人差し指を立ててその先を制した。
「遊里の習わしに反する?だが私は角屋の上得意なのだ」
天神は苦笑しながら軽く首を振った。
「気にしないで。刺激的だわ」
話は遡る。 前年の二月のことだ。
松本紘太郎は坂下門外で起きた老中・安藤信正暗殺未遂の実行犯に連座して、軽追放の処分を受けた。
何もかもタイミングが悪かったのだ。
そのころ、紘太郎は攘夷実行を一橋慶喜へ上申しようと、密かに江戸へ上っており、諸々の手筈を相談したのが、“たまたま”事件の首謀者と目される大橋訥庵であった。
しかし彼の寓居に出入りしていたことで、安藤襲撃を企てた一派の一員と見なされてしまった。
行き場所を失った紘太郎は、ひとまず京の宇都宮藩邸に身を潜めることにした。
宇都宮のような小藩は幕府の警戒網から外れていたせいもあって、いつしか京の下屋敷(藩邸)は、紘太郎のような「不逞浪士」の受け皿になっていた。
件の暗殺未遂事件の後、宇都宮藩は幕府や朝廷のご機嫌を取るため躍起になっており、自ら提案した天皇陵の補修工事に追われ、とても藩邸に出入りする不審者にまで目を光らせる余裕などなかった。
そんなわけで、紘太郎は半ば黙認される形で下屋敷に居つき、なし崩しに匿まっている不穏分子たちの監督を任されることになった。
文久三年の京。
宇都宮藩邸は過激派の巣窟のようになっており、いつご公儀の手入れがあるのかと、紘太郎は気が気でない。
元々は剣舞だけが趣味というお堅い男だったが、薄氷を踏むような日々の反動で、遊里通いがやめられなくなった。
しかし半年もすれば、流石にお座敷遊びにもそろそろ飽きていた。
「たまには変わった女と遊びたいのだが」
ある日、そう申し入れると、茶屋の主人は顎を擦りながら意味ありげに紘太郎の顔を窺った。
「おもしろい女、ねえ…ひとり、おるにはおりますが」
明里。
そういう名の天神が輪違屋にいるらしいが、細見(遊郭のガイドブック)にも載っていないという。
「天神の位にある遊女が、細見に名がないというのはおかしいじゃないか。なぜだ?」
「なにやら訳ありらしいんどすが、詳しいところは分からへんのどす」
聞けばかなり風変わりな女で、もう年季が明けているのに脚を洗おうとしないそうだ。
「では、よほどの年増なのか?」
「いえいえ!見たところまだ二十にも届かんくらいの歳ですが、あまりの美貌に大名のお座敷からお呼びが絶えず、あっという間に借金を返したんやそうどすえ?」
紘太郎は半信半疑ながら、ひどくその話にそそられた。
「おもしろい。ではその女を呼べ」
「お気持ちは分かりますが、それはあまりええ考えとは言えまへんなあ」
茶屋の主人は意味深長な言い回しで予防線を張った。
「どうして?」
「どうもその女は、壬生狼の幹部と出来てるらしいという噂がございまして」
壬生浪士組。
自らも潜伏中の紘太郎としては、最も会いたくない相手ではある。
「しかもその女は決して客に身体を許さず、手も握らせへんのどす」
「なぜそんな女が人気なのだ」
「そこどす」
客は皆、ならば自分がその女を落としてやろうとムキになって付け文をするのだそうだ。
今や一端の伊達男を自負する紘太郎は、それを聞いて急に闘志を燃やした。
「なら、俺がその女を落とした最初の男になってやろう」
女を篭絡して浪士組の内情を引き出すことが出来れば、手入れを前もって察知できる。
攻撃は最大の防御というではないか。
話は冒頭に戻り、そして明里天神は現れた。
月光をすくったような肌。
水鏡のような瞳。
それは紘太郎の想像を上回る美しさだった。
しかし、距離を詰めるには駆け引きも必要だ。 紘太郎は彼女の気を引こうと、あえて突き放してみた。
「おまえには愛想というものがないな」
明里は評判通りの不機嫌さで、煙管を吹かした。
「あら?私だって面白ければ笑います」
「お前は壬生狼の女だというではないか。わが藩は先般の坂下門の一件にも関わった札付きだ。私と床入りすれば面白い寝物語が聞けるかもしれんぞ?」
「そういう無粋な話には興が乗らないの」
明里は素っ気ない。
どんな話を振ってみても、上手く躱して本心を明かさなかった。
そこから、紘太郎の島原通いが始まった。
しかし、何度揚屋入りを重ねても、明里は自分の流儀を曲げなかった。
紘太郎の話が退屈だと、ウトウト眠ることすらある。
しかし紘太郎は腹を立てるどころか、その無垢な寝顔に魅入られた。
彼女には、そこにいるだけでモノトーンの世界を鮮やかな色彩に塗り替えるような存在感があった。
紘太郎は彼女の気を引くために高価な贈り物を貢ぎ続けた。
藤が散り、紫陽花が咲き、朝顔(あさ顔)が盛りを過ぎても、紘太郎の熱が冷めることがなかった。
紘太郎は明里のために金を溶かし、やがて藩の金にまで手をつけるようになった。
注釈
・坂下門外の計画:文久2年(1862年)に江戸城坂下門外で尊皇攘夷派の浪士らが老中・安藤信正を襲撃した「坂下門外の変」のこと。
・不逞浪士:幕末期に、幕府の統制に従わず過激な政治活動や治安悪化を引き起こしていた浪人たち。
・横紙破り:道理に合わないことを押し通すこと。強引なふるまい。
・島原:京都にあった幕府公認の花街(花柳界)。
・壬生浪士組:後の「新選組」の前身組織。京都の壬生村を拠点として治安維持を行っていた。
・天神:江戸時代の遊女の格付け(ランク)の一つで、太夫に次ぐ上位の遊女。




